スタンドバイミー@水道筋「あの頃ぼくらはアホでした」⑧ 安富信

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先生大好き!アホもおだてれりゃあ木に登る

 6年担任の久津見先生は、オレたちアホな小学生を天にも上らせた先生だった。アホもおだてりゃあ木にも登るだった。
 水道筋商店街6丁目の交差点の東南角に建つ稗田小学校時代、入学以来、学校生活はほぼずっと楽しかった。1年の担任は大内先生、2年は城戸先生だったが、途中で産休に入られて、クラスが分散になって城山学級へ。3年で初めて男の松元先生、4年で再び城山先生、5年が服部先生で、6年が久津見先生だった。

現在の稗田小学校(水道筋6丁目交差点から)     今も狭い校庭。ここで運動会を年2回した

 今はどうか知らないが、当時の校舎は、玄関口で白い上履きに履き替えて、油を引いた廊下を歩き、教室に入る。教室の机は椅子と一体型の古い木製で抽出しは空洞だった。教室の真ん中に大きな木炭ストーブがあった。もちろん給食だったが、冬はストーブの上で何かを温めていたような記憶がある。
 このストーブには、恥ずかしい思い出がある。当時の小学生は学校の便所で大便をすることが恥ずかしい時代だった。少なくとも自分たちは。だから、便意を抱えてよく家まで走って帰ったものだ。小便も出来るだけ行かなかった。得意だった冬の算数の時間に悲劇が起きた。休み時間におしっこに行くのを忘れた。まあ、計算テストなので、早く解ければ、トイレに行けるだろう、と高を括っていた。先生に手を上げて「先生、おしっこ」と言うのも恥ずかしい。我慢に我慢を重ねた。計算問題は50問くらいあったかな? 解けた瞬間、力が抜けたのか、漏らしてしまった。今で言えば「ヤバいっ」って感じだ。当時は冬でも半ズボンだった。足元の“水溜まり”を上履きでこすり付け、証拠隠滅を図った。幸い、ストーブのすぐ横だったから、しばらくして乾いた。「誰にもバレてない」と思ったが甘かった。隣の女子、憧れの一人だったH本さんに気づかれたのだ。

当時の椅子と一体型の教室机(イメージ)      6年時の教室。上の写真右端にストーブがある

  

 それからは地獄の苦しみだった。いつ、H本さんにバラされるのか?ビクビクしていた。しかし、優しいH本さんは誰にも言わなかったようで、クラスで噂になることもなかった。ただ一人を除いて。H本さんは、隣のクラスのM木さんと仲良しだった。時々、教室の後ろの入り口でヒソヒソと話していた。時々、こっちを見て、クスッと笑っているように見えた。彼女には話したんや! そう確信した。実は密かにM木さんも好きだったのだが、ホンマに話しかけれなくなった。前に書いたが、M木さん家はお風呂屋さんだった。小川君と行った時に、彼女が番台に座っていた。余計に恥ずかしかった。
 M木さんは中学から私立女子中学に進学したが、H本さんとは、中学、高校と同じだった。その後、クラスが一緒になったことはないが、数年前、高校の同窓会で会った際に、思い切って聞いてみた。H本さんは言った。「安富君、4年の時、算数の時間におしっこ漏らしたよね。誰にも言わないつもりだったけど、M木さんだけには、言っちゃた。ごめん」と笑った。地獄の日々が終わった。
 でも、基本的には、楽しくて仕方ない日々だった。どっちやねん。5年の担任は服部先生。この時はちょいと楽しくなかった。服部先生はいつもイライラしていた。今から考えると、職場でも家庭でも色々あったのだろう。みんな、つまらない事でよく怒られた。だから、「服部ばばあ」と陰口を叩いていた。
 その先生と、決定的に対立する日がやって来た。昭和42年(1967年)2月頃かな? いつもの5人組で小学校南にある児童公園で遊んでいた。高さ3mくらいの滑り台の上から砂場に飛び降り、右手をついた瞬間、骨折した。小川君やケー坊、永福君は、心配して家まで付いて来てくれた。しかし、この時、不思議な話だが、馬ボンと言うあだ名のN島君も同時に足を骨折していた。しかし、小川君らは言った。「やっさんが大変な時に、黙っとれ」。N島君は翌日、松葉杖を付いて登校した。

今もある骨折した児童公園。中央付近に砂場がある        今は名前が代わった接骨院(経営者は違う)


 やっさんも、おカンの付き添いで登校し、服部先生と話した。以前にも書いたが、右腕骨折で鉄棒を挿入したギプス姿なので、授業でノートを取れないから、どうしたらいいか? 服部先生は怒った。「放課後、公園なんかで遊んでいるからよ。自業自得だわ。ノートは左手で取りなさい」。おカンは怒った。「わかりました! あなたに相談したのが間違いでした」。「ひどい先生だね!」プリプリと踵を返した。3学期の授業は苦労した。慣れない左手でノートを取り、試験も問題は解けているが、答案用紙に書けない。点数は最悪だった。体操の時間は見学。軒並み成績は下がった。

亡き久津見先生(隣は栗本校長)
6年久津見学級のクラスメート(上から2列目真ん中が筆者。小川君は前列左から2人目。かっちゃん、ケー防、いっちゃん、みんないる)

 それが6年になって急転直下、好転した。久津見先生のおかげだった。初めての印象は黒縁の眼鏡をかけた「真面目で難しそう」な先生だったが、全く違った。一人ひとりの児童の特長をよく見ていた。特に長所を伸ばすべく褒めた。いつもニコニコしていた。クラス全員が”久津見マジック”にかかった。おだてられている、と思っても、褒められたら嬉しい。6年久津見学級は明るく楽しいクラスになった。
 卒業後中学校に通うようになってから、クラスの男女10人くらいで、垂水区塩屋の先生宅にお邪魔したことがある。久津見先生はお手伝いの女性と2人住まい。歓待してくれたが、数年後、高校時代だったかな? 亡くなった。小川君と涙を流した。(つづく)

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