無農薬ブルーベリー「町の顔」に
夏、能登半島内陸部の旧柳田村(能登町)を走ると、あちこちの畑や民家の庭にブルーベリーがたわわにみのり、「道の駅」にはブルーベリーのアイスやワインがならぶ。健康ブームもあって無農薬のブルーベリーが評判をよび、今や能登町は北陸最大のブルーベリー産地になった。でもなぜ能登にブルーベリーなのだろう。(年齢は取材当時)
「猿鬼」という怪物が神の軍隊に毒矢で退治され、黒い血が50里もながれた
という逸話がつたわる能登町五十里。2013年6月末、町野川沿いの集落から林道を数百メートル山にわけいると、谷間のわずかな平地に青いネットをかぶせた畑があった。ところどころ紫の丸い実がゆれている。
「昔は千枚田のような小さな田んぼだったんや」と小谷政治さん(78)。
かつては転作のソバを栽培していたが、転作奨励金以外は一銭にもならなかった。1990年、集落の生産組合長からブルーベリーをすすめられた。
「ブルーベリー」なんて名前も知らない。農業改良普及員も知識がなく指導できない。ほかの果樹と同じように深さ30センチの穴に土壌改良材をいれて植えてみたら、晩生(おくて)のラビットアイという種類はそだったが、早生のハイブッシュは何度植えても4、5年で枯れてしまう。そこで、丈夫なラビットアイにハイブッシュを接ぎ木した。春先に花芽を剪定して果実を太らせ選別が楽になるよう工夫した。
今、約3反(30アール)に20種約600本そだてている。無農薬だから手で毛虫を駆除する。下草刈りも大変だ。でも小遣いにもならなかったソバやコメにくらべるとありがたい。小谷さんは話す。
「ブルーベリーがなかったら、この田は今ごろはカヤや雑木におおわれて山にもどっとったわ」
開拓地跡を活用 「世界初ブルーベリーワイン」めざす
能登町のブルーベリーの歴史は柳田村時代の1983年にさかのぼる。
旧柳田村では、国営農地開発で380ヘクタールが開拓され、クリの栽培をめざしたが、ほぼ全滅した。そのころ村の農協の駒寄孝造組合長が、「村にナツハゼがあるなら、それにちかいブルーベリーをやったら?」という筑波大の研究者の勧めで酸性土壌に強いブルーベリーの試験栽培をはじめていた。その助言もあって、役場職員だった高市範幸さん(60)は、荒れた農地にブルーベリーを植えて、世界で最初のブルーベリーワインをつくろうと考えた。当時「村おこしワイン」が全国に広まっていた。
いきなり予算を要求してもみとめられないから、1987年に組合長や村長ら5人で1000万円を出資し、巨峰ワインや胡麻焼酎「紅乙女」を生み出した福岡県の醸造家に教えを請うた。2年後、「猿鬼伝説」の名でブルーベリーワイン発売にこぎつけ、最初の3000本は3カ月で売り切った。
柳田村はブルーベリーを転作作物として奨励し、1990年に五十里地区と田代地区の計2・2ヘクタールの田に苗を植えた。
93年夏、役場の課長補佐だった高市さんが中心になって、全国の研究者や生産者がつどう「全国ブルーベリー祭り」を企画した。6000円でワインと能登牛の飲み放題・食べ放題にしたら、予想を上回る人がつめかけ、肉が売り切れてしまった。
それが反村長派の議員の攻撃材料になり、高市さんは村議会でつるしあげられた。
「祭りは失敗だ。謝罪しろ!」
「大成功だと思っております」
高市さんが声をはりあげて答弁すると「なんだと、きさまぁ!」と大騒ぎに。
「やめてやるわ!」と啖呵を切って、43歳で役場を退職した。
水道も電気もない山奥にそば店
その後、電気も水道も道路もない山中に、古民家を移築してそば店をひらくことにした。周囲からは変人あつかいされた。
北陸電力に「電柱をつけて」と申し込むと、末端の電柱から1キロ以内は無料だが、それよりはなれているから60万円必要という。
当時は珠洲原発建設計画をめぐって、賛成派と反対派がはげしくあらそっていた。
「原発に徹底して反対してやるわ!」
高市さんが毒づくと、北陸電力は妥協案を提示してきた。
現在の末端から1キロ以内の珠洲道路の入口に電気の案内板をもうけてまず契約する。その後2つめの契約で残りの200メートルをひく……。こうして1994年、「夢一輪館」はオープンにこぎつけた。
こだわりのそばだけではなく、ブルーベリーのジャムやサイダー、燻製豆腐「畑のチーズ」、能登のタコの燻製……など、能登の素材にこだわった商品を次々に生みだしている。合鹿(ごうろく)地区の農民につたわる「合鹿椀」という無骨な椀は、古代輪島塗の原型という説もあるが長らく忘れられていた。その制作にもとりくんだ。
正規雇用2人とパート3人をやとい、過疎のムラの貴重な雇用の場になっている。
「猿鬼は新しい文化をもたらしながら、村人に殺された存在だったのではないか。私も、自分が猿鬼になるつもりで歯を食いしばってきました」
高市さんはふりかえった。
廃材のチップで土づくり
柳田村ふれあいの里公社(現在は能登町ふれあい公社)のモデル農場に勤めていた田原義昭さん(62)は、1993年の「全国ブルーベリー祭り」に参加した全国の生産者や研究者を村内の畑に案内した。生育が悪く枯れかかった木が多いのを見て、多くの参加者から「全然なっとらん」と批判された。
千葉県立農業大学校の専門家に土壌分析をしてもらうと「日本で一番悪条件」と診断された。もともと水田だから水はけが悪く根がくさる。だから早生のハイブッシュという品種はそだたなかったのだ。
まずあぜをこわし、溝をつくり、水はけをよくした。さらに、視察した米国のブルーベリー畑に木材チップが埋まっていたことを思い出した。当時、能登では各地で道路建設がすすみ、建設業者は伐採した木の根や端材をくだいたチップの処分にこまっていた。それをゆずりうけ、1反(10アール)あたり10トンダンプ200台分のチップを厚さ50センチしきつめ、そこに苗を植える手法を2年間かけてあみだした。
栽培農家を増やすため、土づくりや苗づくり、植えつけまで「モデル農場」がになった。95年には苗や資材の代金の半額を農家に補助する村単独の制度をつくった。
廃材を再利用する手法は注目をあびたが、2003年に「産業廃棄物を無許可で処分している」と告発された。公社やモデル農場は警察に捜索され、農場長だった田原さんは十数回も警察署によびだされた。結局、金銭をうけとっていないことがわかり不起訴になった。事件を機に、「能登産の針葉樹で、長さ3センチ、厚さ0.5センチ以下」といったチップの利用基準をもうけた。
ブルーベリーは当初、国営農地開発の開拓地を活用する計画だったが、田原さんは「家に近い一番よい田でつくれ」と指導してきた。歩ける距離ならば老いても管理できるし、孫もいっしょに収穫を楽しめるからだ。
ブルーベリーは苗を植えてしまえば、わずかな施肥と下草刈りをすればよい。1反の田で150本管理すれば、年間450キロ収穫できる。町内の第3セクター「柳田食産」への販売価格は1キロ900円前後だから40万円ほどの売り上げになる。1反で10俵(600キロ)とれても十数万円にしかならないコメとは比較にならない額だ。
能登町内では120軒がブルーベリーを植え、高齢化で廃業した家をのぞいて現在87軒が11.5ヘクタールで栽培している。年間約20トン出荷し生産額は約2000万円。
「ほかの農作物が年々減るなかでブルーベリーだけはのびつづけ、町の『顔』になった。15ヘクタールをめざしたい」と、町農林水産課は期待する。健康ブームで庭先に植える民家も増え、「町内の半分ぐらいが植えているのでは」と田原さんは推測する。
過疎化による耕作放棄をふせいできたブルーベリーだが、後継者獲得は今後の課題だ。田原さんの集落も30軒中10軒は独居で、子どもがいるのは4軒だけ。
「10年もすれば条件のよい田も荒れてしまう。ブルーベリーだけではまだ食べていけないが、都会では1キロ4000円で売っている例もある。米なんてつくってる場合じゃない。ほかの作物とくみあわせれば若い人に参加してもらえる可能性もあるはずです」
田原さんは2012年3月に公社を退職したあとも、自宅の庭でさまざまな品種を交配し、甘くて丈夫で収量の多い新品種を生みだす努力をつづけている。
ボロボロになった夢一輪館
2024年3月13日夕方、5年ぶりに「夢一輪館」をたずねると、ところどころに雪ののこる庭で、ダウンジャケットをはおった高市範幸さん(72)がたちつくしていた。
「どこから手をつけていいかわからんで、ため息ばかりやわあ……」
夢一輪館の建物はたおれてはいないが、よく見ると、コンクリートの基礎が真っ二つに割れている。屋内にはいると、柱が斜めにゆがんで、窓がうごかない。土壁もくずれおちている。海藻などの保管庫や冷凍庫をおいた加工場はコンクリートの床が地割れのように裂けている。
海岸が隆起したから、アカモクなどの海藻は入手できないだろう。岩場にやってくる産卵期のマダコを、疑似餌をつけた竹竿でおびきよせて熊手でひっかける「たこすかし漁」もできないだろう。
コロナ禍で客が激減し、ようやく落ち着いてきたと思ったら、2023年5月5日の珠洲の地震がおきた。今年こそはがんばろうと決意して2024年をむかえたところだった。
元日、娘と孫と生き別れか?
元日の午後4時、高市さんは自宅から「夢一輪館」に来て、捨て猫のチョンコにエサをやった。
建物に鍵をかけて車にのろうとしたら、車が踊り狂うような揺れがおそって、建物の窓や玄関の扉、ガラス戸がバンバンたおれて落ちた。なんとか運転席にすわって、道にで出ようとしたらもう1度すごい揺れがおそった。
自宅ではテーブル2つをつなげて、「お父さんが帰ってきたら食べよう」と娘と大学生の孫娘がおせちを用意していた。
高市さんはなんとか自宅にもどったが2人はいない。
ひと晩、自動車内で寝たが翌朝になっても娘と孫はあらわれない。妻の実家に逃げたのかと思って電話するがつうじない。道路があちこち崩壊していて、かけつけることもできない。
「土砂崩れにやられて生き別れしてもうたんじゃないかなー」
呆然としていると、集落の人に「高市さんもこっちに避難しておいで」と声をかけられた。
「娘も孫もおらんし……」
うつむいてこたえると、
「ふたりなら小学校の体育館にいっとるよー」
大学4年の孫が避難所の知識があり小学校の体育館に母親をつれていったのだ。
それから2週間、体育館で暮らすことになった。
水も電気もない。懐中電灯にペットボトルをかぶせて明かりにした。食事は冷たいおにぎりやパンばかり。きたなくて寒い仮設トイレにはいきたくないから、食べる量をへらし、水をのむのもひかえたら、便秘になった。苛酷な環境で体調をくずす人があいついだ。
「子どもに言われたし、オレもいくわ」
同級生や近所の人たちは次々に柳田をはなれていく。
「柳田の人口は半分になっちゃう……」
さびしさにおそわれながら、高市さんは友人たちを見送った。
2週間後に電気がつくと自宅にもどったが、水はでない。50メートル先の水路からバケツで水をくみ、トイレまで何往復もしてはこんだ。雨の日は屋根からおちる水をバケツにためた。飲料水は避難所からポリタンクでもらってきた。毎日の力仕事で体のあちこちが痛んだ。
娘は自衛隊風呂にかよった。高市さんは一度だけ行列にならんだが、寒くて風邪をひきそうでひきかえした。けっきょく2週間入浴しなかった。
蛇口から水がでた、と思ったら漏水がみつかりパタッととまる。何度もそんなぬか喜びをくりかえした。それでも高市さんの地区は1カ月ほどで復旧した。旧柳田村でも復旧が4月末にずれこむ地区もある。
山水を利用する里山の知恵
高市さんは地震後も毎日、捨て猫のチョンコにエサをやるため「夢一輪館」にかよっている。
「夢一輪館」は無人の山だったから水道はない。50メートル先の谷の湧き水をタンクにため、その水をポンプでみちびいている。ところが地震で地中の配管がこわれてしまった。高市さんは地表に管をはわせた。すると、むきだしのパイプは寒波におそわれた日に凍結してしまった。
凍結をふせぐには常時水をながせばよいが、ながしつづけたら水源のタンクが空になり、ポンプが焼ける。その日の気温をみながら、ポンプをうごかす時間ととめる時間をあらたに設定しなければならない。
「30年前にはじめたときは試行錯誤の連続やった。そういう技術がないと里山暮らしはできない。後継者をつくろうにも、蛇口をひねれば水がでる暮らしをしている今の人には無理やろね」
わずか半世紀前、人々は山水を活用し、家がくずれたら近所で助けあって手作業で修理した。里山の山菜や、海でとれるタコや海藻などを保存食に加工してきた。
今回の地震で、都会への人口流出も加速するだろう。里山・里海の知恵をつたえてきたムラは一気にくずれてしまうのではないか……。
72歳、猿鬼の意地
谷間の水タンクのポンプを調節したあと、夢一輪館にもどってタンクをみると、水がいっぱいにたまっていた。
「よかったぁ。ホッとしたわぁ。正月に惨状をみたときは、もうやめだ、と思ったけど、多くの人に支援いただいているし、やめるわけにはいかんもん。山奥でそば屋をはじめたとき、みんなにばかにされた。やめたら『それみたことか』と言われる。意地でもここでふんばります」
できれば5月の連休までに店を再開し、1日20食だけでもそばを打ちたいという。
コメント