能登2011~24⑪里山の生業づくり ケロンの小さな村 跡継ぎを得て復興へ

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目次

先生がつくった小さな里山 能登町斉和地区

 世界農業遺産(GIAHS)で評価された「里山」は手つかずの大自然ではない。人の手をくわえることでつくられた環境だ。能登町斉和地区に元高校教師が開いた「ケロンの小さな村」は、そんな里山の可能性をおいもとめている。(2013年取材)

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 珠洲道路から200メートルほどわけいった谷間の棚田は放棄されて30年をへていた。背丈をこえるカヤや蔓草がおいしげり、湧きでる冷たい水で足下はぬかるんでいる。
 2007年、高校教諭をやめて農地をさがしていた上乗秀雄さん(69)=能登町宇出津=は、役場職員につれられてたずねねてきた。
「ここしかない!」
 直感してすぐに土地購入を決めた。
 中古のパワーショベルを70万円で入手し、妻と2人で開拓をはじめた。パラソルをたて、3本の木をくみあわせたかまどで湯をわかす。まるでキャンプ生活だ。近所の人から「新興宗教ではないか」と、あやしまれたこともあった。
 湿地の水をぬく排水溝を掘っていると大量の水が湧きだした。保健所で検査すると飲料水の水質基準を満たしている。
「水があるなら、活性化に役だつことをせい!」
 石川県教育委員会時代の上司、山岸勇副知事(当時)に助言された。
 県の補助金で耐火レンガを購入し、パンやピザを焼ける巨大な石窯を手作りした。窯のとなりには食堂にする小屋をたてた。これも骨組み以外は手作業だった。

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 2008年3月、「ケロンの小さな村」を開村した。ケロンは漫画「ケロロ軍曹」にでてくるカエルの姿をした宇宙人だ。この村にもカエルがたくさんすんでいる。
 あぜにはラッパを吹くカエルの人形がたち、木の上にはツリーハウスがそびえる。復元した1反(10アール)の田のあぜの幅は、子供が遊べるよう通常の倍の1.5メートルにした。

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 川の周囲の草を刈り、水辺におりやすくした。茨がおいしげっていた斜面にはブルーベリーやシバザクラを、水辺にはクレソンを植えた。
 2013年4月には発電もできる水車をたてた。

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のちに水車小屋がたてられる

 「素人がやってるのに、わしらが田を荒らしておくわけにいかんやろ」
 近所の住民は、珠洲道路沿いの休耕田を青々とした田にもどした。上乗さんはそれがなによりうれしいという。
 
 1000坪の里山は、子どもの遊び場にぴったりだ。
 町内に住む西谷内祐子さん(45)の自宅周辺は、用水路や川がコンクリートでおおわれ、遊具のある小学校は3キロはなれている。小学校3年生の息子は病弱でめったに外で遊ばなかった。
 ところがケロンの村につれてくると、川でカニやヒルをとらえ、ブルーベリーをほおばり、泥だらけになって1日中駆けまわる。
 「うちの子がこんなに遊べるとは思わなかった。はじめは服をよごすことに抵抗があり、指を切るだけで私が大騒ぎしてたけど、今では服をよごさないことより大事なことがあると気づきました」
 開村から5年、里山の経済効果も見えてきた。
 ケロン村には2012年、冬場を除く8カ月間で1200人がおとずれた。1反(10アール)の田で収穫した米の粉でピザやパンを焼き、計300万円の収益があがった。地域の人のつくるケーキや干し柿、パッチワークも委託販売する。
 国のすすめる農業の大規模化は能登にはそぐわないと上乗さんはかんじている。能登のような中山間地で大規模化をめざすと、耕作をあきらめる人が増えてしまうからだ。
「小規模でも、加工や販売、観光などで工夫すれば食べていける可能性をしめせた。一人ひとりが知恵をしぼって里山を復元すれば、能登はすばらしい土地になると実感しています」

地震で石窯崩壊 でも孫が継承

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 ケロンの小さな村の上乗さん(79)は2024年元日を能登町宇出津の自宅がむかえた。
 おとそをのんで年賀状を見ているときに震度6強の揺れがおそった。幸い自宅は無事だった。
 翌日、ケロンの状態が心配で、ズタズタに寸断された車道をさけて、田んぼの道をたどってケロンにきてみた。

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土台がくずれてかたむいた水車小屋

 想像以上の被害だった。女神像たちは台座から落ち、水車小屋は土台がくずれてかたむいている。米粉のパンや米粉ピザを焼いてきた石窯「ヘラクレス」は崩壊した。森のツリーハウスは無事だが、石垣や斜面がくずれ、倒木で道はふさがれている。薪小屋がたおれて雪の上に薪が散乱していた。

 ぼくが3月13日にたずねると、上乗さんは電気オーブンでスコーンやパンを焼いていた。
 「開村するときに最初につくった石窯がくずれて、石窯パンを焼けないのがいたい。今は電気オーブンで焼けるか試行錯誤しています。石窯再建には1年はかかるかなぁ」
 そう言って米粉のアンパンをごちそうしてくれた。しっとりした生地とやさしい甘みで、11年前とかわらぬおいしさだ。
 上乗さんは今年80歳。「しんどくなったら閉村すればいいや」と思っていたが、東京にでていた24歳の孫が「ケロンをつぐ」と手をあげ、12月に金沢にもどってきた。今後は孫といっしょに復旧作業にとりくむという。
「私ら夫婦は年金があるさけいいけど、若い人はそうはいかん。ついでもらうとなると、責任もプレッシャーもかんじる。もういっぺん、がんばらんならん。でも、正直言ってうれしいねぇ」

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 都市から遠くはなれた半島の里山でも、被災をのりこえ、生業(なりわい)が復活できるつことをしめそうとしている。奥能登の小さな希望の村は24歳の若者にひきつがれるだろう。

先生がつくった小さな里山 能登町斉和地区

 世界農業遺産(GIAHS)で評価された「里山」は手つかずの大自然ではない。人の手をくわえることでつくられた環境だ。能登町斉和地区に元高校教師が開いた「ケロンの小さな村」は、そんな里山の可能性をおいもとめている。(2013年取材)

 珠洲道路から200メートルほどわけいった谷間の棚田は放棄されて30年をへていた。背丈をこえるカヤや蔓草がおいしげり、湧きでる冷たい水で足下はぬかるんでいる。
 2007年、高校教諭をやめて農地をさがしていた上乗秀雄さん(69)=能登町宇出津=は、役場職員につれられてたずねねてきた。
「ここしかない!」
 直感してすぐに土地購入を決めた。
 中古のパワーショベルを70万円で入手し、妻と2人で開拓をはじめた。パラソルをたて、3本の木をくみあわせたかまどで湯をわかす。まるでキャンプ生活だ。近所の人から「新興宗教ではないか」と、あやしまれたこともあった。
 湿地の水をぬく排水溝を掘っていると大量の水が湧きだした。保健所で検査すると飲料水の水質基準を満たしている。
「水があるなら、活性化に役だつことをせい!」
 石川県教育委員会時代の上司、山岸勇副知事(当時)に助言された。
 県の補助金で耐火レンガを購入し、パンやピザを焼ける巨大な石窯を手作りした。窯のとなりには食堂にする小屋をたてた。これも骨組み以外は手作業だった。
 2008年3月、「ケロンの小さな村」を開村した。ケロンは漫画「ケロロ軍曹」にでてくるカエルの姿をした宇宙人だ。この村にもカエルがたくさんすんでいる。
 あぜにはラッパを吹くカエルの人形がたち、木の上にはツリーハウスがそびえる。復元した1反(10アール)の田のあぜの幅は、子供が遊べるよう通常の倍の1.5メートルにした。
 川の周囲の草を刈り、水辺におりやすくした。茨がおいしげっていた斜面にはブルーベリーやシバザクラを、水辺にはクレソンを植えた。
 2013年4月には発電もできる水車をたてた。
「素人がやってるのに、わしらが田を荒らしておくわけにいかんやろ」
 近所の住民は、珠洲道路沿いの休耕田を青々とした田にもどした。上乗さんはそれがなによりうれしいという。
 
 1000坪の里山は、子どもの遊び場にぴったりだ。
 町内に住む西谷内祐子さん(45)の自宅周辺は、用水路や川がコンクリートでおおわれ、遊具のある小学校は3キロはなれている。小学校3年生の息子は病弱でめったに外で遊ばなかった。
 ところがケロンの村につれてくると、川でカニやヒルをとらえ、ブルーベリーをほおばり、泥だらけになって1日中駆けまわる。
 「うちの子がこんなに遊べるとは思わなかった。はじめは服をよごすことに抵抗があり、指を切るだけで私が大騒ぎしてたけど、今では服をよごさないことより大事なことがあると気づきました」
 開村から5年、里山の経済効果も見えてきた。
 ケロン村には2012年、冬場を除く8カ月間で1200人がおとずれた。1反(10アール)の田で収穫した米の粉でピザやパンを焼き、計300万円の収益があがった。地域の人のつくるケーキや干し柿、パッチワークも委託販売する。
 国のすすめる農業の大規模化は能登にはそぐわないと上乗さんはかんじている。能登のような中山間地で大規模化をめざすと、耕作をあきらめる人が増えてしまうからだ。
「小規模でも、加工や販売、観光などで工夫すれば食べていける可能性をしめせた。一人ひとりが知恵をしぼって里山を復元すれば、能登はすばらしい土地になると実感しています」

地震で石窯崩壊 でも孫が継承

 ケロンの小さな村の上乗さん(79)は2024年元日を能登町宇出津の自宅がむかえた。
 おとそをのんで年賀状を見ているときに震度6強の揺れがおそった。幸い自宅は無事だった。
 翌日、ケロンの状態が心配で、ズタズタに寸断された車道をさけて、田んぼの道をたどってケロンにきてみた。
 想像以上の被害だった。女神像たちは台座から落ち、水車小屋は土台がくずれてかたむいている。米粉のパンや米粉ピザを焼いてきた石窯「ヘラクレス」は崩壊した。森のツリーハウスは無事だが、石垣や斜面がくずれ、倒木で道はふさがれている。薪小屋がたおれて雪の上に薪が散乱していた。

 ぼくが3月13日にたずねると、上乗さんは電気オーブンでスコーンやパンを焼いていた。
 「開村するときに最初につくった石窯がくずれて、石窯パンを焼けないのがいたい。今は電気オーブンで焼けるか試行錯誤しています。石窯再建には1年はかかるかなぁ」
 そう言って米粉のアンパンをごちそうしてくれた。しっとりした生地とやさしい甘みで、11年前とかわらぬおいしさだ。
 上乗さんは今年80歳。「しんどくなったら閉村すればいいや」と思っていたが、東京にでていた24歳の孫が「ケロンをつぐ」と手をあげ、12月に金沢にもどってきた。今後は孫といっしょに復旧作業にとりくむという。
「私ら夫婦は年金があるさけいいけど、若い人はそうはいかん。ついでもらうとなると、責任もプレッシャーもかんじる。もういっぺん、がんばらんならん。でも、正直言ってうれしいねぇ」
 都市から遠くはなれた半島の里山でも、被災をのりこえ、生業(なりわい)が復活できるつことをしめそうとしている。奥能登の小さな希望の村は24歳の若者にひきつがれるだろう。

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