爆弾? コップ数個割れる
阪神・淡路大震災から17日で28年が過ぎた。この連載の只今は、平成3年だから、まだ4年ある。今回は連載開始から初めて震災忌を迎えたのものだから、特別編として、阪神・淡路大震災に触れよう。
平成7年(1995)1月17日午前5時46分に未曾有の大地震が淡路、阪神間を襲った。筆者は当時、大阪読売社会部阪神支局で次席と言って支局長に次ぐNo.2。と言っても10数人いる支局のデスク。この年は、日本が戦争に負けてちょうど50年の節目の年だった。新聞各紙は年頭から「戦後50年」と銘打った連載企画などを始めていた。
阪神支局でも、地域版の阪神版で連載していた。西宮、尼崎、芦屋、伊丹、川西などを管内に持つ支局だけに、ターゲットをスポーツに絞って、甲子園(野球、アメリカンフットボール)西宮球技場(サッカー)などなどの逸話を綴った。その連載の最終回が17日だった。
通常、新聞社では当時、連載記事が終わると、打ち上げ、と称して酒を飲む。何もなくても毎晩酒を飲んでいるのだが、こんな日は更に大っぴらに飲める。嫁さんにだが。16日も支局で宴会が催された。阪神支局は伝統的に支局の編集スペースが宴会場に早替わりして、酒盛りがたびたび行われていたから、この日も特別ではなかった。
調子が出ると、街に繰り出して歌いに行くのだが、この日は連載最終回の出稿が遅くなり、支局だけで深夜1時過ぎまで盛り上がった。いつものように、同じ三田市内に住んでいる3席の佐藤浩さんとタクシーで帰宅した。多分3時近かったと記憶する。
数時間後、爆弾が落ちた。と思った。すざまじい爆音と共に家が揺れた。筆者は2階の自室で1人で寝ていた。飛び起きて、隣室にいる嫁さんと娘、息子を見に行った。息子は泣いていたが、皆んな無事だった。階下に降りて、台所などを見たが、ガラスコップが数個割れているだけだった。
まだ真っ暗だったが外に出ると、近所の人たちも何人か出ていた。「なんだったんですかね?」「地震のようですね」。のんびりした会話だった。家に戻ってテレビを付けると、「近畿地方で大きな地震」と伝えているが、詳細はわからない。支局のデスクなので、すぐに阪神支局に電話した。繋がった。泊まり勤務のY君が出た。
「結構揺れましたよ。でも、支局内の被害は、昨日飲んでテレビの横に置いていた一升瓶が落ちて割れたくらいです」
なんともはや。
次に大阪本社社会部デスクに電話を入れた。こっちも繋がった。泊まり当番デスクのK次長が、意外にものんびりした声で出た。「大阪は大したことないみたいだけど、神戸が大変なようだ。君はとにかく、支局に出てくれ」。東京から出向できていたこの次長は大酒飲みで呑気な人だった。後で聞いた話だが、あの揺れで社会部のソファで寝ていたがぐっすり眠っていたそうで、起きてきた社会部員に起こされて初めて地震が起きたことを知ったとか? こちらもなんともはや、だ。
家崩れ、あちこちに炎
ともかく、支局に出ようと、嫁さんに車で最寄り駅に送ってもらったが、電車は動いていない。嫁を自宅に連れて帰ってからマイカーで尼崎にある支局に向かった。中国自動車道の三田インターから入ろうとしたら、封鎖されていたので、仕方なく、国道176号線で南下する。西宮北インター付近から名塩を抜ける際に、大きな余震、多分震度4が来た。渋滞の名塩の崖下にいたので生きた心地がしなかった。
宝塚市街に入ると、壊れた家が崩れ落ち、火事があちこちで発生していた。横目に南に進む。カーラジオから、次第に被害を伝える様子が流れる。最初に驚いたのは、芦屋市内で数十人が行方不明! 次いで阪神高速道路が倒壊した! で、8時15分過ぎにNHKが伝えた、「神戸が燃えている!」。腰を抜かしかけた。ふるさとが!
6時過ぎに家を出て、3時間以上かかり9時過ぎに支局にたどり着いた。支局には、Y君、伊丹に住むMさんと吹田のKさんら3人だけだった。
翌朝の一面は「死者200人」
社会部に再び、電話をするも、「神戸、阪神間は壊滅的な被害だ。とにかく何でもいいから、記事を送ってくれ!」と。支局のファックスは生きていたので、次々と支局に上がって来た記者たちの書いた原稿をとにかく送った。しかし、電話回線が輻輳していて写真が送れない。大阪市北区の本社から取りに来たバイクに手渡す。往復に何時間もかかった。だから、その日の夕刊に載った写真は大阪市内のものばかり。翌日朝刊の一面見出しは、「死者200人」だった。
夕方にかけて、阪神支局員と本社社会部員らが続々と支局に来た。大阪はほとんど被害が無いので、社会部員は尼崎に。神戸に住む社会部員は一部、神戸総局に行った。そこから長く苦しい震災取材が始まった。
ところで、夜になっても阪神支局長(当時)の中島広さんとは、連絡が付かない。中島支局長は神戸市東灘区の山手のマンション住まいだった。激震地なので非常に心配だった。筆者の両親と弟とは、夕方までに奇跡的に連絡が取れ、無事が判明した。深夜遅く、中島支局長から電話が入った。「倒れた家具に挟まれて脱出に時間がかかったが怪我はなく、無事だ」と。文字通り支局員一同、胸を撫で下ろした。
それから、怒涛の日々が始まった。詳しくは、4年後に!(続く)
【お断り】 今回は敢えて、写真もスクラップもなく、皆さまの想像力だけに頼る記事としました。
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