大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」78 松江支局長編3 安富信

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島根県警初の身代金誘拐事件

 そうやって、サツ回り記者を鍛えていたら、千載一遇のチャンスが巡って来た。事件は、備えていれば、飛び込んで来るものだ。
 1998年11月17日午後5時過ぎ、県警キャップのM尾記者から変な電話が支局に入った。石井次席から受話器を受け取った。「支局長、どうやら誘拐事件かもしれません」。すわっ!だ。来た!だったが、ホンモノの誘拐事件だとすれば、慎重に動かなければならない。M尾キャップやO達、A井記者らには、密かに裏を取る指示をしながら、支局長としての仕事をした。
 刑事部長に連絡を入れると、あっさり事実関係を認めた。びっくりだ。事件発生は、この日の朝で身代金要求もあったという。何故、報道協定を申し出ないのか? と聞くと、島根県警史上初の身代金誘拐事件だったので、手続きに手間取っているという。アホか!人命がかかっているのに、手続き論でグズグズしている場合ではないだろう。筆者はすぐに、報道幹事社である山陰中央新報の編集局長の持田さんに電話を入れた。彼は知らなかったし、非常に驚いた。サツ回り経験がほとんどない持田さんは、筆者に聞いた。「どうしたらいいの?」。
 仕方ないから、直ぐに報道幹事会を招集して、県警本部と報道協定を結ぶべきだと提言した。いい支局長だ。表向きは報道協定に前向きな顔を見せて、裏では密かに支局員全員を支局に呼び戻し、誘拐の発生現場の美保関町近くに数人を張り込ませ、松江署にも数人張り込ませた。協定締結までの僅かな時間は自由に動けるからだ。食えない支局長だ。そうこうするうちに、協定が締結されたのだが、あっという間に、容疑者確保、人質も無事保護となり、協定は1時間も経たないうちに解除された。

病院で被害者の声、他社を圧倒

 ここからが勝負だ。現場の美保関町は当時、八束郡内の1つの町。松江市から北東に国道431号で一本。東に境水道大橋で鳥取県境港市に行けるが、確保した容疑者と、保護された被害者(中学生とわかった)は、一本道の国道を西に進み、松江市内の松江署と松江赤十字病院に向かうと確信した。 
 果たして、美保関町近くで待機していたY井記者から、電話が入った。「捜査車両とすれ違いました。救急車とも」。貴重な情報だ。捜査車両には容疑者、救急車には被害者が乗っているはず。支局に待機していたS根記者を松江赤十字病院に行かせた。支局から走って2分だ。当時松江市内にはこの松江日赤と市立病院が比較的大きな病院だが、橋北地区、すなわち美保関から近い病院は松江日赤病院だったから、こちらに来る方に賭けた。一番年かさのS根記者を走らせた。賭けは当たった。
 こうした場合、被害者の写真を撮るのを優先すべきか、話を聞くのを優先すべきか、非常に難しい。捜査員に付き添われて救命隊員もいる中で、S根記者は話を聞くことを選んだ。「怖かった」。一言だけ聞けた。しかし、写真は上手く撮れなかった。仕方ない。社会面トップを飾った記事に、読売だけ、被害者の声が載った。ただそれだけだ。S根記者は写真を撮れなかったことを悔やんだ。しかし、支局長は彼を誉めた。「うちだけだ。被害者の生の声が入っているのは」。今から見れば、何のことはないだろう。しかし、凄く大事なことだと思っていた。
 当然のように、読売新聞は、出足が早く、他社を圧倒した。社会面トップ記事、島根版で大きく詳報した。主に筆者が社会面を、石井次席が島根県版を担当、M原、T本両主任にも手伝ってもらった。気持ち良い紙面づくりだった。

雪の大山を背景に魚が跳ねる写真を撮れ!

 後日談がある。当時の松江署刑事課長は昔からのネタ元だった。事件後しばらくして、彼と会食した。事件はもう済んだからか、彼は事件の詳細を語った。どうやって被疑者を割り出して、逮捕したか。微に入り際に入り。悪い支局長は悪いことを思いついた。意地悪をして、1年生記者2人に「島根県版で、事件の詳細を書いてみろ。映画を見ているような感じで。上下2回の紙面をやる」。2人は必死に夜回りをして情報を集めて書いたが、全然ビビッドではない。面白くない。何度も書き直させた。筆者は2回分の記事を掲載したと思い込んでいたが、今、紙面を探してもそんな記事はない。空回りだったのか?
 こうした「空回り」は度々あった。困った支局長である。年末を迎えると、地域版では年明けから始める新年連載の企画を考える。悪い支局長はまたも、しゃしゃり出た。本来、次席と若い記者たちで企画を練るものだが、支局長の鶴の一声で決まった。「島根の食の文化を書こう。タイトルは、はぐくむ食-現地からの報告ーだ」。まあ、強引そのものだ。果たして、原稿は全て支局長が見る、と言い出した。とりわけ、元日の朝に載る島根版のトップ記事にはこだわった。
「スタートは中海からや。中海の幸をふんだんに書くんだ。写真は特に大事や。イメージとしては、中海で漁をする小舟の背景に雪を抱いた大山があって、小魚がピッと跳ねてる写真がいいな」。要求されたS根記者はたまったものやない。何日も未明から中海に通って、ようやく支局長が納得する写真を撮った。「土、水の<実り>新世紀へ」「魚のゆりかご中海再生」。思い入れたっぷりの見出しだ。多分。筆者が口を出したのだろう。2回目も中海でアサリ、3回目は伯太の乳製品だった。
 当時の島根版の紙面を読んでみると、随分若い支局長は張り切っている。随所に茶々を入れた記事がある。5月31日付の県版トップ記事。「県防災訓練お粗末 談笑しながら/担架作れず/負傷者放置・・・」「大震災の教訓薄れる?」。随分厳しい記事だ。阪神・淡路大震災から3年半近く経って、島根県で大地震が発生したとの想定で大規模な訓練を実施したのだが、その内容にいちゃもんを付けたのだ。県の当局者からクレームが付いた。「参加者は一生懸命頑張ったのに、この書き方はない」と。応対した支局長は「阪神・淡路大震災を体験した者としては、非常に物足りない」と反論した。そして、「視点・直言」というコラム欄に「備えに許されない甘え」と書き、それを読んだ読者からの便りを紹介して、「本当に風化こわい」と続けた。

暴走支局長、「地方部次長」の異動にがっかり

 島根原発3号機増設の公開ヒアリングを前には、M尾記者にかなり突っ込んだ連載を書かせた。飲み屋で仕入れたネタを基に、島根県御三家の一つと言われた「桜井家の破産宣告」を全国版に載せ、島根版トップ記事で詳報した。まあ、やりたい放題だ。支局長、次席、3席の3人は、県版づくりが終わると、近くの居酒屋に毎晩のように繰り出し、県版が組みあがったFAXをそこで見て、夜回りの報告も受けた。何もなければ、別の店に繰り出した。支局長生活を満喫していた。



 しかし、そんな楽しい生活は長く続かない。1999年5月、本社地方部から帰還命令が出た。社会部で随分お世話になった恒川敏明・地方部長からの電話だった。「本社に帰って来い。地方部次長だ」。最も嫌なポジションだった。反抗したが許されなかった。妻子は松江に引っ越して1年足らずだったので、しばらく松江に残ることになった。逆単身赴任だった。確か大雨の降る中、JR伯備線から山陽線に乗り継いで帰阪した。(つづく)
 

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