事故・事件多く自由な梁山泊
平成6年(1994)8月1日、突然の辞令が出て大阪読売社会部枚方支局長から阪神支局3席に異動となった。機嫌良く記者+支局長生活を送っていたので、青天の霹靂だった。まあ、異動というのは、半分以上、”霹靂”なのだが。
しかし、異動の理由を阪神支局に行って聞かされると正直、腹が立った。当時の中島広支局長と真鍋和彦次席が口を揃えて言った。「なんや! 社会部長にはデスク編集機をもう1台くれ、と言ったのに、安富が来たのか」。何と失礼な! この頃の読売新聞では手書き原稿→ワープロ原稿を経て、パソコン原稿に移行する期間で支局ではデスク編集機が導入され、IT化が進められていた。確かまだフロッピーディスクだったと思うが、記者はワープロに打った記事をフロッピーに保存して、それを支局の編集機に移行していた。要するに、阪神支局にはデスク編集機が1台しかないため、主に編集作業をする次席の他に、支局長や3席が作業するデスク編集機が欲しい。その代わりに筆者が来たから、「何や!」と本音を漏らしたのだ。
しかし、筆者は全く落胆していなかった。というのも、大阪読売社会部阪神支局という部署は、少し特殊な所だったので、「一度は赴任したい」と思っていたからだし、この支局は社会部の「梁山泊」と呼ばれていたからだ。阪神支局が管轄するのは兵庫県の東南部、西から芦屋、西宮、尼崎、北へ伊丹、川西、宝塚、三田の7市と猪名川町だった。何故か読売だけでなく朝日、毎日の他社も同じように社会部管内の支局だった。
大事件や大事故、行政の不正などが極めて多い地域である。グリコ森永事件の発端となった江崎社長誘拐事件や、朝日新聞阪神支局襲撃事件、尼崎市内の警察署幹部の不正事件、尼崎市のカラ出張などが次々と明るみに出るなど“新聞沙汰”に事欠かない地域なのだ。社会部本隊とは別の部隊なのだが、大阪府と兵庫県と府県が違う以上に、本隊とは離れていることこともあって、自由でかつ先鋭的でもあった、非常に面白い組織形態だ。そんな支局だから歴代優秀な記者を輩出してきた。そこに所属することは非常な楽しみでもあった。
夜8時から飲み会、大らかな大人の支局
阪神尼崎駅近くにあった支局には平成6年当時、支局長、次席、3席にアルバイトの女性、運転手兼カメラ担当5人が常駐。尼崎市、西宮、芦屋、伊丹、川西、宝塚、三田の市役所担当と、尼崎の警察担当の計10数人がいた。楽しい支局だった。朝9時過ぎに支局に到着して、大きな事件、事故がなければ、のんびりと午前中を過ごす。もちろん、社会部管内だから週に数回は夕刊への出稿があるが、地方支局とは違って経験を積んだ記者たちの原稿だから、手馴れたもので、そんなに手間はかからない。次席も社会部本隊の各部署、遊軍などを経験し、部次長手前のベテランだ。三田版と阪神版の2県版を持ち、全国版の紙面にも有機的に関与する極めて大人の支局だった。本隊の府警本部回りや司法担当、府庁や大阪市役所担当の、ある意味でギスギスした仕事ぶりに比べると、楽しく大らかな、確かに梁山泊だった。
概ね、夜8時を過ぎ、全国版の大きな記事の出稿がなければ、支局長、次席、3席、それに若い数人の記者たちと、夕食を兼ねた飲み会に出る。近くには阪神尼崎駅周辺の繁華街があり、たまには2次会まで行き、11時過ぎに支局に戻り、阪神版の点検を済ませて、午前0時過ぎに支局からタクシーで帰宅。翌日、9時過ぎに出社するという毎日だ。次席が休む土曜日か日曜日に、3席が代わりにデスク稼業をする。3席は普段の日は、次席の手伝いで原稿を見たり、場合によっては、自ら取材に出て原稿も書いたりする。まあ、気楽な立場だった。
子どもとプール! と思ったらポケベル
そんな楽しい支局生活だったが、一つだけ、“澱”のように思い出すことがある。それは、全ての新聞記者が経験する「休みの日に限って事件、事故が起きて呼び出される」ことだ。事件を担当する部門にいればいるほど、その回数は増えるだが、運の悪い記者はいるものだ。筆者はどちらかと言えば、そちら側だった。終始記者時代は。阪神支局に転勤になってすぐの8月の暑い日だった。三田の自宅で初めて家族と一緒に住むことになった最初の休日だった。8歳の娘と2歳の息子と、近くの市営プールに行く約束をしていた。
10時頃だったか、浮き輪とビーチボールを持った2人と玄関を出ようとしたその瞬間、ポケットベルが鳴った。「ヤバい!」。支局に電話を入れると案の定、三田市内のJR福知山線新三田駅近くの踏切で、トラックと電車が衝突する脱線事故が起きた。けが人はなかったが、もちろん大事故だ。すぐに、現場に向かった。娘の「またぁ!」という声を背中に聞いた。こういうことは、この時、これ以前、これ以後も何度もあった。新聞記者の宿命とも言えるのだが。
阪神支局も花見の桜も…今は昔
この項を書くために先日、久しぶりに阪神尼崎駅界隈を歩いた。今は支局は西宮に移転したが、阪神・淡路大震災が起きた1995年頃は尼崎市の南部、国道2号線の十間という交差点を北へ50mほどの所にあった。安藤病院、PL教団尼崎中央教会とあってその北隣だった。ほぼ30年ぶりに支局跡を見て、驚いた。今も安藤病院とPL教団はあるが、もちろん、読売新聞阪神支局はない。10mほどの所に平屋の事務所がったが、こんなに狭い所だったっけ? そう思って、裏に回ってみた。当時、支局から飲みに出る時は必ずと言っていいほど、裏口から出ていたからだ。裏に駐車場があって大きな桜の木が1本あった。その下で花見の宴会をしたこともある。裏から見ると、PL教団駐車場に面影があった。憶測だが、安藤病院が北に拡張したのだろう。そして、旧阪神支局の裏の駐車場が今のPL駐車場なのだろう。
懐かしい町、行きつけの飲み屋は消えた
ふと、最近観たフランス映画「パリタクシー」が脳裏に過ぎった。90歳を過ぎたヒロインが昔住んだ所や働いた場所を巡る。面影はない。そんな悔しい気分だった。でも、阪神尼崎付近は古い繁華街だ。馴染みの店はほとんどなくなっていたが、商店街や飲み屋街の雰囲気は残っている。よく行った老舗の焼き鳥屋さんは健在だ。串カツ屋や焼き肉屋も残っていた。場所を変えても。2時間弱だったが、懐かしい街だった。以前に書いた、阪神・淡路大震災が発生した時に、応援取材班らが宿泊したラブホテル群はグンと少なくなっていた。路地を入った所の行きつけの飲み屋さんはもうない。(つづく)
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