「能登らしさ」とは(2)日本海を救った珠洲原発反対運動

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志賀原発は危機一髪だった

志賀原発のわきにたつ団結小屋

 地震発生当初、志賀原発(1号機は1993年、2号機は2006年運転開始)について北陸電力は「安全は保たれている」という情報を発信しつづけた。だがこの間の経緯を追うと、まかりまちがえば大事故につながりかねなかったことが見えてきた。
 志賀原発は2011年以降停止中だったが、地震で冷却水のポンプを動かす外部電源3系統のうち2つでトラブルが発生した。
 1号機原子炉建屋地下2階では震度5強だったが、原子炉建屋の基礎の下で観測した加速度は、設計で考慮した値をわずかながら上回っていたことも判明した。
 北陸電力は2013年、現地で発生しうる最大の揺れ(基準地震動)を600ガルから1000ガルに引きあげていたが、今回、原発のある志賀町の観測点で震度7となり、東日本大震災級の2828ガルを記録した。その揺れが志賀原発を襲ったらどうなっていたか—。
 福井地裁裁判長として2014年に関西電力大飯原発の運転差し止め判決を出した樋口英明弁護士は「三井ホームの住宅の耐震設計は5115ガル、住友林業は3406ガル。実際に鉄板の上で住宅を揺さぶる実験をして、ここまで大丈夫でした。……(原発は)ハウスメーカーの耐震性よりもはるかに低い。だから、とてつもなく危ないのです」と述べている。(毎日新聞https://mainichi.jp/premier/business/articles/20210422/biz/00m/020/040000c
 さらに、輪島市の海岸沿いでは地盤が4メートル以上隆起した。原発稼働中にが4メートルも隆起したら、冷却水を取水できなくなってしまったことだろう。
 能登半島の国道・県道は寸断され、多くの集落が孤立した。地盤隆起によって港湾も使えなくなった。原発事故を想定した避難計画は絵に描いた餅だったこともあきらかになった。

志賀原発敷地内の断層調査=2014年

珠洲原発計画に反対つらぬいた漁協

蛸島漁港のカニの水揚げ=2011年

 能登半島先端の珠洲市の高屋地区と寺家地区では、関西・北陸・中部の電力3社が原発建設を計画していた。まさに今回の震源地だ。
 1975年に計画が発表された当初、地元住民の大半が反対したが、しだいに切りくずされていく。
 市内7つの漁協も、最後まで反対をつらぬいたのは蛸島漁協だけだった。
 1970年代前半、富山湾のポリ塩化ビフェニール(PCB)汚染による風評被害で魚価が暴落した記憶があるから、富山湾に面した蛸島の漁師らの原発への拒否感はひときわ強かったのだ。
「半農半漁で漁業後継者のおらんところは『補償金をもらった方がいい』となってしまった。蛸島では専業の漁師が多いから原発とは共存できん、という思いが強かった。漁師は農家とちがって行政からの補助はほとんどない。お上に依存してないから反対運動をたたかいぬけた」
 蛸島漁協関係者は2012年ごろ、私の取材にそう語った。
 建設予定地のひとつ、高屋地区では、原発工事がはじまれば更地になる場所に、農産物の保冷庫やキリコ収納庫などが電力会社のカネで次々に建設された。保冷庫はすでに撤去されたが、キリコ収納庫は今も残っている。

原発マネーでつくられたキリコ収蔵庫

念仏唱えて座り込み

塚本真如さん=2011年

 高屋地区では、圓龍寺住職の塚本真如さんが反対運動の実質的なリーダーだった。お年寄りが、念仏を唱えながら道路に座りこんだ。浄土真宗の信仰は反対する高齢者の心の支えだった。市内約70カ寺のうち「原発反対」の声をあげたのは数えるほどだったが、公民館などが反対派の使用を拒むなか、大半の寺は反原発派の集会の会場を提供した。
 1989年の立地可能性調査では、支援者約50人が2カ月間、圓龍寺に泊まりこんだ。
 寺には3時間ごとの無言電話が10年間つづき、嫌がらせの手紙が毎日のようにとどいた。「老人ホームの院長をやりませんか」「寺を建て替えますよ」という詐欺師まがいの男も訪ねてきた。塚本さんは行政や電力会社との話し合いはいっさい拒否しつづけたが、「推進派の人たちの個人攻撃だけはするな」と仲間に言いつづけた。
「年とって、町におる若い衆に『じじー、でてこいや』と言われたら土地を売るのはダメとは言えない。反対派も推進派も同じ弱い人間なんです」
 地元で飲食店を経営する女性は2012年に取材した際、次のように振り返っていた。
「私の家は推進側だったけど、お寺には毎日遊びに行って、活動の話はいっさいしなかった。塚本さんがトップにいたから亀裂が残らずにすんだ。震災があって福島の事故が起きて、孫のことを考えると原発がなくてよかった。でも、珠洲がうるおうような、さびれんようなことを、反対しとった人たちも考えてほしい」

「珠洲原発反対運動のおかげで日本海は救われた」

 そんな声が今、あちこちであがっている。

圓龍寺=2011年

 今回の地震で高屋地区は一時孤立し、多くの家屋が倒壊した。塚本さんの寺の本堂も全壊した。
 高屋の人々は無事に避難できたのだろうか?
 そう思っていたら、1月23日の東京新聞に塚本さんの記事が掲載された。(つづく)

 https://www.tokyo-np.co.jp/article/304462

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