『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』著者・大森淳郎講演会〈前半〉

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1925年 日本でラジオ放送が開始。

1926年 社団法人日本放送協会が設立。この協会の後継組織が戦後に再出発したNHK。

1931年満州事変勃発、1937年日中戦争始まる、1941年太平洋戦争始まる、1945年敗戦、連合国による日本占領始まる。

戦前戦中にテレビはなく、民放もなく、活字以外のメディアは日本放送協会のラジオだけだった。1942年時点でラジオの普及率は49%ほどだという。

2023年6月、大森淳郎著『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』(NHK出版)が刊行された。戦時のラジオ放送に携わった人々は戦争をどう捉え、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。また、どう自らを鼓舞し、あるいは納得させてきたのか。そして敗戦後はどう変わり、あるいは変わらなかったのか。これらをテーマにした1冊だ。第77回毎日出版文化賞(人文・社会部門)受賞、第46回講談社 本田靖春ノンフィクション賞受賞。

筆者の大森淳郎さんは1982年NHK入局、長年、ドキュメンタリー番組を制作。ETV特集「シリーズ戦争とラジオ 第一回 放送は国民に何を伝えたのか」(2009年)、ETV特集「敗戦とラジオ 放送はどう変わったのか」(2010年)など。2016年からNHK放送文化研究所研究員を務め、2022年退職。

2023年12月16日、大阪・十三のシアターセブンで大森淳郎さんの講演会が行われた。主催は関西の放送局、新聞社の有志が集まる放送法研究会。この模様を報告します。

大森淳郎さん
目次

サイパン陥落、「軍と運命をともにするのが住民の正しい態度」とする日本軍の論理をラジオは忠実に放送した

大森淳郎

まず、音を聞いてもらいます。1944年7月18日に放送されたサイパン島陥落を伝えるニュースです。あらかじめ、説明しておきますと、この音源はNHKが保管しているものではないんです。どうして、この音源が残っているかというと、高橋映一さんという方が、当時高校生だったのですが、いわゆるラジオ少年で、電気屋さんを巡り歩いて、いろいろな部品を集めて、自分で録音機を作ってしまった。ラジオの録音やテレビの録画は、映画や音楽、落語などを録音録画するのが一般的だと思いますが、高橋さんはそうではなく、ニュースを録音したんです。録音したのは1944年ですから、ただごとではないと、高校生だった高橋さんの目にも明らかだったんです。それで、これは残しておかなくてはいけない、高橋さんは考えたそうです。そして、今、私たちが聞くことができるのです。早速、聞いてもらおうと思います。

<サイパン島の我が部隊は、最高指揮官南雲忠一海軍中将以下、去る七日、最後の攻撃を敢行し勇戦力闘、一昨十六日までに全員壮烈な戦死を遂げたものと認められます。サイパン島の在留邦人も終始、軍に協力しおおむね将兵と運命をともにした模様であります。大本営、きょう午後五時の発表を申し上げます。

大本営発表。昭和十九年七月十八日十七時。

一、サイパン島の我が部隊は、七月七日早暁より全力をあげて最後の攻撃を敢行。所在の敵を蹂躙し、その一部はタポ ーチョ山付近まで突進し勇戦力闘、敵に多大の損害を与え、十六日までに全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む。同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将・斎藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将・辻村武久にして、同方面の最高指揮官、海軍中将・南雲忠一また同島において戦死せり。

二、サイパン島の在留邦人は、終始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し、おおむね将兵と運命をともにせるものの如し。終り>

今、ラジオからニュースが放送されるのと同じように、1944年7月18日にこのニュースがラジオから流れました。私が注目しているのは、大本営発表の二の部分です。当時、サイパン島には、およそ2万人の日本人が暮らしていました。沖縄出身の人が多く、サトウキビの栽培などで生計を立てる人が多かったんです。聞いていただいたように、大本営は、住民のほとんど全員が将兵と運命をともにした、つまり、死んだと発表しました。これは事実とは違います。実際は、住民のおよそ半数はアメリカ軍によって収容されました。しかし、日本軍の論理では、軍と運命をともにするのが正しい住民の態度だったわけです。日本放送協会はその軍の論理を忠実に放送していました。

当時、『世界の戦局』という解説番組があり、日本放送協会の職員が自ら原稿を書いて放送していました。「サイパンの教訓」と副題が付けられた放送がありました。音源は残っていませんが、放送内容が書かれた文章が残っています。

<「一死奉公」という言葉は常に雑作もなく使われているが、全国民が、このサイパン非戦闘員の沈毅壮烈なる最期に倣うだけの覚悟を決めて、ほんとうの「一死奉公」に徹するならば、戦局がどれ位重大化しても、日本の前途は少しの心配もない。この覚悟、この意気こそが最大の戦力である>

『世界の戦局』が強調するのは、日本軍の玉砕よりもむしろ、非戦闘員であるサイパン住民の自決でした。「サイパンの教訓」というのは、そういう島民の覚悟にほかならなかったわけです。

7月19日に、大木惇夫が作詞、山田耕作が作曲した「サイパン殉国の歌」という歌が放送されました。先ほどのサイパン陥落のニュースは7月18日の放送です。その翌日には「サイパン殉国の歌」が放送されました。日本軍と日本放送協会は緻密に連絡をとっていて、おそらく日本軍が突撃するという知らせは2週間ぐらい前に、あったわけです。全滅は大本営として見えていたわけで、あとは、いつ日本軍突撃を発表するかだけだったわけです。発表する日はいつか、日本放送協会にも連絡があったはずですから、大本営発表の翌日には、こうした歌ができていたんです。

「サイパン殉国の歌」

三、   哭(な)け怒れ 讃えよほめよ

    武器とりて 起ち得る者は

    武器とりて みな戦えり

    後(しりえ)には 大和撫子

    くれないに 咲きて匂いぬ

サイパン島の資料映像で、崖から飛ぶ降りる女性の映像があります。「くれないに 咲きて匂いぬ」は、崖から飛び降りて死んでいった女性の血を歌っています。

四、   哭け怒れ 讃えよほめよ

     代々(よよ)享(う)けし 忠武の血もて

     旗じるし高く 揚げたり

     仰ぎみて 同じこころに

     戦いに われら続かむ

「仰ぎみて 同じこころに 戦いに われら続かむ」と歌います。サイパン陥落という負け戦で、国民が戦意喪失に向かってはならない、むしろ、それをバネにして復讐心を喚起する、そういう日本放送協会なりの戦略があったと思います。この歌は山田耕作の傑作の一つだと言われているそうです。一回の放送のみならず、『国民合唱』という番組で、毎日毎日、一週間にわたって、放送され、国民に刷り込み続けるということが行われました。

特攻隊出撃の番組をつくった制作者は特攻隊員の本当の姿を知っていた

もう一つ音源を用意しました。1945年6月6日に放送された『陸軍前線基地録音隊記録「出撃」』というタイトルの番組です。特攻隊が鹿児島・知覧から沖縄に向かって出撃していく、その出撃の実況録音です。最初の音源と同じく高橋映一さんが録音しました。

<(前説)五月〇日(〇はマルと読まれている)、暁をついての第〇次総攻撃。出撃の模様であります。出撃実況、シマノ報道班員。

(実況)決戦場・沖縄の戦いは青葉若葉の今日このごろ、ますます激しく、戦局また●(聞き取り不能)とします。その前線に陸軍航空基地、昨日も今日も戦いの息吹を一杯にたぎらせて、再び還らざる特別攻撃隊、また翼を重ね、敵会戦を求めて飛び立ってゆきます。

まだ明けやらぬ付近一帯、あたりの山は黒々と眠り、遠く飛行場の端まで並べられました誘導機をはじめ、特別攻撃機、直掩機、隼、飛燕、疾風、それに陸軍新鋭〇〇戦闘機。それらを囲んで機づきの整備兵が小さくアリのように見えます。飛行機は戦場沖縄までわずかにひと飛び。彼我入り乱れての航空作戦…>

この番組は50分という長い番組です。沖縄戦の最中、盛んに特攻攻撃が行われましたが、特攻隊基地を取材した番組は当時の記録から、4月から6月までに9つありました。他にも特攻関連の番組はたくさんありました。この番組の記録に「手記朗読 玉田報道班員」「攻撃実況解説 島野報道班員」とあり、これから察するに、出撃実況のみならず、国のためにこれから立派に死んでいくぞという特攻隊員の手記を玉田報道班員が朗読する、そういう番組をつくっていたことになります。

実は、番組制作者は特攻隊の本当の姿を知っていて、こういう放送を出していました。1945年4月21日に『特別攻撃隊出撃―前線某航空基地にて―』という番組が放送されました。この番組を制作した長澤泰治ディレクターが戦後、こう書いています。

<出撃の前の数日は、ひと時でもそのことを忘れたいのだろう。明日になれば二度と生きて帰ってこられないのだから。そう思うだけで可哀想だった。場末の飲み屋で深酒をあおって最後は前後不覚になり、口論や喧嘩が絶えなかった。これは軍の機密だったが知る人は知っていた>

長澤ディレクターは、明日出撃だという兵士たちの部屋をそっとのぞいてみたそうです。

<兵士たちはベッドに横たわってはいるが、眠っている者は一人もいなかった。まんじりともしないうちに朝がくる。司令官をはじめ隊長が見守る中を、一機また一機と飛び立っていく。中には、心の中の名状しがたい興奮のもって行き所がなく、滑走路を走り出してから、離陸できずに、爆破したものもいた>

これが特攻隊攻撃の本当の姿だったわけです。

この2つの音源だけでも、戦時中のラジオ放送の本質の一端、つまり、ラジオが何を伝えていたのか、そして何を伝えていなかったのかを、読み取ることができると思います。

満州事変、ラジオを使って日本軍の正当性を繰り返した

ここで、時間を遡って、そもそもの話をしたいと思います。日本でラジオ放送が始まったのは1925年、大正14年です。はじめから、日本放送協会だったわけではありません。東京、大阪、名古屋それぞれに放送局が一つずつつくられました。無線電信法という法律があって、その元でラジオ放送が始まりました。この法律の第1条にこう書かれていました。

<政府之ヲ管掌ス>

政府の手の平の中で、ラジオはやるもんですよ、という法律の元でラジオは始まりました。こういうと、はじめからそうだったと思われても仕方ないのですが、実は、そうでもなかったんです。当時の音源は何も残っていませんが、東京放送局の講演放送が出版化されていて、それを読むと、いつ、どういう放送がされていたのかがわかります。意外なことに結構、多様性がありました。例えば、帆足理一郎という早稲田大学の先生が、軍事費の突出を批判して、軍事費を国民の福利厚生や文化活動にまわせばどんなにいいだろう、とラジオで講演しています。婦人活動家の久布白落実が、売春とそれに伴う女性らの人身売買を禁止する条約について政府が批准に消極的であることを激烈に批判する講演をラジオは放送していました。1925年の段階では、こういう放送をしていました。

東京、大阪、名古屋にあった3つの放送局は翌1926年、逓信省の指導によって、日本放送協会に統合されます。日本放送協会のほとんどの理事クラスが逓信省出身者で占められていました。段々、日本放送協会は政府の御用放送局化していくわけです。

日本放送協会ができて5年後の1931年、満州事変が起こります。私たちは、満州鉄道の爆破は日本軍の自作自演だったことを知っています。けれども、当時の人はそのことを知らなかっただろうなあと僕は思っていました。実はそうでもないんです。小説家の安岡章太郎は『僕の昭和史』でこう書いています。

<母たちは、手に号外を持っており、その前夜、九月十八日の夜中に満鉄が爆破されたので、日本軍とシナ軍との間で戦争がはじまったと書いてあった。それで母は、三年前にチョーサクリンの死んだときのことを憶い出し、こんども本当は日本軍が爆弾を仕掛けたにちがいないということを、得意になって近所の人たちに話していたところなのだ>

何も安岡さんのおかあさんが特別だったわけではないのですから、多くの日本人が満州事変の一報に接した時、また日本軍がやったな、と実は思っていたんですね。そういう世の中で、日本放送協会はどういう戦略を立てたか。中山龍次という当時の理事は、満州事変当時のことを振り返って、1942年にこう書いています。

<日本としてはどうしても国論を統一して国難を打開して行かなければならぬ。当時放送事業の責任者であった余は、これには先ず放送を利用して、出来るだけ事件の真相を国民に伝えて、輿論の向かう所を明らかにしなければならぬと痛感し、此の方面の運動に乗り出したわけである>

「この方向の運動」は何か。現役の軍人にマイクの前に立ってもらうということだったんです。軍人のみならず、文化人、知識人、いろいろな分野の人たちが出演する講演放送を満州事変勃発4日後の9月22日に始めます。番組タイトルしかわかりませんが、タイトルから察するに、日本軍の正当性、中国軍の悪らしさ、そして、満州という土地が日本の経済にとってどれだけ重要か、ということを来る日も来る日もラジオを使って伝えました。中山龍次はこう言っています。

<次第に日本の国論は統一し得たので連盟理事会に於ける十三対一、又本会議における四十二対一という最悪の場面に直面しても、国民の輿論は完全に一致して微動だもしなかった>

「十三対一」「四十二対一」は満州をめぐる国際連盟の決議ですけれど、「一」というのはもちろん日本です。完全に日本が世界の中で孤立してしまったけれども、「国内の與論は完全に一致して微動だもしなかった」、これはラジオががんばったためだと書いています。

国民を戦争に導くため、ニュース原稿は書き換えられた

満州事変当時、どういうニュースを出していたのか、どうしても手掛かりがありませんでした。新聞であれば、当時の記事があるので検証ができます。放送は原則、放送したら終わりで検証には困難が伴います。さらに、敗戦時、日本放送協会はニュース原稿を含め資料を徹底的に燃やしました。ただ、時々、とんでもない資料が出て来ます。1987年に、1943年9月の6日分の放送用ニュース原稿が古物商の倉庫から出て来ました。

ニュース原稿は、日本放送協会の記者が取材して書いていただろうと思うかもしれませんが、そうではないんです。当時、日本放送協会には、ニュースを現場で取材する機能はありませんでした。同盟通信という国策の通信会社から配信される記事をアナウンサーが読んでいました。ニュースを担当する報道部員は何をしていたかというと、同盟通信の記事を放送用に書き換えていました。同盟通信の記事は書き言葉ですから、それをラジオの話し言葉に書き換える、これまではそう言われていました。でも実は、それだけではなかったんです。報道部員だった田中という人が、『放送研究』という雑誌にこう書いていました。

<同盟通信を使っても同盟通信以上の国策的効果があがればよい>

<我々編集者は常に同盟通信以上の効果をあげるために工夫し努力しなければならない>

田中さんの言うところの「工夫」「努力」はどういうものだったか。残されたニュース原稿をみると、同盟通信の記事で、ある部分が削除されたり、ある部分が加筆されています。1943年9月1日に放送されたニュースを取り上げます。「レンドバ、ニュージョージア戦 〇〇参謀談」という同盟通信の記事が元になっています。ソロモン諸島中部の戦いを視察した参謀が記者団に語った談話記事です。参謀は、航空機の不足を指摘して、増産のため銃後の団結が不可欠であると訴えている、そういう趣旨の記事です。元の同盟通信の記事から削除された部分があります。削除されたのは次のような部分です。

<(アメリカ軍は)近接戦闘では必ず敗れると意識してゐるので歩兵の近接を避けて、専ら物質戦闘・火砲の偉力にたよつてゐるのみである。だがアメリカの歩・砲・飛の協同作戦は流石に巧妙で、その三者一体の進路は実に巧みに一つの陣地に向つて集中されて来る。これは彼等の特色で、かうして徹底的に叩いて日本軍の手足をずたずたに斬りさいなんで全体を弱めておいてから攻めて来る>

<敵の鉄量がかつてに縦横無尽に偉力を振つてゐるのである。そして新たなジャングルを求めざるを得なかつたのである。ここでは実に凄絶な鉄と血との闘いが繰拡げられてゐる。われにもう少しの鉄があれば血の力で敵の鉄を圧倒することが出来るのである。だが遺憾ながらいまの敵の鉄量に圧倒されねばならなかつた>

戦場で戦っているのは、ラジオを聞いている人たちの夫だったり、兄だったり、恋人だったりするわけです。そういう人たちがどういう目にあっているのか、あまりにリアルな戦場の実相を放送することができなかったわけです。これは、ロシア・ウクライナ戦争を見ていればたぶん、同じことが今でも行われているだろうと想像します。

他にも、いろいろな書き換えが行われています。例えば、ヨーロッパ戦線では同盟国ドイツがいかに強いか、巧みに強調して書き換えているものや最後のがんばりや我慢を教訓として書き加えている原稿があります。

『放送報道編輯例』という冊子があります。これは、当時の日本放送協会報道部で使われていた教科書と言っていいと思いますが、報道部の新人にニュースの書き換え方を教えるため、過去の事例をまとめたものです。この冊子に取り上げられている1943年7月23日に放送されたニュース原稿を見てみます。ソロモン諸島方面の戦況ニュースです。元になっている同盟通信の記事は「日本軍の反撃を認む」の見出しが付された「ブエノスアイレス二十二日発同盟」の記事です。

<反枢軸軍司令部は、二十二日の公報において、ムンダ基地における日本軍が米軍に対し反撃を加へた旨発表した>

たったこれだけです。このニュースが放送された時点で、ソロモン諸島の戦いにおいて激戦が続いていましたが、アメリカ軍との戦力の差は圧倒的で、日本軍の敗北は時間の問題でした。同盟通信の記事はこうした局面で、日本軍が局地的な反撃をしたということを敵側も発表した、と短く伝えました。これがラジオになると、原稿は3、4倍に増えて、こうなりました。

<ソロモン群島ニュージョージア島に上陸を企てたアメリカ軍は、ムンダ方面のわが守備隊の勇戦敢闘の前に、或は前進を阻まれ、或は殲滅され、散々な苦戦に陥つてゐます。この苦戦の模様は、米英側の新聞報道も、「アメリカ軍は過去三十六時間少しも進出してゐない」と、伝へてゐる有様ですが、ブエノスアイレスからの同盟電報によれば、敵反枢軸軍司令部も、事実をかくし切れず、きのふの公報の中で、「ムンダ基地の日本軍は、アメリカ軍に反撃を加へた」と、渋々発表してゐます>

このニュースだけを聞けば、ニュージョージア島で、日本軍が勝利をおさめつつある、としか聞こえないと思います。こういうふうに、大胆な書き換えが行われました。

当時の報道部員の声が残っています。

<この際、客観的編集方針はすべからく一擲して、国家意思を持った主観編集方針の確立を必要と考える>

別の報道部員はこう言っています。

<国家の意図や国家の正しい主張といったものを積極的に織り交ぜ、国策を強烈に反映せしめていかねばならない>

共通するのは、とにかくニュースは客観的ではいけません、ということです。

太平洋戦争が始まってから報道部員はこう言います。

<報道分野に於いてこの目的を果たすのに最も役立つものはニュースによる輿論の指導であろう>

別の報道部員はこう話します。

<ニュース編集者は集団的イデオロギーの指導者たるべきである>

つまり、世論を指導する、国民を戦争に導いていくためにニュースはあるんだ、ということを当時の報道部員は主張していました。ニュースに限らず、ドラマにしろ、芸能にしろ、教養番組にしろ、ありとあらゆるジャンルで、日本放送協会の私たちの先輩は、ある意味、全身全霊をかけて、国民を戦争に導くために努力をしていました。「あの時代なんだから仕方がなかった」という言い方がありますが、決して、私たちの先輩は仕方なく放送していたのではなく、あらゆる努力を傾けて戦時中の放送をしていました。そこには、放送人としての誇りだとか、矜持だとか、あるいは葛藤だとか、逡巡だとか、そういう心のひだひだみたいなものもあったんだということが、つぶさに見ていくとわかります。そのことを本に書きたかった。そこまで見えた時に、では自分だったらどうしたんだ?と考えます。今はどうなんだろう?と考えます。戦時中のラジオ放送を今、私たちが検証して何かを学ぶとすれば、そういう部分にあるのではないか、と思います。

占領下、戦時中の放送をどう総括したのか。 「国策遂行の手段的役割」は誤りではない

戦争が終わってからのことを簡単に話そうと思います。何が変わったのか、何が変わらなかったのか。問題の所在は、何が変わらなかったのか、にあると思います。敗戦を境に、占領下のラジオは、「政府之ヲ管掌ス」が「GHQ之ヲ管掌ス」になったと言えると思います。アメリカの放送はどういうものだったのか。二つの側面があり、一つは民主主義の伝道者という側面が確かにありました。街頭録音という番組がありました。ステージにマイクを持ったアナウンサーが立って、大群衆が取り囲みます。ステージに一人ずつ上がって、マイクを通して自分の意見を話します。それを放送する。これは戦時中にはあり得なかった番組だと思います。「マイクの開放」という言い方をしますが、確かにそういう側面がありました。

一方で、占領軍として強面の顔がありました。広島や長崎の原爆の被害は一切、放送することができませんでした。アメリカ兵による犯罪も一切、放送することができませんでした。こういうカッコつきの民主主義でした。

もう一つ、忘れてはいけないと思うのは、占領下において、日本政府と日本放送協会は戦時中の放送をどのように総括したのか、ということです。それを端的に述べているのが、田中耕太郎の主張です。田中耕太郎は、戦前は東京大学法学部の部長を、戦後は文部大臣、最高裁長官を務めました。田中耕太郎は敗戦から5か月後の1946年1月にこう書いています。

<従来放送は、長い間、国策遂行の為の手段的役割を果たして来た。此のこと自体が誤っているわけではない。問題はそれが如何なる国策の遂行であったかに存する>

田中耕太郎も、戦時中の放送はいい放送だったとは言っていない、悪い放送だったという認識がある。ただ、ラジオが「国策遂行の手段的役割」を果たしていたから悪いのではない、政府の政策が間違っていたから悪かったんだ、ということなんです。つまり、戦争は終わったけれど、日本放送協会はこれからも「国策遂行の手段的役割」を果たしていかなければいけません、と言っています。これが深刻なのは、田中耕太郎一人の独特の考え方ではなかったんです。多くの政権側の人間がこのように考えていました。もっと深刻なのは、日本放送協会の中にも、こう考えていた人が、敗戦をまたいでなお、いました。このことをどう考えていくのか。議論するテーマだと思います。 (つづく)

●編集担当:文箭祥人 1987年毎日放送入社、ラジオ局、コンプライアンス室に勤務。2021年早期定年退職。

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