大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」41(社会部編17) 安富信

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死体見分「おんぼ」のサツ官は人生の師

前回、一課担時代の筆者の生活を書いたところ、ボスの加藤譲さん(73)からチェックが入りました。

一課担は出勤して午前中はグダグダするのではなく、一課の大部屋と車庫、鑑識課と科捜研の各部屋、刑事調査官室を何回も回り、事件の動きがないか目を光らせつつ、課員や吏員と雑談を繰り返して正午にボックスに戻るのが日課です‼

ありがたいご指摘です。筆者が端折り過ぎました。確かに、一課担になりたての頃は、上記のように、真面目に課や室回りをしてました。大体、朝イチでまず訪れるのは、刑事調査官室です。この部屋は、何故か駿河キャップは「おんぼ」と呼んでいたので、今回調べてみると。正式には「隠亡(おんぼう)」で、wikiによれば、「日本史上、火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者をさす」とある。当に、この部屋の刑事調査官とは、死体を見分する仕事です。小さな県警では、刑事調査官は警視1人がほとんどだが、原因不明の死体の数が多い、東京や大阪では複数いる。平成元年(1989)当時で、警視の室長、補佐の警部が2人、係長クラスの警部補が2人の計5人もいた。確か、警部と警部補のコンビで宿直していたような記憶があるが、ローテーションは覚えていない。室長は基本日勤だったかな?

殺人事件なら当然、1番初めに死体を見るのだから、重要な取材先だが当然、死体について公式発表以外何も話してくれない。しかし、殺人じゃなくても、事故死、自殺でも状況や身元によれば、ニュースになることがあり、夜回りも欠かせない。伝統的にオンボのサツ官は、夜回りを受け入れてくれ、自宅に上げてくれた。大阪府南部に住んでいたI警部は特に筆者を気に入ってくれ、奥様共々、歓迎してくれた。ほとんど事件のネタはくれなかったが、ありがたいことだった。その他に、政治のことや社会のことから、警察内部の価値観や出世争いなどにも話は弾み、夜回りの時間の多くを費やしたものだ。ある意味で30代そこそこの兄ちゃんに人生を教えてくれた時期でもあった。

現職警官が強盗殺人、「縛り」つき

まあ、そんな風に一課担時代の最初の年は淡々と進んだ。最初の大きな事件は、「縛り」になった。縛りとは、記者クラブ制度独特のシステムで、多分、こんな制度は日本にしかないだろう。報道協定とまでは行かないが、ある程度大きな事件について、どこかの社が抜け駆けて記事を書くと、事件がぽしゃってしまう危険がある時に、一課長から提案されて、仕方なく飲む捜査一課内だけの協定だ。捜査一課内だけだが、大阪府警全体で担保されてしまう。その縛りが発令された。

事件の内容はこうだ。昭和60年8月、大阪市浪速区の建設資材会社社長(当時53歳)が失踪した事件で、大阪府警平野警察署の巡査部長だった男(当時28歳)ともう一人の男が強盗致死、死体遺棄容疑で逮捕された。現職警官の起こした大事件として、府警捜査一課は慎重に捜査を進め、事件以来4年ぶりに苦渋の事件解決となった。それだけに、変にどこかの社が先走って事件を匂わす記事を書いてもらっては困るという理由で、平成元年6月17日の逮捕の1か月以上も前に、縛りをかけたわけだ。巡査部長は「社長の自宅で口論になって、もう一人が枕で顔をふさいで死なせ、一緒に宝石などを奪った。遺体は奈良県三郷町の信貴山中に埋めた」と自供した。その後、社長の所有する貴金属を強奪するのが動機で、殺害1か月前から計画していたこともわかった。まあ、今から考えれば、不良警察官が起こした単純な事件だが、解決までに4年近くかかったことや、当初からこの巡査部長が容疑者として浮上していたことから、大阪府警は批判を浴びた。警察官ネコババ事件やその他、現職警官の不祥事事件が相次いでいたための、慎重な対応だったが、記者にとっては、自由な取材権を奪われるという、当に断腸な思いである。筆者の一課担での初めの事件は、屈辱に塗れたものだった。

現職警官による強盗殺人事件を報じる当時の新聞

「女性コンクリ詰め」迷宮入り

 現職警官の事件がひと段落した7月末、新しい事件が起きた。平成元年(1989)7月28日午後、大阪市中央区日本橋1の10階建てマンションの屋上で、コンクリート詰めにされた若い女性の裸の遺体が見つかった。遺体は約4年前から置かれ、一部が白骨化して足をひもで縛られていた。大阪府警捜査一課と南署は殺人、死体遺棄事件の捜査本部を設置した。そう、一課担になって2つ目の捜査本部事件だ。これを大阪府警では「帳場」と呼ぶ。ついでに言えば、捜査員は「探偵さん」、犯人は「太夫(たゆう)」だ。今もそう呼んでいるのかな? 警察用語には色んな符牒がある。殺人事件は「殺し」だが、放火は「赤馬(あかうま)」、捜査二課がやる汚職事件は「サンズイ」、詐欺は「言偏(ごんべん)」捜査4課事件は「マル暴」などなど。かなり忘れました。

ミナミのど真ん中のマンション屋上で見つかった若い女性のコンクリート詰め殺人事件

 しかし、この事件は解決しなかった。何しろ古い事件だから、ほとんど手がかりもなく迷宮入りとなった。こうした捜査本部が所轄に置かれると、一課担だけでなく、当然、ミナミ回りやその周辺の所轄回りが取材に加わる。この時も、将来、一課担になるであろう永田広道さん(現熊本県民テレビ常務、昭和58年読売新聞入社)が加わってくれた。彼とはその8か月後には一課担のコンビとなるのだが。あんまり今回が面白くない回だったので、永田さんの了解を得たので、ちょっとバカ話をしよう。ごめん、永田さん、田山さん、そして、熊本県出身のI先輩。

訛りが抜けない肥後もっこす

大阪読売には、概ね大阪、神戸、京都の出身者が約半数、残りは九州、四国、中国、北陸地方の出身者がいた。ところが何故か一課担の先輩・後輩に筆者を挟んで10年くらいの間に3人の熊本県出身者がいた。いわゆる肥後もっこすと呼ばれる頑固一徹な風土の性格を持つと言われる。同時に、かなりの強度な訛りが抜けない人たちだった。最初に会った田山一郎さんは、熊のプーさんのようなお兄さんで、穏かな性格ながら芯が強く、生涯の友となりました。達筆で歌が異常に上手く愛すべき先輩ですが、大阪外大ロシア語学科に入学して以来、大阪暮らしが当時で10年以上たっていたけど、訛りが抜けてないのに、「オレ、すっかり、大阪弁になってしもうたわ」と怪しげな関西弁を話していました。永田さんも同じような肥後もっこすの性格で愛すべき人です。

美味しい店は、殺害現場から道案内

 永田さんが、府警本部に遊びに来たある日、どこかミナミ辺りに飲みに行こう!という話になった。永田さんは結構負けず嫌いなタイプで、仕切りたがり屋でもあった。じゃあ、今夜は永田さんの案内でミナミへ飲みに行こう!となった。永田さんは自慢げに話し始めた。「まず、コンクリート詰めのマンションがありまっしゃろ!」 ほうほう、日本橋1丁目やな。「そこから西に歩きまんねん。川に沿って」。おおそれっ、道頓堀川か? 「名前は知りまへんけど、そんな名前でしたかな」。「それをずっと、歩いて、ひっかけ橋を過ぎて、有名な肉の美味しい店が角にありまっしゃろ!」 おう、それ、「はり重」やな! 永田さん「名前知らんけど。それから南向き一方通行の大きな道路を渡るんです」。まるで漫才やな。やっと御堂筋を渡るんかい!「で、渡ったしばらく歩くと、サウナがありますやろ、その隣に美味しい店があります」。ええっ!初めから御堂筋から始めたらええやん!と言ったら、永田さんは悪ぶれるでもなく、しれっと、「一課担は殺害現場からでしょう!」と。今も覚えている永田さんのエピソードです。今年8月末に、何十年ぶりに永田さんに熊本市内の居酒屋さんで会い、馬肉のレバーなどをご馳走になりながら、よもやま話をした時、彼は「そんなこともありましたなあ!」と笑ってくれました。今日の話はここまで。(つづく)

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