9月18日、大阪・十三の第七藝術劇場で、ドキュメンタリー映画「日本原 牛と人の大地」の上映後、トークショーが行われた。その報告です。
映画のチラシにこう書かれている。
「父が牛飼いになって、もうすぐ50年になります。牛飼いになる前、父は医学部の学生でした。父が医者ではなく、牛飼いになったのは、自衛隊とたたかうためでした」
「父」は内藤秀之さん。1960年代の終り、岡山大学の医学生だった内藤さんは大学を辞め、牛飼いになった。冒頭の写真が内藤さん。(C)2022 Kurobeko Kikakushitsu
「自衛隊とたたかうためでした」。陸上自衛隊の日本原(にほんばら)演習場が岡山県北部の町、奈義町(なぎちょう)にある。年間約16万人の自衛隊員が訓練を行う、中国・四国地方で最大規模の演習場。日本原では昔から地元住民が山に入って土地を利用する「入会」(いりあい)が行われ、演習場内の耕作権などが防衛省から認められている。しかし、今、演習場内で耕作しているのは、内藤さん一家だけになった。
上映後のトークショーに、内藤秀之さん、黒部俊介監督、プロデューサーの黒部麻子さんが登壇した。
映画の夢をあきらめかけていた黒部監督がビデオカメラを携えて日本原へ。
黒部監督は1980年生まれ、日本映画学校を卒業するが、映画の道をあきらめ、書店に勤務。福島原発事故を機に岡山へ移住。この映画が黒部監督にとって最初の作品。黒部監督がこう映画制作のきっかけを語る。
「2018年まで、福祉の仕事をしていました。そこで、パワハラにあって仕事がいやになって、人間不信にもなり、辞めました。好きなことをやりたいと思って、映画をつくろうと思いました。岡山大学医学部を辞めて医者にはならず、牛飼いになって、自衛隊と闘っている人がいると知人から聞いて、内藤さんに手紙を出して、はじめて内藤さんにお会いしたのがすべての始まりでした」
そして、2019年1月から約1年間、黒部監督は日本原でカメラを回す。プロデューサーの妻・黒部麻子さんが振り返る。
「夫が映画を撮ると言って、小さなビデオカメラを持って、撮影が始まりました。本人は楽しそうでしたが、形になるのか半信半疑でした。1年後、撮影したものを本人が編集して、上映している映画とは違いますが、形になりました。それを一緒に観たんです。“あら、いいんじゃないの!”と思いました。監督本人は、たいしたビジョンがなく、DVDにコピーして内藤さんにプレゼントするなどと話していました。内藤さんたち出てくる人たちはすてきだなぁと思いましたし、牛や合鴨のことも知らなかったですし、もっとたくさんの人に観てもらえる作品になるんじゃないかと思いました」
その後、編集や整音のプロのスタッフが関わり、多くのカンパが集まり、映画が出来上がった。
内藤秀之さん(ヒデさん)の人生にとって大事な年に撮影が始まったと黒部監督が話す。
「ヒデさんにとって大事なことが二つありました。一つは自衛隊と闘いながら、住民のためにつくってきた『山の牛乳』がちょうど終わる時でした」
「山の牛乳」は内藤さんの内藤牧場で搾られた牛乳を100%使用して、栄養や風味、善玉菌を損なわないよう有害な菌を殺せる最も低い温度・時間でつくる低温保持殺菌を行う。日本の高度経済成長期、各地で安心安全な牛乳を求める消費者運動が起こり、岡山でも1987年、内藤牧場となかもと乳業(津山市)が「山の牛乳」の生産を始める。配達は精神障がい者の作業所のパステル作業所が協力、岡山市全域などに配達した。
<大事な年>の意味はもうひとつある。
「ヒデさんが日本原に行くきっかけになった、糟谷孝幸(かすやたかゆき)さんが亡くなって50年にあたります」
黒部監督はこう話す。
「牛乳のことも、糟谷さんのことも、全部、ヒデさんの牛舎で聞きました。ヒデさんは本当に忙しく働いていたので、ヒデさんの手伝いをしながら、話を聞くことになりました。牛乳のこと、糟谷さんのことはそれぞれ違いますが、ヒデさんの人生の中でのこと、それを牛と一緒に聞いていました」
<自衛隊とたたかう>ヒデさんこと内藤秀之さん
内藤秀之さんの話が始まる。
「3日ほど前、役所から電話がありました。『どうしたんですか?』と聞くと、『今度、映画デビューしたんかぁ』と言われ、わろたんです。そしたら、役場の人が『防衛省から電話があった』と言い、撮影はいつからいつまでか聞かれました」
<自衛隊とたたかう>ヒデさん。こう話を続ける。
「防衛省にとっては、演習場内で田んぼ耕作をするのが、目の上のたんこぶのようなことで、なんとかしたいと思っておるんです。演習場にサツマイモを植えたり、草刈りするとか、収穫祭をやるもんですから、多い時で、200人とか集まります。車も何台も止めます。自衛隊は‘全部、自衛隊の土地だ’という感じのことを言います。そんなことはないんです。道路は住民の道路も兼ねていて、それを自衛隊が広げているということはあるんですが、いろんなケチをつけてくるんです。とにかく、気になるらしい、我々のすることが」
さらに。
「3年ほど前に亡くなられたんですが、大阪出身の人が日本原のホームページをつくりました。演習場の中を見て回るということで、着弾地の方へ行って、写真を撮り、それをホームページに載せました。この人が亡くなられて、少ししてから、ある日突然、ホームページが全然、見られなくなりました。全部、消されてしまったんです」
内藤さんの話は、「糟谷孝幸」さんへ。
1969年11月13日、大阪の扇町公園で、ベトナム戦争に日本が加担することに反対し、佐藤栄作首相の訪米に抗議する大規模な集会が開かれた。内藤さんは糟谷さんとともに参加した。
「自分と一緒に大阪の闘いに参加した糟谷孝幸という青年が亡くなったもんですから、機動隊の暴力を受けて。自分は1969年の後、糟谷孝幸の分までがんばらないけんなぁと思ったんですけど、自分はそれなりにいろいろなことをしてきて、したんですけど、糟谷孝幸とインターネットで検索しても、出て来なくて、こんなことではだめじゃなぁと思って、それで記録に残したいということで、当時の仲間と一年かけて本をつくりました」
2020年11月13日、糟谷さんの51回目の命日に「語り継ぐ1969 糟谷孝幸追悼50年―その生と死」を出版した。糟谷さんは亡くなる直前の日記に、「我々にとっての”未来“は我々の後に続いてくれる”誰か“があるということなのか」と話していた。
内藤さんの話が続く。
「岡山の人にも話よったら、関西大学の学生二人が亡くなったと言います。この日、自分たちが機動隊と衝突した後、関西大学の全共闘の部隊が前進していって、それに対して、機動隊は『もう殺せ!』という掛け声で、むちゃくちゃやっとんです。それで二人の若い者の命を奪って」
内藤さんは、1969年の11月終わりか12月に初めに逮捕され、翌年2月終わりごろまで大阪拘置所に入っていた。その後、内藤さんは日本原へ。
「1970年3月から、自衛隊の日本原演習場に通いました」
日本原では、自衛隊の実弾射撃訓練に対して、住民らがこれに反対する強い声を上げた。そのため、1965年、奈義町と防衛庁は協定で、「東地区への実弾射撃訓練は関係地元町当局との相互理解に達するまで実施しない」という但し書きを入れる。東地区は内藤さん一家が暮らす宮内、そして成松の2つの地区に接する演習場の一部を指す。しかし、防衛庁はこの但し書きを外したいと様々な工作を行い、1968年、奈義町長は演習場の全面使用ができる協定に応じた。
こうした中、1970年4月を迎える。自衛隊は演習場内への住民の立ち入りを全面禁止するが、射撃阻止を訴える住民が決死隊をつくり、演習場内に入る。内藤さんがこう話す。
「105ミリ砲を装備した自衛隊の部隊が現れます。4月から試射を始めるということで、それに反対する農民19人が座り込みをしたんです。座り込みの上に弾を撃ってきたんです。3発撃ってきました。その破片が弁当を食べていた一人の近くに飛んできたんです。これまでは一発目は空砲だったんですが、今回は空砲じゃなかったんです。自衛隊は旧慣を尊重せずに、農民がいるところに弾は炸裂したんです」
国会でも問題になり、中曽根康弘防衛庁長官は「地元の了解が得られなければ実射は行わない」と答弁。しかし、「地元の了解」が「町議会の了解」というふうに徐々にすり替えられていく。奈義町と防衛庁は、協定の但し書き「東地区への実弾射撃訓練は関係地元当局との相互理解に達するまで実施しない」を削除するという協定を結ぶ。そして、防衛庁は「地元の了解を得た」こととして、実弾射撃訓練を通知する。そして、裁判の場へ。内藤さんがこう振り返る。
「実弾射撃訓練するなということを裁判で求めて行くことになりました。行政訴訟です。提訴になり、実弾射撃訓練は中止になりました。最終的に訴えは棄却されました。実弾射撃訓練は公権力の行使にあたらない、だから行政訴訟ではだめだというのが理由でした。自衛隊が鉄砲の弾を撃つことは公権力の行使だと思いますが、裁判所は矛盾したことをへっちゃらでやります。しかも、民事で訴えた大阪国際空港や厚木基地の訴訟では、民事訴訟ではだめだということで却下されています。これも矛盾です。日本の裁判所は、こうやって内容に踏み込まずに門前払いすることが多いんです」
最高裁で決着がつくまでの16年間、自衛隊は東地区に着弾する射撃訓練を中止した。ただし、1975年、新たな着弾地をつくり、そこへの実弾射撃訓練は行われているが、西地区からの長距離砲の訓練ではない。裁判を担当した奥津亘弁護士は「裁判は一定の功を奏したと思う」とパンフレットで語っている。
ヒデさんと一緒にいると、「人間の土地だ、牛の土地だ」と分かる
黒部監督は内藤さんの<自衛隊とたたかう>姿を撮影して、こう話す。
「映画にヒデさんが集会に行くシーンがあります。ヒデさんは牛の乳を搾って、その時に着ている野良着のまま、軽トラに乗って、集会に行きます。<自衛隊とたたかう>と生活はつながっているんです。ヒデさんはこう言います。<くたびれるまで働く、それで人間はいつかくたばる、それまではできることをやる>。ヒデさんを見ていると、当たり前のことを当たり前にやっている、ヒデさんの姿をみて学びました」
そして、こう続ける。
「自衛隊の演習場は自衛隊のものだと思っていて、演習場の中に入ると、自衛隊に怒られるのではないかと思っていました。だけど、そこは人間の土地だ、牛の土地だ、ヒデさんと一緒にいて、自然と分かるんです」
内藤秀之さんは撮影が終わった後、2021年春に急性白血病を発症、5月から12月まで入院。
「もうだめかと思いよったんですけど、なんとか治って、ある程度、治していただいたんで、もうちょっとがんばれってことなんで、がんばらしていただきます」
日本原演習場では、2006年から日米共同訓練が行われ、2018年からアメリカ軍単独訓練が実施され、2022年で第4回となる。
映画には、内藤さん一家の姿が映し出されている。妻の早苗さん、長男の大一(だいち)さん、次男の陽(よう)さん。黒部監督はこう話す。
「この映画は家族の物語でもあります。ヒデさん、早苗さん、大一さん、陽さん。でも、家族がそろっているシーンはありません。それは、ヒデさんを支える妻や息子と言う感じではなくて、それぞれが独立した人間なんです。それが魅力でした」
長男の大一さんは、2021年、ヒデさんと早苗さんが病気で倒れた後、牛の世話を一手に引き受けた。
ヒデさんは会場からの「長男の大一さんは農業をする決意をしましたか?」の質問にこう話す。
「だいたいはしていると思います」
映画のナレーションは次男の陽さんがつとめた。陽さんは高校生の頃、心の病気になり、自宅で療養生活を送る。絵を描くことが得意で、「山の牛乳」のロゴをデザインし、父・秀之さんと一緒に絵本「ピー子の北海道旅行」を制作、出版した。黒部監督が陽さんについて話す。
「撮影中、陽さんの部屋で寝泊まりして、朝、陽さんと散歩し、ヒデさんの手伝いや撮影をして、その後、一緒にごはんを食べたり、雑談をしたりしました。これの繰り返しでした。
陽さんにナレーションをやってもらおうと思ったのは、陽さんは感性が鋭くて、平和の問題にも鋭いのではないかと思ったからです。陽さんは小さいころからヒデさんが牛飼いをやっている姿をみています。二人がつくった絵本のように、映画でも二人のコラボのようなことができたらと思いました」
○映画「日本原 牛と人の大地」情報
https://nihonbara-hidesan.com/
●書籍「語り継ぐ1969 糟谷孝幸追悼50年 ―その生と死」
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/978-4-7845-1584-4
○ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー
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