データベースは東京紙面 図書館で大阪発行の記事さがし
何気なくこの連載を始めて16回。順調に回を重ねてきたが、ここに来てやや行き詰ってきた。なぜなら、40年以上前のことを昨日のことのように思い出せた最大の“功労者”は、当時の記事のスクラップブックだ。しかし、新聞記者になって6年、初心を忘れてしまったのだろうか。頼みのスクラップがない。
仕方ないので、自分が書いた記事を図書館に探しに行った。きっかけは大学の図書館。これまでも確認が必要な記事は大学の図書館のデータベース「ヨミダス歴史館」などで検索していた。ご存知の方もおられるだろうが、新聞記事のデータベースはほとんどが東京本社発行の新聞だ。筆者が主に記事を書いたのは大阪本社発行の新聞だからデータベースでは見つからないことが多い。新聞はどこも同じじゃないの?と、思う方もいるだろう。実は東京の新聞と大阪の新聞は随分中身が違う。読売だけでなく朝日も毎日も産経も。できるだけ、配達される地区に関係がある記事を掲載したいという考えから、東京、大阪それぞれで、数種類の新聞を発行している。統合版やセット版という呼び方で、今も。しかし、昔ほど東西の新聞の紙面が違わない、というのも現在の新聞界の問題でもある。それは後ほど。
歴史的に見ると、朝日、毎日は大阪発祥の新聞で、読売は東京から昭和27年(1952)に大阪に進出してきた新聞だ。よって、朝毎はどちらかと言えば、関西色が強く、読は関東色が強い傾向があった、昔は。逆に言えば、読売が関西に進出して大阪の読者に新聞を取ってもらうために「大阪色」を強烈に押し出した。それが、必然的に「黒田軍団」と呼ばれる東京とは全く違った紙面をつくる一種の“派閥”を生み出したのだ。と、筆者は理解している。
44年前の彼女と通った図書館に37年前の新聞
話が横に逸れたが、大学図書館の司書がヒントをくれた。ポートアイランドキャンパスの図書館には、新聞の縮刷版は置いていないが、有瀬キャンパスにはあるという。それなら、公立の図書館にもあるだろうと思いつき、神戸市立中央図書館に問い合わせると、あった。それも、縮刷版は東京発行のものしかないが、昭和60年(1985)頃の新聞なら、新聞そのものを綴じ込んだものが書庫にあるという。ラッキー。
5月中旬の土曜日、通称「大倉山の図書館」に行った。またまた余談だが、この図書館は思い出深い場所だ。昭和53年(1978)の夏から秋にかけて、ここの自習室で新聞社の試験を受けるための勉強をした。当時の彼女が航空会社のCAを受けるというので一緒に勉強した。時空が44年も飛んでしまった。ここで、37年前の記事を検索した。
記事を探す。簡単なことだと思っていた。しかし、考えてみれば当然だが、毎日40㌻近くもある記事が朝夕刊1か月分綴じてあるだけで、新聞大で重さ10㌔くらいある。とりあえず、昭和60年4月から半年間分の綴じ込みをお願いした。手押し車に乗った6冊が書庫から運ばれてきた。閲覧室の机上にドサッと置き、1枚1枚めくる。すぐに指先が真っ黒になる。当時の新聞は読むと手が黒くなった。一面から社会面まで丁寧にめくっているうちに、あの時代が蘇ってきた。半年分を見るのに4時間もかかった。
京都支局に赴任した昭和60年は大きな出来事が多い。後に触れるが、最大の出来事は8月12日に起きた日航機墜落事故であり、21年ぶりの阪神タイガースのリーグ優勝、日本シリーズの優勝だった。もっと言えば、阪神ファンなら誰もが覚えている「バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発」もこの年だった。大型連休中だと勘違いしている人が多いが、4月18日。厳密に言えば、掛布の本塁打はバックスクリーンを外れていたのだが。
余談ついでに言えば、この年はまだ、「国鉄」が存在し、円は対ドルで230円くらい、シートベルト着用が9月から始まった。故三浦和義氏の「ロス疑惑事件」もあった。シルベスター・スタローン主演の「ロッキー4」と「ランボー/怒りの脱出」が公開された。
デスク仕込みの京セラ「コードレスホン不正」特報
そんななか、斎藤デスクは虎視眈々と京都発の特ダネを狙っていた。
大学担当にもようやく慣れてきた4月下旬、斎藤デスクから支局に上がるよう指示があった。司法担当のNさんもいた。支局の後部にある机付近に2人を呼び、かなり分厚い資料を2人に渡して説明し始めた。それは当時、京都で、いやわが国で急速に業績を伸ばしていたハイテク企業「京セラ」の「不正」を示す資料だった。
京セラが製造・販売している「コードレスホン」が電波法に違反しているというものだ。コードレスホンは、今の携帯電話の走りともいえ、固定電話から携帯に成り代わる過渡期の製品だった。これが5月10日付の朝刊1面トップ記事になった。前文と呼ばれるリード文がかなり長いが、全文を紹介する。
「電電公社民営化に伴い、第二電電計画に乗り出している最先端ハイテク企業『京セラ』(本社・京都市山科区、稲盛和夫社長)が電波法に違反して、高出力の『コードレスホン』を製造、三万五千台以上販売していることが九日までの郵政省などの調査で判明した。コードレスホンは『離れたところで電話ができます』というふれ込みで普及しつつあるが、現行の電気通信事業法では事実上、日本電信電話公社(NTT)だけにしか販売が許可されておらず、事態を重視した郵政省は直ちに製造、販売の中止とすでに出回っている製品の回収を勧告、十日から電波、電気通信事業法違反の疑いで製品検査などを始める。京セラは先月初めにも人工骨や人工関節を無承認、無許可で製造、販売していたことが明らかになっており、企業姿勢が問われることになりそうだ」。なんと360字(15字×24行)に及ぶ長文だ。
筆者とNさんが、斎藤デスクから示された資料を基に、近畿郵政局や関係者、京セラなどに取材を重ねて裏を取り、記事を書いた。しかし、上記のような微妙な書き方になったのかと言えば、それは、斎藤デスクの持ち込みネタであり、筆者たちは裏を取る作業をしただけで、先のリード文も斎藤デスクの“作文”だった。いわゆる「斎藤節」が唸っている。今ならこんな文章は1面トップ記事の前文といえども、載らない。字数も半分くらいに削られるだろう。断言する。
その日の夕刊1面トップで、「京セラの違法電話 出荷前に擬装工作 出力低下の装置 手引書で徹底さす」と3本見出しが躍り、第一社会面トップ記事で、稲盛社長の謝罪会見とともに、「京セラ 違法承知の手引書 政治解決におわす」と続報がドーンと載り、18日付朝刊1面では「京セラ 強制捜査も 国会で追及 防衛庁と同周波数帯」と追及が続いた。
圧倒的な特ダネのオンパレードだ。この記事で筆者とNさん、斎藤デスクは編集局長賞をいただいた。局長賞は当時、個人で3万円、3人で確か10万円を副賞としていただいた。もちろん、筆者にとって初めての局長賞。3人でパッと飲んで無くなった。はずだ。
特ダネは社会党代議士の持ち込みネタ
しかし、手放しで喜べない。この記事は仕組まれたものだった。カラクリをばらす。斎藤デスクは京都への転勤が決まった時から、このネタを仕込んでいた。旧知の社会党代議士井上一成氏(故人)から京セラに関する一連の不正を教えられていた。人工骨や人工関節の問題は敢えて他社に書かせて、最後にコードレスホンを狙い撃ちしたのだ。井上氏の国会質問で記事のフィナーレを飾ることが、最初から予定されていたのだ。そのカラクリに筆者らが躍らされただけだった。井上氏はこの後、京の都を大きく揺るがせた「古都税騒動」でも登場する。
このパターンは続いた。
警察庁幹部が転勤の「置き土産」
5月15日一面トップ、横凸版で「交通保険詐欺 京大講師、共犯の疑い」。縦見出しで「100万円で診断書 常習グループ 2億数千万円とる」「約2年前、医学部に」。嗚呼、堂々の特ダネがまたも躍った。京セラの特報からわずか5日後だった。これは藤原キャップをはじめとする府警グループが取り掛かった記事で、筆者は事件が表面化してから応援に入ったので、あまり覚えていない。京セラ問題に取り組んでいたし、大学担当だったので情報が漏れるといけないと知らされていなかったかもしれない。覚えているのは、松ちゃんと一緒に裏を取りに行った京都大学医学部関係者に「これは誤報だ。読売は恥をかくぞ」とののしられたことだけだ。
事件の概要は簡単だ。保険金詐欺の常習グループの一連の事件を捜査している京都府警捜査四課が、新たに京都大学医学部の現職講師が謝礼金100万円で偽の診断書を作成したことを突き止めた、という記事だ。詐取総額は2億数千万円にも上る大掛かりな詐欺事件に発展した。面白い!
しかし、これも斎藤デスクのネタだった。仄聞したところ、斎藤デスクが大阪府警時代に親しくしていた警察庁幹部が京都府警を転勤になる際に、「置き土産」で教えてくれたネタだそうだ。こういうネタの引き方はよくある。筆者も後に同じようなネタ引きをしたことがある。まあ、サツ回りの記者の一つのネタ取りの方法だ。
デスクに反発、グラスたたき割ったF記者
だが、当時はまだ7年生。警察庁幹部をネタ元にしている斎藤デスクを憧れの目で見ていた。国会議員がネタ元という点でも。しかし、純粋な藤原記者は当時、斎藤デスクの持ち込みネタに反発していた。支局で激論する2人を横目で見ていた。「裏が取れません。そんな風には書けません」と生真面目に答える藤原記者。「ぼくの言う通りに書きなさい」と掠れた声で命令する斎藤デスク。険悪な雰囲気が支局を包んだ。場面は違うかもしれないが、水割り片手に和気あいあいで飲んでいたが、ムードが一変し、激高した藤原記者がグラスをたたき割ったこともあった。
同じような違和感を抱いた筆者は藤原記者に同情したが、「斎藤特ダネ旋風」が吹きまくる当時の支局で、藤原記者をかばうようなことは出来なかった。逆に、激高してグラスをたたき割る行為を茶化して、「藤割るや!」などと言っていた。酷いもんだ。いじめの構図だ。藤原記者はこの後、斎藤デスクから疎まれるようになった。
この一連の事件で講師は逮捕され、続報も次々に出た。筆者に「恥をかくぞ」と言った京都大学医学部の事務方が頭を下げたことで溜飲を下げたことは覚えている。府警グループに編集局長賞が出た。
斎藤旋風はまだまだ吹き荒れる。(つづく)
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