「駆け付けたオモニに『痛い、痛い、オモニ、オモニ』と言ったのが妹の最期の言葉だったそうです」
大阪空襲で焼夷弾の破片が朝鮮人の7歳の女の子の頭を直撃した。
大阪空襲で被害を受けたのは日本人だけではない。当時、大阪には多くの朝鮮人が暮らしていた。アメリカ軍は空から焼夷弾を投下し、機銃掃射を放ち、日本人も朝鮮人も被害を受けた。朝鮮人の空襲被害についての記録や体験などは、これまで伝えられてこなかったように思う。何人の朝鮮人が亡くなり、負傷したのか、そして、私たちは、亡くなった朝鮮人をどのように追悼してきたのだろうか。
朝鮮人の空襲体験談
第1次大阪大空襲から76年目となる2021年3月13日、朝鮮人犠牲者を追悼する初の集会「大阪空襲76年朝鮮人犠牲者追悼集会」が市民の手で開かれた。主催団体は追悼集会開催にあたり、被害の実態を把握するため、空襲体験者8人に対して聞き取りを行った。冒頭の劉載鳳さんの体験談がその一つだ。
劉載鳳さんは1945年6月7日の空襲で当時7歳だった妹、劉載吉さんを亡くした。劉載鳳さんは妹の最期を次のように語る。
「焼夷弾の破片が頭に直撃して亡くなりました。駆け付けたオモニに『痛い、痛い、オモニ、オモニ』と言ったのが最期のことばだったそうです」
妹の遺体を淀川の川岸に薪を積み重ねて、焼いたという。
「そんな辛いことがあるでしょうか。オモニがどんな気持ちで立ち昇る煙や炎をみていたでしょうか。薪の灰をかき分けて遺骨を拾ったのが、オモニとアボジでした。遺骨は木箱に納めて淀川に流したそうです」
オモニの李圭英さんは娘の命日、高野山のお参りを欠かさなかった。
聞き取りに応じた空襲体験者8人のうちの一人、金禎文さんは祖父、金麗濬さんを1945年6月7日の空襲で亡くした。金禎文さんは当時6歳で宮崎市に家族とともに疎開していた。
「51歳だった祖父は大阪に残り工場で働き、稼ぎを宮崎に送ってくれていたのだと思います。6月7日の空襲で壊滅的被害を受け、祖父は爆死して近くの崇禅寺に土葬されたと聞きました」
さらに、金禎文さんは次のように話す。
「祖父の周りにもたくさんの朝鮮人が住んでいたので、犠牲者もたくさんいたと思います」
主催者団体は講演記録や様々な刊行物から、3人の朝鮮人空襲体験談を明らかにした。そのうちの一人、金洪圭さんは1945年3月14日、堺市で空襲に遭った。金洪圭さんは当時を振り返る。
「周囲の人々が『空襲だ!敵機来襲だ!』と叫び、鐘が乱打されました。堺近郊の高射砲陣地から反撃砲音が腹の底まで響くようでした」
この時、堺市香ヶ丘町の朝鮮人の集住地域が空襲を受ける。
「60戸から80戸に300人から400人ほどが住んでいたと思います。この地域に焼夷弾が落ち、ほとんどの家が被害をこうむりましたが、実情はわかりません」
3か月後の6月15日の空襲では堺市錦綾町が被害を受ける。
「錦綾町の朝鮮人集住地域はほとんどが全焼しました。30軒から40軒ぐらいあったと思いますが、被害の詳細はわかりません」
朝鮮人空襲被害の実態は判明しているのか
ピースおおさか(公益財団法人大阪国際平和センター)や大阪府、大阪市は朝鮮人被害について把握しているのだろうか。
「大阪空襲で被害を受けた朝鮮人について、死者数などの被害の実態を教えてください」と質問書を送り、回答が届いた。
ピースおおさかは「朝鮮人の被害の実態については把握しておりません」と回答した。「大阪府から大阪空襲死没者名簿の管理委託を受け、遺族らからの申し出のあった氏名、年齢、性別、被災場所等の限られた項目のみを管理しています」と説明、管理する名簿からは朝鮮人の被害実態はわからないという。
大阪市福祉局総務部総務課は「資料がないため、出身地ごとの死者数等は確認できない」と回答。
大阪府福祉部地域福祉推進室社会援護課は「大阪空襲被害に関する資料がありません。そのため確認できません」と回答した。
「朝鮮人の空襲被害の実態調査は行われているか」の質問に対しては、ピースおおさかと府は、調査をしているともいないとも、回答しなかった。市は「調査が行われたか否かを含め、詳細を確認することはできませんでした」と回答。
ピースおおさかや府、市の部局それぞれに再度質問書を送ったが、「朝鮮人被害者の実態を把握している。調査を行っている」という回答はなかった。
回答を詳細にみると市は、大阪空襲の被害について「1945年に大阪市が調査・作成した『大阪市戦災概観』に記録されている」と説明。大阪市立中央図書館に手書きで19ページの原本が所蔵されている。それをみると、空襲被害は「罹災者1,135,140人中、死者10,388人、重軽傷者35,543人、焼失倒壊戸数310,955戸」と記されている。しかし、朝鮮人被害に関する記載は見当たらなかった。また、第7章「災變」に、大阪の戦後に関する記述が次のように書かれている。「市民は八月十五日戦争終結の聖断が下さるるや、今更の如く有史以来の災変大阪市を見返し、戦の疲れをも忘れて直ちに新大阪建設へと力強く起ち上ったのである。今茲に戦災前の大阪を追懐して、災変復興のよすがともしよう」とある。空襲前の発展した大阪の街を思い出して、それを復興の心のよりどころにしようと呼びかけている。目の前にある焦土と化した大阪、そして空襲犠牲者をはじめ、空襲で被害を受けた人たちに思いを致す記述はみられない。また、調査した年は「1945年」。大阪市の調査は1945年で止まっていることになる。
府は1987年、「大阪平和ビジョン」を発表、「このビジョンをスタート台として、『平和の首都』大阪を目指して、着実に歩みを進めてまいりたい」とうたい、「かつてわが国が加害者の立場に立ったという事実にも厳粛に思いをいたし、戦争の悲惨さや平和の尊さを世界に訴えていかねばならない」と使命をあげる。現状は、朝鮮人空襲被害の実態を把握してもいない。
一方、追悼集会の主催団体は「1200人以上が亡くなった」と推定する。その根拠は次の通り。「内地在住朝鮮人戦災者概数」という軍の関係文書が残っていて、大阪府戦災者総数(死者、負傷者)1,025,036人のうち、朝鮮人は83,900人と記されている。つまり、全戦災者の8.19%が朝鮮人となる。大阪空襲の死者は15000人以上だとされているから、そのうちの8.19%が朝鮮人だと想定し、15000人×8.19%の計算から「1200人以上」という推定値を導き出した。
朝鮮人の空襲被害は全国に及ぶ。国として、朝鮮人被害を把握しているのだろうか。厚生労働省と総務省に「全国の空襲で被害を受けた朝鮮人について、死者数などの被害の実態を教えてください」と質問書を送った。厚生労働省社会・援護局援護・業務課は「一般戦災者に対する補償等は厚生労働省の所管外であり、回答する立場にないため、回答を控えさせていただきました」と回答した。朝鮮人であっても日本人であっても、民間人空襲被害者に関しては、厚労省は所管していないという見解だった。
総務省大臣官房総務課管理室は「当室としては、全国の空襲で被害を受けた朝鮮人について調査を実施したことはありません」と回答。大阪同様、「把握している。調査している」という回答は得られなかった。
朝鮮人空襲犠牲者は追悼されているのか
先に記したように、2021年3月13日、市民団体は朝鮮人空襲犠牲者の追悼集会を開催した。戦後はじめての開催だという。追悼壇に159人の氏名が記載されている「大阪空襲朝鮮人犠牲者名簿」が置かれた。
名簿作成は16年前に遡る。2005年、大阪府朝鮮人強制連行真相調査団は多くの朝鮮人犠牲者が埋葬された崇禅寺(大阪市東淀川区)で調査を始める。真相調査団の金由光団長は「崇禅寺に強く要望して、戦災死者過去帳の筆写を認めてもらい、細心の注意を払い名前を手書きで写しました」と振り返る。調査に関して、金由光さんは困難が伴ったという。「日本の植民地支配政策として打ち出された創氏改名政策のため、名前を日本風に改めさせられた人が多く、名前だけで朝鮮人かどうかわからない人が相当いました」
創氏改名は、朝鮮人を日本人に同化させる政策で、朝鮮人が日本人だとわかるように名前を変えさせられたと思いがちだ。実際は、同化と差異化の両面があった。日本風の名前に変えさせる一方、100%日本人の名前になると、日本人なのか朝鮮人なのか、わからなくなる。植民地支配者としての地位を維持したい当局は、創氏改名政策の改名において、「なるべく従来の名を使用した方が適当」とした。朝鮮人とわかるように創氏改名政策を実施したのだ。
追悼集会メンバーが崇禅寺の過去帳をはじめ、ほかの名簿などを調べ、159人の名簿が作成された。朝鮮人か日本人であるかは、多くは氏ではなく名で判断された。次のようなケースがあった。親が日本人にはほとんどない名で朝鮮人だと思われたが、息子は朝鮮人にはほとんどない名だった。この親子は朝鮮人である可能性があったが、朝鮮人だと断定できなかった。日本人の可能性が残っている以上、犠牲者名簿に掲載することはできなかった。こうした創氏改名の壁で名簿に記載されず、追悼されない人たちがいる。空襲が終わっても、創氏改名政策の罪は続いている。
名簿には犠牲となった一人一人の名前が丁寧に手書きされており、年齢の欄には、犠牲者の年齢が記載されている。159人のうち137人の年齢がわかる。多くの子どもが犠牲になったことがわかり、驚愕する。10歳未満が50人、年齢層別でみると最も多い。1歳の子どもが8人もいる。また、幼い子どもを含む家族で亡くなった人たちも少なくない。推定1200人のうち、どれほどの子どもが犠牲になったのだろうかと思わずにはいられなかった。
ピースおおさかや大阪府、大阪市は朝鮮人犠牲者を追悼しているのだろうか。追悼に関する質問も行った。質問書の送り先は、朝鮮人被害の質問と同じく、ピースおおさか、大阪市福祉局総務部総務課、大阪府福祉部地域福祉推進室社会援護課。「大阪空襲で被害を受けた朝鮮人に対する追悼を行っていますか」と質問した。
ピースおおさかは「毎年、8月15日の終戦の日に、すべての戦争犠牲者を対象に追悼式を行っております」と回答。この回答に対して「『すべての戦争犠牲者』に朝鮮人は含まれるか」と質問したが、これに対しても「すべての戦争犠牲者を対象に」と同じ回答を繰り返し、明確な回答はなかった。
市は「大阪府での戦争犠牲者に対し、大阪府との共催で大阪戦没者追悼式を毎年開催しているところです」と回答。この回答に対して、「『大阪府での戦争犠牲者』のなかに朝鮮人は含まれますか」と質問した。これに対して市は「国籍や出身地等にかかわらず、大阪府での戦争犠牲者に対し追悼を行っております」と回答した。
府は「大阪で戦災死没された方々を含め、先の大戦による大阪府内の戦争犠牲者に対して、毎年、大阪戦没者追悼式を開催させていただいております」と回答、「大阪府内の戦争犠牲者は、朝鮮人・日本人などに関わらず大阪府内の戦争で犠牲になられた方々のことです」と説明した。
府のホームページには大阪戦没者追悼式に関して「先の大戦による大阪府内の戦争犠牲者は、12万7千余名に及んでおり」と説明する。市、府は、大阪戦没者追悼式で、「国籍にかかわらず」「朝鮮人・日本人などに関わらず」追悼するというが、同じ空襲犠牲者でも、日本人と朝鮮人では歴史が違う。日本の植民地支配の結果、多くの朝鮮人が朝鮮半島から大阪に移り住んで、大阪空襲で犠牲となった。「すべての戦争犠牲者」と一括りにすると、空襲前の植民地支配の歴史を顧みていない追悼式となってしまう。また、「府内の戦争犠牲者」と言うが、朝鮮人空襲犠牲者にとって、大阪は故郷ではなく、異郷の地だ。
質問は創氏改名についても行った。「朝鮮人の追悼を行っている場合、追悼する朝鮮人の氏名は民族名(本名)ですか、創氏改名された通名ですか」と質問した。これに対しては、ピースおおさか、市、府いずれも、明確な回答はなかった。
そのなか見落とせない回答があった。市、府は大阪戦没者追悼式において「戦争犠牲者の名簿等は作成しておりません」(市の回答)、「具体的な名簿等があるわけではありません」(府の回答)と回答した。市、府は、日本人朝鮮人に限らず、空襲犠牲者一人一人の存在を表す名簿を置かずに追悼式を開いている。他の地域でも同様に名簿はないのだろうか。広島市は国籍を問わず、原爆で亡くなった人たちの名簿を作成し、慰霊碑に奉納している。沖縄では、県営平和祈念公園にある平和の礎に、国籍などを問わず沖縄戦の全戦没者の氏名が刻まれている。なぜ、大阪にはないのだろうか。
市民が始めた朝鮮人追悼集会
「大阪空襲76年朝鮮人空襲犠牲者追悼集会」は一人の男性の提起から始まった。長く大阪空襲の継承に取り組んでいる横山篤夫さん。1970年代、全国的に空襲体験を記録する運動が市民のなかから始まり、大阪では「大阪大空襲の体験を語る会」が1971年に結成され、「大阪空襲体験記」が発行された。空襲から75年が過ぎ、次の世代に運動を引き継ぐことができず、所有する貴重な資料が消滅、散逸する恐れがあり、横山さんらが「語る会」の資料調査を行うなかで、空襲の継承で抜け落ちていることがあると横山さんが気付く。それは、在阪の朝鮮人の空襲体験が一つもなかったことだった。ほかの空襲体験記などをみても、朝鮮人の空襲体験談はごくわずかしかなかったという。
そこで、横山さんは2019年1月、大阪府朝鮮人強制連行真相調査団の会合で「在阪朝鮮人空襲犠牲者に関する調査や記録、空襲体験の聞き取りを行い、そして追悼の場をもつことは喫緊の課題でないか」と提起する。そして、弁護士や歴史研究者、ジャーナリスト、大阪府強制連行真相調査団による追悼集会実行委員会が結成された。実行委は、‘空襲は朝鮮半島が南北に分断される前、日本の植民地支配下の時代に起こった戦争’という歴史に基づき、複数の関係組織・団体に追悼集会開催への協力を求めた。そして、2021年3月13日、追悼式が開催された。実行委の予測を超える150人が参集した。
追悼集会開催に対して、実行委の聞き取りに応じた体験者3人が次のように話している。
呉時宗さんは「空襲当時、在日朝鮮人が大阪にはたくさんいたのですから、空襲の犠牲者も大勢いたに違いないと思います。その記録や記憶を伝えることは大事だと思います」
鄭友紀子さんは「戦争や空襲のない時代を当たり前のように生きていますが、時にはあの時代のことを学び、伝えていくことは大事だと思います」
冒頭で紹介した劉載鳳さんは「7歳の妹のことを思い出させてくれたことにお礼を申し上げます。何らかの形で記録されるなら、私の話が少しは役に立てたのだと思います」
(『部落解放』2021年7月号より転載)
なお、2022年3月13日、2回目となる追悼集会が開かれた。大阪空襲朝鮮人犠牲者名簿に記載された名前は166人となった。実行委は冊子「大阪空襲と朝鮮人そして強制連行」を発行した。
冊子の販売フォームのURLです。https://form.os7.biz/f/2d680ff4/
○ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 ラジオ報道部時代、福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー。
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