大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」50(社会部編24) 安富信

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夢の「遊軍記者」

 記念すべき50回目だ。一気に写真10枚で紙面を飾ろう。
 新聞記者になって13年目、やっと夢の「遊軍」になった。正直嬉しかった。というより、地獄の捜査一課担が終わってホッとしていた。同時に、これでやりたかった社会面での連載記事が出来ると思った。甘かったが。

 ここで、一般の方にとって新聞社の遊軍という部署は馴染みのないところなので、少し説明しよう。遊軍とは文字通り遊ぶ軍だ。新聞社は多分に軍隊の名称が好きだ。前にも書いたが、年に1回だが、新聞休刊日に社会部全員が参加する泊りがけの宴会は、海軍の「半舷」になぞらえて「全舷」と呼ぶし、肩書の無い記者は「兵隊」などと言う、前近代的な組織なのだ。遊ぶと言っても、本当に遊んでいる記者ではなく、自由に自分のテーマを持って、それを追いかける記者だ。社会部だけにある部署だ。社会の問題点や課題を追いかける花形記者である。今では、どうか知らんけど。
 筆者が記者になりたかった直接の要因は、テレビドラマで観た「事件記者」だったが、読売新聞大阪本社に選んだのは、この遊軍記者たちが書くユニークな連載を読んだからだ。「ある中学生の死」「あるOLの死」「パンの耳」などの名作だ。事件や社会の出来事を表面的に書くだけではなく、その裏に潜む社会の影や背景を浮かび上がらせ、読者に訴える記事だ。だから、平成3年(1991)9月に遊軍記者になった時、胸を膨らませた。

 当時、社会部にはおおむねこの遊軍記者が10人ほど、その上にデスクである次長が10人程度常駐していた。夕刊の原稿をさばき、次長に渡す日勤当番、泊まり勤務に付いて朝刊を作る遊軍と次長の宿泊当番が週に1、2回回ってくるが、その他の日は、自由に取材活動が出来る。たいてい、次長1人に2,3人の遊軍がチームを作っていた。もちろん、遊軍やデスクになる前のそれぞれの経験、例えば府警ボックス経験者や大阪地検や裁判所を担当する司法グループ、大阪市役所や大阪府庁担当者らの行政グループ、あとは空港や鉄道、国税局などの経験者らだ。その他、考古学好きな記者の集まりもあった。それぞれのグループが連載案を出して、面白いものが採用されるというシステムだ。

新年連載で「大阪弁」事情

 目立ちたがりの筆者は、当然、一面や社会面といった全国版での連載をしたかった。この秋、新たに遊軍に上がったのは、筆者と同期の上杉成樹記者(故人)の2人だけだった。当然、事件関係のデスクから声をかけられると信じていた。しかし、お声がかかったのは、上杉記者だった。彼がどんな連載記事を書いたかは、今も悔しくて覚えていない。2課担出身だから、経済事犯関係だったかな? 腐っていた筆者にそっと声をかけて来た遊軍の先輩記者がいた。M川さんだ。社会部3黒の一人だったM川さんは、それこそ赤銅色の顔で筆者を飲みに誘った。M川さんは、筆者が社会部で入社研修した時、市内回りの動物園を回っておられ、初めて府内版に原稿を書かせてくれた人だった。悪い思い出はなかった。社会部に上がってからも、何かと飲みに誘ってくれた大酒飲みだった。飲むとしつこく深夜どころか未明まで飲み続け、挙句は千里ニュータウンにあった自宅まで連れ込まれ、寝ている奥さんを起こして迷惑かけたものだ。

 M川さんは言った。「大阪弁、やらへんか?」。「大阪弁は今、過渡期にあるけど、若いもんは自由に変えていきよる。大阪という街を考えるおもろい切り口やで」。確かに。M川さんの説明に聞き入った。全国面ではなく大阪版の連載記事だが、新年からの目玉だった。「やります!」。太融寺界隈の居酒屋で大声を上げた。通常、秋ごろから新年の連載の仕込みに入り、1,2か月かけてじっくりと原稿を作る。そうやって作り上げたのが、上記にずらっと並べた「よういわんわ よういうわ 浪速ことば事情」全10回だった。10回のうち今読むと、筆者は半分ほど書いている。原稿を最終的に仕上げるのはM川先輩だから、企画から取材、仕上げのほとんどはM川さんの作品だが、筆者は結構楽しんでいた。
 通常、連載記事は現場のインタビューや取材が中心となるが、研究者や識者の分析が重要なポイントとなる。いわゆるキーマンだ。取材した懐かしい名前が並んでいる。いずれも当時の肩書でご存命かどうかわからないが、真田信治・大阪大文学部助教授、市民グループ「なにわことばのつどい」代表世話人の中井正明さん、ABCテレビの松本修プロデューサー、標準語を大阪弁に翻訳するパソコンソフト「大阪弁フィルター」を開発した関勝成さん、、大阪市立高校の教諭だった岸江信介さんら、、、面白いことをたくさん、教わった。ありがとうございました。

 中身を少し読むと、今でも面白い。「よろしゅうおあがり」は本来、食後「満足のいく味でしたか?」の意味だが、ほとんど食前に「どうぞ食べてください」になっているとか、「おおきにはばかりさん」の言葉で、「おおきに」は残っているが、「はばかりさん」は消えてしまったとか、「難儀やなぁ」の使い方など。島田紳助さんがメガホンを手にした映画「風、スローダウン」の若者大阪弁、桂小文枝さん(故人)小枝さん、漫才「非常階段」のシルク・ミヤコさん(ミヤコさんは故人)にインタビューして、「今の大阪弁は“吉本弁”ですな」と言わせたり。挙句はあの有名な「全国アホ・バカ分布図」だ。ABCテレビの「探偵ナイトスクープ」が生んだ伝説の”研究“だ。

花の遊軍、わずか半年で左遷

 多くの先輩記者たちから、「全国版の連載より大阪版の連載の方がおもろいな」とお褒めの言葉をいただいた。当然、年間連載の予定だったから、第2弾は2月中旬に6回掲載された。しかし、筆者はほとんど書いた記憶がない。在日の外国人たちに大阪弁のエピソードを聞くシリーズだが、わずかに1回分くらいしか取材していない。次のシリーズの仕込みに入っていて、本格的に言語学者に取材して、第3シリーズからに備えていたのだが、もう一つ大きな理由があった。なんと!筆者は3月1日付で京都総局に異動となったからだ。

 2月中旬に内示を受けて、すっかり腐っていたからだ。遊軍生活わずか6か月。簡単に言えば、飛ばされたのだ。嘘ではない。当時の社会部長Y本さんに異動の内示を受けた際、言われた言葉は一生忘れない。「君が転勤する京都総局から若い記者が3人、君の代わりに上がって来る。3人とも君より優秀だ」。その中には数年前、一課担時代の近大生殺人事件の時に新人研修で来ていた4年目の記者もいた。遊軍席にいたM川さんに聞いた。「僕の転勤のこと知ってたのですか?」。彼は頷いた。(つづく)

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