報告:ドキュメンタリー映画「百姓の百の声」トークショー 文箭祥人(編集担当)

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11月20日、大阪・十三の第七芸術劇場で、ドキュメンタリー映画「百姓の百の声」上映後、トークショーが行われた。その様子を報告します。

ドキュメンタリー映画「百姓の百の声」のチラシにこう書かれている。

「ようこそ、食べ物が生まれる国へ」

「柴田昌平監督が、食の原点である農と向き合い、全国の百姓たちの知恵・工夫・人生を美しい映像と丁寧なインタビューで紡ぎだす。田んぼで農家の人たちは何と格闘しているのか、ビニールハウスの中で何を考えているのか。多くの人が漠然と「風景」としか見ていない営みのそのコアな姿が、鮮やかに浮かび上がる」

柴田監督はパンフレットにこう記している。

「この映画は、単に観て終わりではなく、観終わった後の語り合いの場が持てるような機会ができたらと願っています。上映を通して、地域の人々と農家が対話し、未来について「語り合う場」がたくさん生まれてくることを、心より期待しています」

目次

三人の農家がトークショーに登場

トークショーは柴田監督が進行し、三人の農家が登壇した。

右から柴田昌平監督、掘悦雄さん、伊藤雄大さん、近江田麗子さん

近江田麗子さん

大阪・鶴橋生まれ、兵庫県西脇市の中規模農家に嫁ぎ今年で23年目。米とサツマイモをつくっている。

伊藤雄大さん

大阪・能勢町で兼業農家をしながら、「里山技塾」という農業塾を運営する。

掘悦雄さん

23年間、京都・南丹市で米づくり。専業農家。

トークショーの冒頭は三人の自己紹介から。

近江田さん

「ばりばりの大阪市内で生まれまして、なぜか、兵庫県西脇市で、今は山田錦というお酒の米と、ヒノヒカリとコシヒカリをつくっています。とてつもなく、驚くほどのサツマイモもつくっています」

日本酒はお米のお酒。お米の中で、日本酒づくりに特に適した品種が「酒米」。酒米の王様と呼ばれるのが「山田錦」。

伊藤さん

「大阪府能勢町から来ました。「農文協」の元職員で、「現代農業」の編集部で365日とは言いませんが、360日ぐらい、農家のことばかり考えていました」

「農文協」の正式名称は、「一般社団法人 農山漁村文化協会」。基幹雑誌の「現代農業」は今年、創刊100年。1922年、大正デモクラシーの時代、農村部でも「自分たちのむらを、自分たちでよくしよう」と創刊に至る。「農文協」には全国に6つの支部があり、全国の農村部を津々浦々までカバーする。「バイク部隊」と呼ばれる職員が農家一軒一軒を直接訪れ、何を悩んでいるのか、楽しんでいるのか、工夫していることは何か、自慢に思っていることは何かなどを、聞き取り、感じ取り、編集部に報告する。それが「現代農業」の記事となる。農村を外側からではなく、内側からみる視点で編集される。

掘さん

「京都府の南丹市で百姓をしています、掘です」

三人に共通するのは代々の農家ではないこと。柴田監督はこう三人にマイクを向ける。

「農業に入ったきっかけや驚いたことをお話しください」

近江田さん

「カルチャーショックでした。歩いて3分のところに電車がある生活から、車がないと生活できない環境に変わりました。そこはむら社会で横のつながりがすごく、とてつもなく、むらに溶け込むのに努力しました。女性社会はなかなかの閉鎖空間で、切り込んでいくのに必死でした」

どうやって切り込んでいったのか。

「わからないことは教えてもらいました。修行でした。一番、教えてもらったのでは嫁ぎ先のおじいさんでした。朝から夜まで、ずっとついてまわって、教えてもらいました。全部知らないことには、変に食い込んでいって、邪魔したらいけないと思いました。だから、すべて一回みせてもらって、自分のできることはどこか、と聞いていきたいと思ったんです。そこから農の世界に入っていきました」

柴田監督

「農業に入ったころは、しんどかったと思います。楽しさを感じたことはありましたか」

近江田さん

「これまで土を触ったことがなかった、苗をつくったことがなかった、泥田の中に足を入れたら足の抜き方がわからない。新しいことだらけでした。それを一つ一つ勉強するのがものすごく楽しかったです。 これは天然記念物?と思うような見たことがない植物や動物が身近にいます。毎日が百科事典でした」

伊藤さん

「能勢は完全なむら社会です。私は農文協で働いていたので、なんとなく農家の雰囲気とか、むらというものがわかっていたので、就農するときはその通りだなぁと思いました。能勢町に引っ越して、まずは消防団に入れさせられて(会場、笑い)、「いいですよ」と返事したら、それからいつのまにか、班長になっていました」

掘さん

「おやじは住職でした。私が19歳の時、父が亡くなりました。牛飼いになると言って、北海道に移って、牛飼いになったんです。失敗して、それから、語るも涙、聞くも笑いの物語がたくさんあるんですけど、しゃべり過ぎたら長くなるので、この辺でやめときます」

柴田監督は農文協の「現代農業」の取材チームに導かれながら全国の農家を訪ね始まる。トークショーで柴田監督は「現代農業」スタッフの次の言葉を紹介する。

「農家はだれを訪ねても物語があります」

大阪・能勢町、栗山復活を目指して「里山技塾」を開く

登壇する三人のそれぞれの物語が始まる。

伊藤さんは兼業農家であり、3年前から「里山技塾」の運営も行っている。

伊藤雄大さん

「能勢は銀寄(ぎんよせ)という栗の発祥の地です。今も栗栽培が盛んな町ですが、農業をやっていると、どんどん栗山が荒れていっているのがわかります。栗山をなんとか復活させようと、「主業・副業・趣味に関わらず、能勢の栗を守ることができる人を育成すること」が目的です」

銀寄はどんな栗?

江戸時代、能勢の人が広島から持ち帰った栗をまいたところ、そのうちの1本がとても良い実をつけた。この樹を近隣に増殖させた。その後、大飢饉があり、その時にこの栗を売り歩くと高値で飛ぶように売れた。多くの「銀札」を集めたことから、「銀寄」と呼ばれるようになった。

「里山技塾を始めるとき、銀寄を復活させるため、これまでアプローチされてこなかった担い手がいると思いました。どういう人かというと、僕のように植木屋とかライターとかをやっていて、時期によって仕事が変わる人は時間が調整できるし、自営業の人も兼業でいいから農業をやってもらいたいと考えました。ということで、試しに講座をやったんですが、大盛況でした。今期で3回目ですが、20人枠に60人が応募しました。これは大阪だけではなく、日本全体で農業をやってみたいという気持ちが盛り上がっているんだなぁと感じました」

これに対して柴田監督がこう話す。

「多分、盛り上がっていると感じるのは、土地にもよるのかなぁと思います。例えば、群馬県沼田市でこんにゃくをつくっているおかあさんが「百姓はどちらかといえば、さげすまれていて、農家の子どもであることを隠しながら学校に通っている子どもが多い」と、「百姓に対するリスペクトを感じられないのが今の時代だ」と言っていました。逆に能勢では、農的なものを呼びかけると反応する人が多い、どうしてだと思いますか」

伊藤さん

「一つは、大阪に近いというのがあると思います。能勢は車を運転して1時間で行ける山で自然が豊かなところです。自然自体はある程度、人の手をかけないと維持できません。でも、深刻な人不足になっています。観光地としてやっていくためにも、農業はすべての基礎の部分だと思っています。がんばって里山技塾を長くやって、能勢の栗を守ることができる人を育成していきたいと思います。僕も兼業農家として暮らしていけているんで、「みんなもできる、大丈夫だ」と呼び掛けています」

土の中の生き物たちが奏でるシンフォニーが稲を育てる

掘悦雄さん

柴田監督が掘さんにこう質問する。

「掘さんは専業農家で今、米をつくっていますが、専業農家になると腹をくくるのにずいぶん時間がかかったとおっしゃいましたが…」

掘さんの田んぼは京都・南丹市にある。その田んぼで米をつくって今年で27年。その掘さんがこう話す。

「朝から晩まで、休みなく働きましたが、それでも結果が出ませんでした」

掘さんはほかの土地から南丹市に移ってきた。

「むらにはなかなか、なじめませんでした。最初のころは、こちらからむらの人たちに挨拶をしても向こうを向かれ、返してくれる人は二人しかいませんでした。そんな環境でしたけれど、むらの人たちと関係を悪くしなければいいと思って、あいさつを続けました。でも、むらの人たちが言うことは聞きませんでした。そのうち、むらの人たちは、「あいつは何を言っても聞かない」とあきらめて、さじを投げられたような感じでした。でも、田んぼをやっているうちに、少しずつ、挨拶をしてくれる人も増えました」

掘さんはすべって転んで失敗がたくさんあったという。

「最初のうちは、本当に見えないんですよ。田んぼの様子を観察しているつもりなんですよ、すごくよくみているつもりなのに後になって振り返ると、見えていないんですよ。観察の眼力、これを身に着ける修行が百姓だと思っています」

最近になってわかったことがあるという。

「お米にしても、豆にしても、野菜にしても、同じですが、土の中には、ミミズやケラが住んでいます。目には見えないけれども微生物もいっぱいいます。こうした生き物の、なんといっていいのかなぁ、かっこよく言うと、シンフォニー。みんなが響き合う。みんなが響き合うことで、結果がでてくる。そういうおもしろさをつい最近、わかったんですよ。それまでは、のた打ち回っていましたね」

種は食べる人みんなの命

柴田監督

「掘さんは、お米、大豆、納豆をつくっておられています。農薬はほとんど使わず、田んぼに肥料も入れない。独特な種の採り方には驚きました」

掘さん

「百姓を始めて最初の7、8年は少し、有機をやっていたんですが、これは違うなぁと…。私は楽をしたい方なので、手抜き手抜きでやるようにしました。肥料は一切やらない。田んぼに苗を植えます。そのあとは、水管理だけ。見て回るだけなんですょ。何も助けないで、「お前ら、がんばれよ」としか言わない(会場、笑い)。そうすると、最初は草に負けて、負けて…。1反(300坪、1000平方メートル)で30キロしか採れませんでした。近所の農家は500キロ、上手な人で600キロは採るんです。これが10年ぐらい続きました。それからの5、6年は少しずつ、イネが草に勝つようになってきたんです。勝つと言っても、200キロでした。ところが、どうしたことか、一番よかったところは、400キロ採れました」

どうして400キロも採れたのか、掘さんが解説する。

「私の感覚ですよ、本当かどうかはわかりませんが。15年間以上、自家種取りをしています。自家種採りは、育てたイネや野菜から自分で種を採り、そして採った種で次のイネや野菜を作る、というものです。コシヒカリ8割ぐらいと、イネが実る時期が揃うような15種類のイネを混ぜるんです。そして、自家種採りをするんです。毎年、やります。自家種採りするのはイネの出来の一番いいところではなく、中の下のところの種を採ります」

なぜ、出来の上ではなく、中の下なのか?

「出来が中の下のところで育ったイネは、田んぼに草が生えて、その草と必死になって闘った戦士なんです。その闘ったイネの種を採るから、種の中に、‘オレたちは草と闘わないといけないんだ、やられてたまるか!’というガッツが芽生えてきたんじゃないかなぁ、そういうふうに考えています、お米になったことがないからわからないけど(会場、笑い)」

掘さんは種の話を続ける。

「そう考えると、種は財産ですよ。百姓の命です」

さらに。

「よくよく考えてみると、種というのは食べる人みんなの命なんです。だから、<いい加減なことで種の囲い込みをしてはいけない>、そういう声を日本人一人一人が残らず、声を上げてくれたら、流れは変わるかもしれない」

種について、柴田監督はパンフレットにこう記している。

「農民たちが数千年を超える時間の積み重ねの中で創り出していったタネ。叡知の結集であり、血と汗のたまものであるタネ。「百姓国の知」の象徴。それに対して、「グルーバル企業の知」は「囲い込み、独占し、商品化」しようとします。二つの「知」のあり方がせめぎ合っているのが、現代のタネをめぐる現場なんだと理解しました」

コロナウイルス感染拡大、関西でサツマイモづくりを始める 「おいしいものをつくるとなんとかなる」

近江田麗子さん(左)

トークショーは近江田さんの物語に移る。柴田監督がこう質問する。

「去年からサツマイモに、ぐっとシフトしたのはどうしてですか」

近江田さん

「経済が悪くなって、日本酒が売れません。日本酒が売れないことはイコール、酒米である山田錦が売れません。経営方針を変えることになりました。品質を落とさずに、さらに農薬を使わずに、できることは何かと考え、食米をつくることになりました。土壌改良がうまくいっておいしいお米ができたなぁと思った瞬間、コロナです」

新型コロナウイルス感染拡大で経営がまた、変わる。

「外食産業や食堂がぜんぜんアウトになりました。エンドユーザーの個人さんにもお買い上げいただいていますが、実際のところ、それでは展望が開かないと思いました。その時、サツマイモは関西でつくっていないなぁと思いました。まず、去年2反(600坪)やってみました。今年はなぜか、2町5反です」

2反からおよそ12倍の2町5反に拡大。掘さんが。

「考えられないですね」

近江田さんが説明する。

「おいしいものをつくってみたら、なんとかなる、やろうということでサツマイモをただ今、やっています」

農家は風景もつくる

柴田監督

「コロナだったり、東日本大震災だったり、どうしてもままならない世の中の変化はあります」

伊藤さん

「福島原発の事故による放射能汚染の話をすると、僕は泣いてしまいます。農文協で仕事をしていた時、たくさんの農家の人たちと毎日毎日、朝から晩までずっとしゃべったり、会ったりしました。農文協の東北支部に配属された時、福島県中通りをずっと歩いたんです。今も街の様子を思い出し、みんなの顔が思い出されます。国会前のデモの中に、「福島の野菜は買わない」というプラカードを見ました。そのたびに複雑な思いをしました。友達に福島のお米をあげて喜ばれていたのに、事故後はそれがわずらわしくなりました。農文協の仕事をしながら、3、4年は複雑な思いでした」

その時、伊藤さんはある映画を観る。

「ドキュメンタリー映画「先祖になる」を観ました。僕の中で、僕の人生がコロッと変わりました」

「先祖になる」。岩手県陸前高田市で農林業を営む一人の老人が、東日本大震災の津波で家が壊される。老人は元の場所に家を建て直そうと決断する。

「映画の場所に行きました。その集落は完全に津波で流されました。主人公のおじいさんは、‘ここの先祖になるから、俺の力で家を建て直すんだ’と。何もないところに家が一軒だけあるんです。むちゃくちゃかっこいい。ほとんど瓦礫で埋まっている集落で先祖になるぞと思うことができるのか、ぐっとなりました」

この映画と伊藤さんの経験がつながる。

「能勢にある妻の祖父が昔やっていた田んぼで農業を始めました。祖父が亡くなって以来、耕作されず、すごい荒地でした。3年かけて、少しずつ開墾していって、ようやく野菜ができ、荒地は野菜で埋まりました。滅茶苦茶きれい。自分が風景をつくっていて、それを見た人から声をかけられるようになりました。農業は風景をつくるというおもしろさがあります」

トークショーは会場との質疑応答に入る。

Q若い人が就農する際、必要なことは何か?

掘さん

「百姓の基本は、米や野菜を育てる以前に、土を育てることだと思います。ところが、土はそう簡単に人間の力で育たない。どうしても時間がかかります。私の周りに、非農家から農家を目指す若者はいますが、私も10年かかったと彼らに言いますが、なかなか納得できないようです。27年間、百姓をしていますが、まだまだわからないことの方がずっと多いです。みんなが通ってきた道だから、それをやってほしい」

伊藤さん

「<農業をみんなで話そう>から頭を切り替えて、<みんなでやろう>にするといいなぁと思います。農業は奥深い世界で、行けば行くほど、ものすごくいろいろな発見があります。農業の入口はもっと広いと思っていて、やりたいと思ったら、やったらいいと思います。はじめて直売所につくった野菜を持って行った時、滅茶苦茶、緊張しました。黄色のズッキーニでしたが、お客さんはみんな手に取るんですが、ポイと返すんですよ。なんかわかりませんでしたが、嫁さんにごめん、と言いました。でも、そういうのを乗り越えると、どんどん、タフになっていくし、計算高くもなって、たくましくなりました」

近江田さん

「今朝のことです。お米を発送するスタッフが足りなくて、ジモティーで求人をしてみました。集合時刻になって、家の近くで、おびえる人の陰がありました。<田んぼ、どんな作業?どんな指示をされる?どつかれる?しばかれる?>、そんなふうに映りました。こちらから声をかけると、「普通の人でよかった」と言われたんです(会場、笑い)。それぐらい農家さんに手伝いに行くのは勇気がいったみたいです。それから、「農業って、楽しいからやってみない」と声をかけると明日から芋掘りを手伝ってくれることになりました。地道にやっています。農村は空気がきれいで、気分もすっきりします。土を触っていると、爪の間から栄養分が入ってくるような不思議な感じがします(会場、笑い)。真っ黒になった爪の間から、実はミネラルが自分に入っているのではないかと思い込んでいます。農業は楽しいです」

●映画「百姓の百の声」公式HP

https://www.100sho.info/

映画のパンフレットには、「百姓の視点でみた戦後農業年表」が記載されている。柴田監督が作成し、農文協が助言。これまで、農家からみた農業年表を目にすることがなく、そうならばつくろうとなったそうです。

〇ぶんや・よしと  1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー

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