映画「北風アウトサイダー」を観て  水野阿修羅(釜ヶ崎在住)/映画ヒョーロクダマ(ライター)

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映画ヒョーロクダマ(ライター)

オモニの言葉から始まる、家族の逆説的悲劇

物語が始まった時点ではすでに不在のオモニ。彼女が、かつて長男ヨンギの嫁に放った言葉

「…ポンポン子どもを生んで出来んチョロ夫婦に一匹やったらええ」

これこそが、家族の悲劇の元凶です。みんなに愛されたオモニ。一族血族の磁場となったオモニ。その彼女の何気ない放言が、ヨンギの病みと彷徨につながり、弟チョロ一家、ヨンギの実の娘のナミの苦悩にまでつながっていく。この皮肉な因果が、本作の最も需要なポイントになっていると思います。

「ポンポン子どもを生んで…」という言葉はオモニの世代にとっては悪意でもなんでもないのでしょう。日本を始めとする東アジアの近代・現代に定着した「産めよ増やせよ」の意識。それを形成したのは「富国強兵」の国家意思です。国による暴力の収奪と軍事化のために、男たちは徴兵され、女たちは銃後の労働力として搾取される。

戦後の日本や朝鮮戦争後の韓国では、同じことが産業復興という美名のもとに行われました。北朝鮮では社会主義に名を借りた世襲制ファシズムのもと、男も女も人民は名前をはぎ取られた軍事力・生産力として編成されました。

©ワールドムービーアソシエイツ

映画の後半でいささか誇張・戯画化された「北の秘密結社」が登場します。彼らもまた別の「オモニ」の息子たちなのです。

この物語にはいくつも共同体が登場します。家族・血族、地縁、やくざの義兄弟、そして超国家的な民族結社まで。それらの共同体の紐帯と衝突が物語の牽引力となっています。

©ワールドムービーアソシエイツ

映画のテーマは「ファミリー」ではなく「疑ファミリー」

しかし一方、創り手たちはこうも告げていないでしょうか。

「ファミリーって何だ? 本当にそんなものは必要か?」

主人公ヨンギが「家」に戻ったのはオモニが死んだから、つまり「ポンポン子どもを生んで」「出来ん家には一匹くれてやる」といった不気味な思想の発信源が消滅したからではないでしょうか。物語の終盤で、ヨンギを待ち受ける運命。それは共同体の呪縛から彼がようやく解放されたことをあらわしている、と私には思えてなりません。

ここ数年、様々な意味における「ファミリー」をテーマにした映画が上映されました。そういった現象の向こうに、この国にかつてあった地縁・血縁といった共同体を幻視し、その心地よさにひたるような論説が時折見受けられます。

この映画も一見「ファミリー」映画です。しかし、主人公ヨンギが負ったトラウマの根源をたどれば、実は「反ファミリー」、とはいかなくとも「疑・ファミリー映画」になっていると感じます。コロナ渦でもはや我々は一人ひとりが「マイノリティ化」しているといってよく、そういった場に甘く侵入してくる「共同体幻想」のおぞましさを知るべきではないか。そのような教えを、私はこの映画の中に見ました。

忘れない、在日の人たちとの出来事

ちなみに在日という言葉に、私は冷静ではいられません。尼崎で育った私の周りには在日韓国人、朝鮮人が一杯おり、友人の何人かも今から思えばそうでした。社会に出てからも、記憶に残る先輩同輩に在日の人がいます。彼らは私にとって悪い奴らであり、それと同じか、ほんの少し余分に良い奴らでした。中学の時は彼らにしばきまわされました。二十代で様々な会社を馘首されてやけになっていた私を、高級おでんとお酒の店に連れていき、「お前は大丈夫、いけるで」という何の根拠もない激励をしてくれたのも在日の人でした。その時の勘定は結局割り勘で、私はすってんてんになりましたが、この時「人に借り作んなよ」という言葉とともに、ひとつの矜持と仁義を教わりました。映画に出てくる「日韓連合」は実際に合った過激な不良グループの名称です。国道二号線沿いに名をはせ、別グループと関西でも有名な酒場で乱闘騒ぎを起こし、新聞沙汰になったはずです。

おでんのお店で連れてってくれた米田さんこと金さんは、「おおっ、あれな。おれもカチコミに引っ張り出された」と言って、でこちんの「人」の形の傷を見せて笑っていました。

●公開日程
2月18日からなんばパークスシネマ、京都みなみ会館、神戸国際松竹、 2月19日から第七藝術劇場 にて公開

公式サイトはこちらです。

https://www.kitakaze-movie.com/

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