報告 ドキュメンタリー映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」トークショー 文箭祥人(編集担当)

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ドキュメンタリー映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」(2012年制作)が、9月23日から29日まで、大阪・十三のシアターセブンでアンコール上映された。

報道写真家、福島菊次郎。1921年生まれ、終戦直後の広島で被爆者家族の写真を撮影した「ピカドン ある原爆被災者の記録」で、日本写真批評家協会賞特別賞を授賞。その後も、三里塚闘争、自衛隊と兵器産業、公害、若者など社会的な視点で数々の作品を発表。

2012年当時の映画のチラシにこう書かれている。

「戦後66年、現場の最前線でシャッターを切り続けてきた伝説の報道写真家。写真が語る、私たちが知ることのなかった真の日本の姿とは」

9月23日の上映後、トークショーが行われた。フォトジャーナリストで、「福島菊次郎あざなえる記憶」(2022年5月発行)の著者である那須圭子さんが登壇。福島菊次郎さんは2015年9月24日、94歳で亡くなられた。トークショーの翌日が命日にあたる。

那須圭子さん
目次

上関原発反対運動の撮影、福島菊次郎さんから那須圭子さんにバトンタッチ

那須圭子さんと福島菊次郎さんは、那須さんが結婚を機に山口県に引っ越し、上関原発反対運動にかかわっていた時、出会う。

1982年、中国電力が山口県上関町に原発を建設する計画を発表。瀬戸内海に原発をつくる計画で計画発表後から反対の声が上がる。

那須さんは福島さんとの出会いを振り返る。

「上関原発建設計画のことをもっと多くの人に知ってもらうためにどうすればいいのかと考えていた時に、福島さんと一緒に暮らしていた紗英子さんと知り合いました。紗英子さんが、私がタイで撮影した写真を見たいということで福島さんのお宅に行きました。当時の福島さんは、いつも厳しい顔をしていて、無口で、怖い人だと感じました。写真を見せた後、福島さんに声をかけられました。

『僕がこれまで上関原発反対運動の写真を撮ってきたけど、この問題は10年、20年と続く。もう70代だから無理なんで、誰かがやっていかないと、あなた、撮らない』

こう言われて、ノーとは言えず、「はい、わかりました」と応えました」

那須さんは福島さんからバトンを渡される形で、上関原発反対運動の撮影を続けている。

浅間山荘事件、報道されなかった「あの人たちは紳士的でした」の人質の声

那須さんと福島さんが出会って数年後、あるトラブルが起きて、紗英子さんは福島さんのもとを離れる。それから、那須さんは福島さんと一対一で向き合うことになる。

「ある日、福島さんから『二人展やろうや』。

驚きました。当時、私は塾の講師をしていて、夜10時に仕事が終わり、それから、毎晩、たくさんのネガを持って、福島さんの家の暗室に行って、2週間、二人展の準備をしました。その時、福島さんが写真を撮ってきた現場の話やご自身の話を聞きました。三里塚、ウーマンリブ、報道カメラマンとして上京した時のこと、戦時中に入隊していた時のこと、などです。ある晩、浅間山荘事件の話になりました」

1972年2月、連合赤軍の5人が発砲しながら長野県軽井沢の河合楽器保養所浅間山荘に乱入、管理人の妻を人質として籠城、警察当局と銃撃戦を交えた。警察当局は山荘を破壊,放水と催涙ガスで犯人を制圧し,218時間ぶりで人質を救出、犯人全員を逮捕した。その一部始終がテレビで実況放送された。

浅間山荘事件当時、那須さんは小学校5年生。学校は急きょ、授業を中止し、テレビで事件の中継を見ることになり、先生は<テレビをみた感想を書くように>と生徒たちに原稿用紙を配り、那須さんはこう書いた。

「中にいる人たちはすごいと思います。あんなにたくさんの警察に囲まれても、日本中の人たちから、悪い奴は捕まってしまえと思われても、自分たちの考えを変えないからです」

そして、先生は那須さんの顔をのぞき込むようにして言った。

「あなたって、おそろしい子ね」

那須さんの小学校5年生の記憶を聞いた福島さんはこう話したという。

「僕は、那須さんとあの浅間山荘事件で、もうすでに会っていたのね。僕はからだが小さいから、浅間山荘の松の裏にいて、最後まで残って写真を撮っていたの」

那須さんは浅間山荘事件でメディアが報じなかった事実を福島さんから聞く。

「人質になっていた牟田泰子さんがタンカで運び出されてきました。そこに報道陣がどっと押し寄せました。その中に僕もいました。この時、大手の新聞社の記者が泰子さんに<怖かったでしょ>と聞き、泰子さんはこう答えました。<いいえ、あの人たちはとても紳士的でした>。しかし、次の日、新聞をみて、そんなことはどこにも書いていなかったのね」

「僕は写真で戦力になろう」福島菊次郎の言葉

この頃、福島さんは東京を拠点にしていた。

「福島さんが、東京で目にしたものの中で、一番衝撃を受けたのは、機動隊に向かって石を投げる学生たち、そして、三里塚のおばあさんやおじいさんが<主権者は私たちだ>と堂々と機動隊に言っている姿だったそうです。

『僕が田舎で何も知らずに、天皇のために死ぬんだなんて思っていた時よりもっと若い年齢の人たちが、お上に対して、ものを言っているのね。わぁー、こんなことができるんだとびっくりした。それなら、僕は写真で彼らの戦力になろうと思った』

しかし、硬派な報道写真が世の中で必要とされなくなり、写真界に絶望した福島さんは1982年、山口に戻る。そして、1988年を迎える。このとき、福島さんは胃癌の手術のため、入院。病室で昭和天皇下血のニュースを連日、みることになる。

「福島さんはあの記者会見を忘れていませんでした。1975年の会見です。昭和天皇は記者から戦争責任を問われてこう答えました。

『そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます』

福島さんは、この会見を聞いて、半数以上が戦死した同級生たちのこと、2日間だけしか一緒にいられなかったお姉さんの夫のこと、10年以上撮影した被爆者の中村杉松さんのことを思い、怒りに震えたと話していました。侵略戦争の総括もしないで、そのままとんずらされてたまるか、と勝手に退院日を早めて、退院して、写真パネルの制作に取りかかります。『天皇の戦争責任』というタイトルの写真パネルです。このパネル展は、3年間で160か所で開かれました。若い人たちから『ちっとも知らなかった』、『もっと見たい』、『もっと知りたい』とたくさんの感想が寄せられ、福島さんは続編の『写真で見る日本の戦後』というタイトルで20テーマ、3300点の写真パネルの制作にとりかかります」

10年以上撮影してできた「ピカドン ある原爆被災者の記録」

広島。

戦時中、福島さんは広島の部隊に入隊する。那須さんの話は福島さんの軍隊時代へ。

「実は、福島さんは軍国少年だったそうです。差別用語を使って、『チャンコロ50人、やっちゃる』とうそぶいていた軍国少年だったと話していました。福島さんは、二等兵として、広島西部第十部隊輜重部隊に入隊します。そこで、思い描いていたのと全く違う軍隊の世界を見ます。古参兵や上官の陰湿ないじめ、それに耐えられなくなって自殺していく新兵たちを目の当たりにします。電車に飛び込む、井戸に飛び込むのです。

『僕はハンバーグが食べられない』

仲間の新兵が線路に飛び込んで、遺体の処理をさせられたと。飛び散った肉片をかき集める仕事をいつもさせられていたそうです。ハンバーグをみると、どうしても思い出してしまい食べられないと。

福島さんは体調を崩し、暴力を振るわれ、挙句の果てに馬に蹴られ、一度、部隊を離れます。2回目の召集で、同じ部隊に戻ります。そして、原爆投下の6日前、次の宿営地の宮崎に運ばれます。部隊が広島にいたときは、原爆ドームからわずか600メートルしか離れていませんでした。福島さんにとって、原爆投下は他人事ではないのです。8月15日、部隊は解散、ふるさとに戻ります。そこは一面焼け野原でした。姉の夫は故郷に2日間だけ戻って帰らぬ人になり、同級生は半数以上が戦死、そのおかあさんに町で会うと泣かれるので、つらかったと言っていました。ところが、その一方で、天皇は戦争責任を問われないまま、一夜にして現人神から人間になって、そこにいるんです。それはどうしても許せるものかと福島さんは言っていました。これが福島さんが生涯をかけて権力と闘う原動力になったんだと思います」

広島は敗戦後70年は草木も生えぬと言われた。それが、草が生えたというニュースを福島さんは知り、カメラを持って広島へ。そこで紹介されたのが、被爆者の中村杉松さん。

「杉松さんは、妻を亡くしたばかりで、乳飲み子を含め5人の子どもを抱えて、病苦と貧困のどん底にいました。福島さんは1、2年はカメラを持って行っても、シャッターを切れなかったと言っていました。許せんと思った人にはとことん、迫っていって撮るのですが、片方でとても優しい人ですから、弱いものとか、傷ついているものに対して、土足で踏み込んで撮ることはなかなかできなかったと思います。私も写真を撮るようになって、つくづく思うのは、撮れない時間がとても大切なんです。撮れなくても、ひたすら通って、そこに居続けて、見つめて、ときには話をする、その時間があるとき、二人の間に奇跡のような変化を起こすことがあるんです。ある日、突然、杉松さんは福島さんの前で、手をついて、あのセリフを吐くんです。

『ピカにやられてこのザマじゃ。あんた、わしの仇をとってくれんか。わしの写真を撮って、みんなに見てもろうてくれ』

それから、とても凝縮された時間の中で、思う存分迫って、撮ることができたと福島さんは話していました。それを10年以上も続けたんです。福島菊次郎という人が出来上がっていったと思います。福島さんはこう言っていました。

『その後、僕はたくさんの写真を撮って、評価されるけども、ピカドンを超える写真は一枚も撮れなかった』

戦後、国が広島にしたのは土木工事   福島原発事故、繰り返される広島

戦後の広島の話が続く。

「福島さんはよくこう批判していました。

『戦後、国が広島にしたことは土木工事だけなんだ。都合の悪いことは全部、コンクリートで覆い尽くして、立派な平和通りや記念公園をつくり、鳩が舞う記念公園で毎年、慰霊祭をひらくけれど、そんなもの全部、うそっぱちだ。現に、杉松さんみたいな人がいるじゃないか』

那須さんは福島さんと出会ってからずっと考えていることがあるという。

「福島さんと出会って、『国ってなんだろう』と考えています。国ってこれです、と何か差し出された形があるものではないですよね。国は私たち一人一人が集まった集合体のはずです。そう考えると、責任も取らずに問題をずっと、うやむやにしてきたのも、国をつくっている私たち一人一人ではないかと少しずつ思うようになりました。それを一番、思い知らされたのが福島原発事故でした」

映画の撮影が終わりかけのころ、東日本大震災が起こり、原発事故が発生。

「福島さんは小さなテレビに映し出される原発事故のニュースをかじりつくようにみて、こう言いました。

『広島と同じことが、また始まる』

最初はどういうことかわかりませんでした。だんだん、福島さんがいうようなことが起こります。事故の過小評価、被爆者の実態の隠蔽、被爆者への差別、そして、都合の悪いことはすべてコンクリートで覆い隠して、新しいハコものを次々と建てていく。福島さんにとって、アジア侵略の軍都だった広島が一夜にして原爆の被災者になってしまったことと、補償金や交付金と引き換えにたくさんの原発を受け入れた福島が一夜にして原発事故の被害者になってしまったことが、重なっていったと思います」

原発事故から半年後、長谷川三郎監督が福島さんに「行きましょう」と声をかけ、90歳の福島菊次郎さんは福島へ向かう。

「君が代」が聞こえる

トークショーの最後半、那須さんの話は、ロシアのウクライナ侵攻へ。

「ロシアがウクライナに侵攻して、すごいスピードで日本中が’ウクライナとともにある’‘ロシア憎し’と、ブルーとイエローの色に染まりました。驚いたことに、辺野古に新基地を造るために土砂を運ぶトラックの車列までが、車体を青と黄に染め変えられていました。おかしいじゃないか、と思いました。辺野古の新基地はアメリカの戦争をするために造る基地で、そのための土砂を運ぶトラックが‘ウクライナに平和を’と青と黄に染め変えられたんです。もちろん、ロシアがやってることは許されません。憲法9条を掲げる日本の主権者としては、武力で戦っているどちらにも加担してはいけない。ロシアとウクライナの間で今までどんなことがあったのか、その歴史を知らずに、ロシア憎し、ウクライナとともに、と言えないのではないかと思います。自分の思いをSNSに書きました。そうすると、『お前はロシアの味方か』とものすごい非難の嵐でした。説明をしようと思っても、聞く耳を持ってくれませんでした。みんなが一つの方向に向かって怒涛のように動き始めたら、ちょっと待ってという声はかき消されてしまう、それどころか非国民だと石を投げられるんじゃないかと恐ろしい思いをしました。先の戦争のときはこんな感じだったのではと初めて思いました」

那須さんは思い出したことがあるという。それは福島さんが2015年に亡くなる1年程前のこと。

「福島さんがよくこう言っていました。

『あ、君が代が聞こえる』

スーパーで買い物をしている時とか、一緒にテレビでニュースや歌番組を見ているときにこう言っていました。

『実に巧妙なやり方で、すぐわからないやり方だけど、ほら、よく聞いてみて、後ろでかすかに君が代が聞こえているでしょう』

私にはどうしても聞こえなかったんです。聞こえませんというと。

『え、あなた聞こえないの。もう洗脳されているということよ』

私は福島さんがとうとう、おかしくなったと思いました。しかし、今思うと、本当に聞こえていたのかもしれません」

那須圭子さん、福島菊次郎さん(写真)

●映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」公式サイト

https://www.bitters.co.jp/nipponnouso/

○「福島菊次郎あざなえる記憶」(著者:那須圭子)

http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/1225.html

●「ピカドン ある原爆被災者の記録」(著者:福島菊次郎)

https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68325781

○福島さんが生前、一番心配したことは、自分の死後、膨大な数のネガをどうするかだった。共同通信の子会社、共同通信イメージズが引き受けることとなり、写真は閲覧することができる。

共同通信イメージズ 「菊次郎生誕100年」

https://imagelink.kyodonews.jp/pick?id=262

●ぶんや・よしと  1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー

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