銃声、女性兵士の呼吸、ヘルメットが鳴る音――境界で聴くノクターン  『国境の夜想曲』 萩原弘子

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borderの意味や現実を見せる

画期的な作品だ。そのせいもあって、わかりにくい作品でもある。しかし目を凝らすと見える映像、耳を澄ますと聞こえる音があり、それがジャンフランコ・ロージ監督ならではの映像表現を構成している。ロージはドキュメンタリー映画で映画人としての地歩を築いた。本作は、イラク、クルディスタン、シリア、レバノンの4地域で3年間にわたって撮影されたという。これまでのロージ作品と違って、自身の出身地エリトリアに近い、紅海対岸地域についてのドキュメンタリーである。エリトリアの独立は1993年だから、ロージが生まれた1964年にはまだ国際的に承認される制度としての国家(state)ではなかった。だからこそ、彼はborder (境界)の意味、その由来や現実を見よう、見せようとしているのだろう。’border’を「国境」と訳してしまうとこぼれ落ちるものがあり、その点も含めて邦題には問題がある。その点は後述するとして、まずは作品そのものを見て、何が画期的なのかを考えてみたい。その過程で、「わかりにくい」からこその意義も明らかになるだろう。

ドキュメンタリーに挑戦するドキュメンタリー

© 21 UNO FILM / STEMAL ENTERTAINMENT / LES FILMS D’ICI / ARTE FRANCE CINÉMA / Notturno NATION FILMS GмвH / MIZZI STOCK ENTERTAINMENT GвR

本作を画期的なものにしているのは、ドキュメンタリーの定石から外れ、これまでドキュメンタリーを成立させていたいわば基本ルールに沿わない点があるからだ。なかでも次の3点は重要だろう。
第1に、本作は撮影対象となっている地域の政治情勢やそこに至った経緯を伝えない。この場面はどこ、彼らはなに人と、見る者は問いつづける。それは冒頭から始まる。夜明けの荒野で掛け声を発しながら走る兵士たちの隊列、彼らはどこの兵士なのか。説明はない。また本作でくりかえし登場する釣り人、少年、病院患者といった人々が、4つの撮影地域のどこの人かも説明されない。
一般にドキュメンタリーの本旨は、to document (記録する、実証する)という行為によって対象事態を正確に伝えることにある。しかし本作を見ても、イラクやシリア、トルコの政情について、その「現実」や「真相」はわからない。政情に翻弄され、基本的なインフラが破壊されてしまった社会で苦しい暮らしを強いられる人々の苦境は伝わるが、それがどこの誰なのかは明示されない。クルド人なのか、それもシリアのクルド人なのか、イラクのクルド人なのか、あるいはシリアのアラブ人なのか等々、見る者の問いは続く。おそらくロージはそのように意図している。戦争が引き裂き破壊した人々の暮らし、その苦しみを伝えるうえで、どこの誰という情報があると邪魔になることがある。

ナレーター=客観的観察者の不在

© 21 UNO FILM / STEMAL ENTERTAINMENT / LES FILMS D’ICI / ARTE FRANCE CINÉMA / Notturno NATION FILMS GмвH / MIZZI STOCK ENTERTAINMENT GвR

つまりそもそも本作は、正確な記録と真実の伝達というドキュメンタリーの本旨に沿うことをめざさず、むしろそれに挑戦している。その挑戦の具体的な現われとして、本作には最初から最後までを語るシングル・ナレーターが存在しない。これがドキュメンタリーのルールを外れた第2点である。テレビのドキュメンタリー番組がわかりやすい例だが、ナレーターはドキュメンタリーを成立させる役割を担う。テーマである事象の全容を知るのはナレーターだけである。ナレーターこそが現状を隅々まで把握し、その現状をもたらした歴史も承知しており、予測される未来を示す。全体を俯瞰する客観的観察者、あるいは神のような位置にいるのがナレーターだ。しかし本作では次々と変わる場面を繋ぐナレーターの声はない。おかげで見る者は懸命にスクリーンを注視することになる。
第3に、撮影対象に対するロージの関与を感じさせるのも、ドキュメンタリーのルールから外れている。ドキュメンタリーたるもの、偏りのない公平性、客観性をめざすべきであるとされてきた。そのためには撮影者は撮影対象に関与してはならない。本作では、ロージが撮影対象と交渉し、カメラの設置を承知してもらい、かなり長期にわたって撮影しているのが明らかだ。彼らとの信頼関係がないと撮影はできない。壊れてしまった社会で多くを失って生きる人々から信頼をかちとるのは容易ではあるまい。撮影する側が関与してこそのドキュメンタリーである。考えてみれば、不関与というのはそもそも不可能だ。ドキュメンタリーの撮影者/製作者はカメラを向ける以上、どうしても対象に関与してしまう。
そして関与は、公正と客観性の放棄でもある。公正と客観性のためには撮影対象から等距離にいることが必要だが、それは難しいし、実はたいして意味がない。ここに登場する人の苦しみ、悲しみは、誤った政治によって人為的に強いられたものだ。その人為に関わった者や機構・制度にまで公平である必要はない。むしろ撮る側の偏りがあってこそのドキュメンタリーだ。偏りをもって対象に関与してこそ、記録し実証するというドキュメンタリーの目的を果たせることを、本作は示している。シングル・ナレーターに最初から最後まで語らせるのは、不関与と公平性・客観性の体面を整えるための仕掛けと見ることもできる。ロージはそんな体面づくりを拒否している。

語る者、語らない者の語り

© 21 UNO FILM / STEMAL ENTERTAINMENT / LES FILMS D’ICI / ARTE FRANCE CINÉMA / Notturno NATION FILMS GмвH / MIZZI STOCK ENTERTAINMENT GвR

シングル・ナレーター不在の本作だが、語る者はいる。精神病院で朗読劇に参加する患者さんと、アート・セラピーを受ける子どもたちだ。治療を目的とする患者さん演劇の台本は医師が書いているが、その内容は現在の政情不安をもたらした20世紀の歴史をふりかえることから始まる。台詞を読む患者さんそれぞれの人生を踏まえての台本のようだが、患者さんの各々の経験や出自に深く立ちいることはない。それでも朗々と気持ちの入った朗読をする患者さんがいる。台詞に自身の経験の反映があるからだろう。むろん、心を病み、この病院に辿りついた者の苦しみは一様でなく、比較もできない。それでも朗読劇は、彼らの病いの元凶が彼らの弱さや至らなさにあるのではなく、歴史的、人為的なことにあると、患者さんにも本作を見る者にも教えてくれる。
またセラピー室の子どもたちが、IS (イスラム国)に囚われたり、家族を殺されたりしたときの恐怖の体験を語って、どんなナレーションよりありありと現実を伝えている。壁に数十枚のクレヨン画が貼られている。黒服のISISが市民を銃殺したり、暴力をふるったりする様子を描いた自作の絵を前に、少年が語る。恐怖、怒り、悲しみを絞りだすように訥々と、しかしはっきりと語る。子どもたちの言葉の真実味こそは、ロージがシングル・ナレーションを置かない理由かもしれない。
言葉はないが独特の語りを感じさせる場面もある。くりかえし登場する美しい少年がいる。子だくさんの一家だが、どうやら父は不在だ。長男らしい少年が一家で唯一の働き手である。鳥撃ちや川漁をして食料確保したり、狩猟家の手伝いをして駄賃をもらったりして家族を支えている。美しい少年が憂いに満ちた目で宙空を見つめる。よほどカメラに馴れているのか、その表情を大接写で撮られていても動じる様子はない。ここまでの接写でひとりの人の顔を見ていると、どうしてもこの少年の未来が気になる。見る者の視線はカメラのレンズと一体感をもつことが多く、とりわけ接写にはその効果がある。少年は言葉を語るわけではないが、彼の表情が物語を感じさせる。視覚的ナレーションが聞こえる。いつか少年は、布団とテレビと少しの家財道具しかない家に家族を残して、どこかの兵士になるのだろうか。

記録しにくいものを記録する

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ロージの芸術性が発揮されている場面がいくつかある。ドキュメンタリーでは普通は記録しない、あるいは記録する意味もないと思われているものをロージは捉えている。見る者の視覚と聴覚の記憶に残る映像と音である。
朗読劇で戦争の記憶を語る患者さんが戦争の報道映像を見ている。患者さんの瞳、あるいは眼鏡にその映像の反射像が見える。いま彼らが見るのは映像であり、生の戦闘現場ではない。患者さんにしてみれば、これまで嫌というほど見たつらい現場を思い出すかもしれない。それでも本作では数少ないユーモラスな視覚像の瞬間である。
またペシュメルガ(クルド武装部隊)の女性兵士がテレビで戦争の報道を見ている場面では、テレビのモニター画面に女性たち二人の顔が反射している。戦争報道の番組のようだから、二人は自分たちの任務遂行のために見ているのかもしれないが、モニター画面の仲良し二人の可愛らしいシーンだ。
本作には戦闘そのものの場面は登場しない。しかしどの場面も戦争を感じさせる。暗夜に船を出して魚を獲る男、ベランダから夜景を見ながら水タバコを愉しむ男女、どちらの場面にも遠くに銃声が聞こえる。戦場は彼らの場所からどれほどの距離にあるのか。同じ戦場からの銃声だろうか。答えは返ってこないが、問いは促される。見る者の怠惰を許さない作品である。
聞こえるか聞こえないかの小さな音にも忘れられないものがある。待機室にいたペシュメルガの女性兵士がリーダーの無言の合図で出動準備を始める場面で、銃弾ベルトを着装するときのザリッという音、それに続いて兵士が掴んだヘルメットがポコッと鳴る音。また監視任務遂行中の女性兵士二人の場面で聞こえる二人の呼吸音。いずれも耳をすまさないと聞き逃してしまう。ロージが信頼されて固定カメラを据えたからこそ採れた音だ。それら小さな音の背後には緊張に満ちた静寂がある。やすらぎとは無縁の戦時の静寂、不安と緊張に由来する静寂の記録である。
いずれも、ルールに沿うドキュメンタリーであれば記録する必要のないものであり、記録しにくいものでもある。ロージが掬いとったそれらの場面がこのドキュメンタリーを芸術的で、かつリアリティを感じさせるものにしている。

邦題『国境の夜想曲』で見えなくなるもの

ジャンフランコ・ロージ監督© 21 UNO FILM / STEMAL ENTERTAINMENT / LES FILMS D’ICI / ARTE FRANCE CINÉMA / Notturno NATION FILMS GмвH / MIZZI STOCK ENTERTAINMENT GвR

本作の原題はNotturno、イタリア語で「夜」である。夜、真夜中、夜が明ける時間、まだ夜が残る時間などに撮られた場面が続く。暗い闇のような状況がいつか明けるようにと望む人々が生きる時間としての夜という意味だろうか。イタリア語の「夜」は「夜想曲」も意味する。邦題は、これに「国境」を付けた。本作の撮影は4地域の境界(border)周辺で3年にわたって行なったとロージはしている。4地域にはシリア北部のクルディスタンも含み、「境界」は日本語に言う「国境」(制度としての国家(state)を前提)とはかぎらない。邦題を『国境の夜想曲』としたために、ただでさえクルド人、クルディスタンについてあまり知られていない日本では誤解を生みやすくなった。
ロージは独立戦争が進行するエリトリアに生まれ、13歳で家族を離れてイタリアに避難したという。その詳細はわからないが、10代も早い時期からヨーロッパで北東アフリカ出身のよそ者として扱われながら、同時にヨーロッパも自身の血肉としながら自己形成したのではないだろうか。生地を離れた避難者であるロージはおそらく、境界がない苦しみも、境界に阻まれる苦しみも知っている。「境界」をめぐる単純でないロージの考察を映像に追うなら、「国境」の概念をはずして鑑賞したい。

本作の映画評をあれこれ読んだなかに、撮影はロージひとりで行なったこと、彼自身がISに誘拐されそうになったことなど、興味深い紹介があった(後注)。中東の事情に詳しい評者は撮影場所を特定したりしており、それはそれで有用な知識である。しかし歴史的位置づけを敢えてしない本作の作風を尊重して、そうした知識は私ひとりの勉強ノートに書き留めるだけにしておきたい。ここで映像に記録されているのは、或る特定の時日に起きた過去の出来事だが、どれも過ぎ去ってはおらず、同じ状況が現在も続く。それを伝えるところに、時日と場所を明示しないドキュメンタリーの意義がある。
いまも銃声が聞こえる。どこの国とは知れない国の兵士が闘っている。望んで闘う兵士もいれば、闘わされている兵士もいるだろう。銃声はいつ止むだろうか。
Nick Vivarelli, “Gianfranco Rosi on Capturing Scars of ISIS-inflicted Trauma in Notturno,” Variety September 10, 2020.

はぎわら・ひろこ 大阪府立大学名誉教授
「働く女性の人権センター」の機関誌『いこ☆る』で映画評論を担当して17年になる。
関西では2月11日からテアトル梅田(大阪)
シネ・リーブル神戸、京都シネマで公開。
オフィシャルサイトhttps://bitters.co.jp/yasokyoku/
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