大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」12 安富信

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豪雨災害、107人犠牲に

やっと、松江編の最終回だ。事件記者から行政記者になり連載記事も書いた。高校野球取材も経験した。そろそろ、初任地を卒業する時期が迫って来た。しかし、もう一つ経験したことがあった。災害だ。今、大学で防災を教えているが、考えてみれば、この松江時代からその芽はあった。事件事故も”持っている“が、災害にも縁が深い。その端緒だった。昭和58年(1983)7月中旬、島根県西部を襲った豪雨災害だ。
7月20日から21日にかけて低気圧が日本海を進み、梅雨前線の活動が活発化し、22日深夜から23日にかけて島根県西部地方にこれまで経験したことのないような豪雨が降り続いた。特に浜田市では1時間雨量91㎜(23日)、23日の1日の降水量が331㎜を観測するなど記録的な大雨となり、浜田市や隣の三隅町(現浜田市)、益田市などで甚大な被害が出て、死者行方不明者が107人となった。前年の7月には長崎県を集中豪雨が襲ったことを覚えている読者もいるだろう。2年続きの7月に大災害が起きた。
この日のことはよく覚えている。21日から松江市営球場で夏の高校野球島根県予選大会が始まる予定で、浜田通信部にいた1年下の後輩T君が応援に来て、松江支局長宅に泊まっていた。浜田通信部主任のK記者から何度も雨の情報が来ていた。しかし、21日から雨は降り続いていたが、まさか、あんな豪雨になるとも思いもせず、野球は延期になっていた。ところが、事態が急変したのが22日深夜だった。K主任から悲鳴のような電話が入った。「通信部に水が浸水してきた!一階は水でいっぱいになった。T記者をこちらに戻してくれ」。と言われても、前が全く見えない状況では車の運転もままならない。T記者は夜明けを待って浜田に戻って行った。
その頃、県西部の被害が尋常なものではないということが判明。2年目のT記者は松江から西部を目指して車を走らせた。筆者と1年生のN君は県警本部に詰めて刻々と入ってくる被害状況を支局に伝え、本社に送った。また、滅多に送稿しない夕刊に記事を送り続けた。初めての水害取材は、1日中、被害状況の数字をFAXするだけだった。そんな生活が3日も続いただろうか。支局長から「現地に取材に行け」と命令が出た。浜田通信部にはK主任とT記者がいる。江津市や大田市も被害が酷いので、両通信部の記者のほかにT記者が応援取材に入った。

タオルで口ふさぎ、猛暑の町を歩く

筆者は、益田市に入るよう指示された。松江市から西へ約140km、車で約3時間半かかった。益田市にはベテランのK記者が奥さんと2人で勤務していた。通信部記者の妻は原稿をFAXしたり、支局に連絡したりする立派な通信部補助員だった。通信部と言っても普通の民家を借り上げたものだった。当時の益田通信部は木造2階建ての古い民家だった。そこに、当初は3週間ほど寝泊まりして取材を重ねた。50歳をかなり超えたK記者は大層応援取材が来たことを喜んでくれ、奥様も自分の子供のように歓待してくれ、毎晩、取材が終わった後、K記者と晩酌を重ねた。父親と飲んでるような気分だった。
通信部を拠点に益田市内を歩き回った。水害の取材は初めてだった。大雨の後の市内は、砂埃が立ちのぼる暑い暑い町だった。嫌な臭いもする。タオルで口をふさいで、被災した人たちの話をひたすら聞いて歩いた。毎日毎日、その繰り返しだった。市内を走る益田川が決壊し、溢水して市の中心部が1m以上浸水した。民家は押し流され、土砂崩れがあちこちで発生し、生き埋めになった末に亡くなった人がほとんどだった。梅雨末期に大雨が降って梅雨が明けるのはいつものパターンだったが、この年の雨は半端なかった。被災直後の道路や公共の建物の復旧から生活の立て直し、自宅の清掃など、書くことは山ほどあった。甲子園取材を終えて、9月からは1か月間、被災から3か月経った10月末にも1か月間、取材に入り、復興に向かう町の様子を連載した。

昭和58年7月 島根県西部豪雨(益田市内)
昭和58年7月 島根県西部豪雨(益田市内)

漁船沈没10人死亡、泣きながら遺族取材

このネット連載を書いている最中(2022年4月25日)に、北海道知床半島の沖合で26人が乗った観光船が転覆し、多くが亡くなられ、行方不明になる海難事故が起きた。37年前の海難事故取材が脳裏によみがえった。冬の日本海は荒れる。年末には、レジャーボートで正月用のブリを獲りに行く人たちが強風荒波で転覆する事故が頻発する。何度か取材に出かけるが、海難事故の取材は寒いし、辛いし、悲しい。昭和60年(1985)2月8日朝、隠岐島沖の日本海で11人乗りの巻き網漁船が転覆、10人が死亡、1人が行方不明になった。本社からの指示で、鳥取県米子空港から本社機(双発機)で隠岐島へ飛べと言われた。もう6年生になっていたから、筆者の出番はないわと高をくくっていたら、指名された。「なんでやねん!」。車で米子空港に向かい、大阪から来た双発機に乗り込んだ。

双発機に乗り込む安富記者(昭和60年2月、米子空港で)

こうした事故の上空からの取材には、ヘリコプターが使用されるのが通常だが、ヘリが定期点検中のため、双発機が来た。嫌な予感がした。添乗している本社のカメラマンは若かった。「こら、あかん」。案の定、転覆現場の上空に差し掛かると、双発機はグルグル、グルグルと旋回する。カメラマンは窓から体を乗り出しながら、「機長、もう一回回って!」と叫ぶ。「やめてくれ!」。数十分の現場取材が何時間にも感じられた。翌日の朝刊には「この下に・・・生きていて 本社機から思わず祈る」という「本社機から」のレポートが掲載された。この後、漁港に遺体が次々に運ばれて来る。遺体にすがりつき絶叫する遺族。この取材が一番辛い。それでも、声を聞いて書かなければならない。滂沱(ぼうだ)の涙。横で取材していた中国新聞の先輩記者に「泣く記者」とのタイトルでコラムに書かれてしまった。プロとして失格だった。

昭和60年2月9日付大阪読売全国版社会面
昭和60年2月9日付大阪読売全国版1面

余談だが、こうした双発機やヘリコプターの取材には、危険手当が出る。確か、当時1回乗るだけで、10万円くらい出たような記憶がある。この後、確か2回、災害取材で乗ったが、ホンマは乗りたくなかった。新聞社やテレビ局は関西では、大阪空港(伊丹)に格納庫と呼ぶ、ヘリと双発機の待機場を持っている。朝毎読産の4社と神戸新聞、テレビはNHK、毎日放送、朝日放送、関西、読売と計10社が格納庫を持っており、大事件や大事故、地震、水害時はここから一斉にヘリが飛ぶ。阪神・淡路大震災時のヘリコプター騒音問題は、こうしたことから起きるが、それはまた後程に。

昭和60年2月9日付島根版 悲しみの対面
同「本社機から」

結婚3カ月後、涙涙で京都へ転勤

初任地でのドタバタ悲喜劇も終わりに近づいた。筆者はその前の年の末、結婚した。「結婚したり家を建てたりすると新聞記者は転勤になる」という”都市伝説“があるが、年明け早々に異動が告げられた。結婚式もドタバタだった。12月23日、当時の皇太子様の誕生日で休日だった。競馬の有馬記念が行われた日だったが、山陰地方は大雪となった。「雨男」の本領発揮だ。遠くから来る先輩や友人たちは、口をそろえて「こんな日に結婚せんでもええやん」。約4時間も続いた式後、新郎新婦はタクシーを飛ばして米子空港へ。空路大阪へ逃げ出した。翌日からの新婚旅行に行くためだ。友人たちは雪の松江に閉じ込められて、帰れなかったらしい。
次の勤務地は、学生時代に遊んだ京都だった。気もそぞろだったが、「卒業試験」を課せられた。県政担当になっていたので、島根県の新年度予算を総括せよと。「県の新予算を見る」を3回連載した。新居はわずか3か月ほどで、転居となった。
松江編も色々書いてきたが、思い出すのは、酒を飲んで馬鹿をやったことばかりだ。山陰地方の冬の代表的な味覚はカニ。県警本部や市役所、県政と職場を変わっても、どこも忘年会はカニ料理だった。しかし、カニは盛り上がらない。みんなが無心でカニ身にむしゃぶりつくからだ。無言が続く宴会だった。宍道湖に沈む夕日は世界一だと今でも思う。なので、2年目から結婚するまで、宍道湖を見渡せる湖畔のマンションに住んでいた。1階下に3年後輩のNHK記者がいて、しょっちゅう部屋で飲んだ。結婚するまで、かなりの数の女性と付き合った。真田記者にそれを結婚式で訳の分からない「詩」で暴露された。わかるのは筆者と妻だけだった。
あと一つ大切なことを忘れていた。4年目の昭和57年夏と秋、島根で「だんだん国体」と銘打った国民体育大会が開かれた。。「だんだん」とは出雲弁で「ありがとう」の意味。飲んで勘定すると、「だんだん!」と言われた。秋の国体では、主会場の松江市営競技場で配布された弁当の食中毒騒ぎが起きた。開会式そっちのけで原稿を送り、全国版に「島根国体で食中毒」の見出しが躍った。2月末に支局の送別会をしてもらい、確か、この年は3月1日付の異動だった。涙、涙で初任地を後にした。(第一部 松江編おわり)

昭和57年秋の島根国体(松江市営競技場)
昭和60年2月送別会での色紙

つづく

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