能力主義、批判精神の衰退、社会の子ども化……大学生と久保校長が議論

  • URLをコピーしました!

大阪の公教育の危機的状況を訴える「提言書」を大阪市長に提出した市立小学校長の久保敬さんと、久保さんのつづった「大阪市長への『提言書』は黙っていた自分への怒り--『平凡な校長』の卒業論文」(「月刊風まかせ」2021/10)を読んだ大学生の座談会を開いた。能力主義や習熟度別学級の是非からはじまり、高校生も大学生も教師もこぞって「子ども化」している実情にまで話題が広がった。

座談会には関西大学で映像ドキュメンタリーを学ぶ3人と京都大で法学を学ぶ2人の学生のほか、関西大で映像ドキュメンタリーを教える里見繁教授や、テレビや新聞のOBや現役記者も参加した。

目次

ぬいぐるみで腹話術「うまなったなぁ」と子どもにほめられた

久保さんは1985年、新任で同和教育推進校の小学校に配属された。教育委員会では人権教育の研修も担当した。20年ほど前、同僚の先生の紹介で、当時JR玉造駅近くにあった「風まかせ人まかせ」に通うようになった。
「最初の学校の経験がなければ提言書は書いていなかった。風まかせでの多くの人との出会いも今の僕の考えに反映されています」
そう語ってカタツムリのぬいぐるみを左手にはめ、「みなさん、こんにちは!」と腹話術であいさつした。ぬいぐるみを手に毎朝校門に立って子どもに声をかけているという。
「マスクして口が見えんから、最近子どもに『うまなったなぁ』とほめられてます」と言って場をなごませると、さっそく女子学生が発言を求めた。

でんでん虫のぬいぐるみと久保校長

「できひん子はダメ」なのか? 「あいさつできひん子」が自分の卑屈さに気づかせてくれた

関大Bさん 記事を読むまで、今の教育の問題を指摘する先生がいるとは思わなかった。
私は優等生だったけど、弟は先生の話をきかんと絵ばかり描いていたから、何度も校長室に監禁された。私はそれが普通やと思ったけど、「なんで教育受けに行ってるのに校長室に監禁すんねん」と親は怒っていた。大人よりも、学校に通っている子どもの方が「できひん子はあかん、できる子はいい」という考えが植えつけられているんやなあと先生の提言書を読んで思い出した。

久保 僕は「できる子がいい、できひん子はダメ」とはちがう価値観を伝えようと考えていたけど、しょせん優等生だった。最初の学校で、あいさつができひん子がいて、「そんなことでは社会に通用せえへん」と、何度もやり直させた。
僕は子どものとき成績がよい方だったけど、もっとできる人に対しては劣等感を持ち、逆に自分より下の子には「僕は努力してる。できひんやつが悪い」と、どこかで思っていた。そういう卑屈な自分に薄々気づいていたから最初の学校に赴任したとき「なめられたらあかん」と肩に力が入っていた。
でも苦しい人生を経験してきた子どもたちは僕のことを見透かして、「おまえはなにもんや」と突きつけ、徹底的にあいさつをしようとしない。1カ月ほどで僕の方が根負けして熱を出して学校を休んだ。
そのうち、あいさつせえへん子は母子家庭で、お母さんは酒好きで朝まで帰ってこないから、弟を保育園に送ってから登校していることを知った。
ひとりひとりいろんな事情があるんやって、1カ月たってやっと気づいて、僕も(片意地はらず)素の僕として子どもの前に立たないとだめなんやなと、気づかされた。

特別支援学級、習熟度別……「能力主義」が子どもを分断

久保 学校の点数で子どもを評価するという物差しは捨てられたけど、「ほかになにかできることあるでしょ? できることを見つけよう」という物差しはなかなか捨てられなかった。「勉強だけやないで」と言いながら、能力主義的なものをメッセージしつづけ、能力主義の教育の流れに加担していたなあって、提言書を書いていて反省した。
たとえば特別支援教育で、支援学級がたくさんできたのはよいけれど、発達障害の子をそこに入れて他の子と分けてしまっている。当時、「養護学校は分離・隔離だからダメや。地域の学校へ」と言っていたけど、地域の学校の特別支援学級に「分ける」ことに加担していた。
習熟度別学習も、僕自身は反対やったし、最初は子どもも「なんで分けられなあかんねん」と反対だった。でも今は、『自分の適したところで学習できて安心できる』という雰囲気になってきた。「多様なニーズに応じて」「個の尊重」といった言葉でごまかして、けっきょくは分けてしまう。「できるのはよくて、できないのはダメ」というメッセージを子どものなかに植えつけてしまっている。
僕自身は、勉強以外のことを大事にしようと、自治的な活動や自主的な活動をクラスづくりでやってきたつもりだが、俯瞰して教育制度全体の問題を見られていなかったなと反省している。

社会を変える教育ではなく、社会に子どもを合わせる教育という実情

京大Xさん 私は小学校5,6年のとき、勉強が簡単すぎて授業に出る気になれず体育館でピアノをひいていた。「ひとりひとりをみる」と言いながら、「理想の子ども像」を押しつけられているように感じて先生に反発していた。

久保 僕が子どものころはずっと甘かった。遊びほうけて日が暮れて1日が充実していた。最後に担任をもった44歳のとき、「僕は今の子じゃなくてよかったわぁ」と子どもに本音をついもらしてしまった。
教育が社会を変える力もあるのだろうけど、いかに社会に子どもを合わせるかという教育をしてきた。教師が思う「こうなればあなたは幸せですよ」を一律に押しつけてきた。ひとりひとりの「あなた」に対応しないしくみに学校はなってしまっている。

人間としての価値と社会経済的な価値

京大Xさん 人間には人間としての価値と、社会経済的な価値がある。社会経済で生きるにはある程度分けられるのは仕方がないのでは?

京大Yさん 高校生が成績で分けられるのは違和感がないが、小学生では違和感を覚える。小学校は人間的な価値を重視する段階で、高校は、社会経済的価値を高める場だと私がとらえているからだろう。それがごっちゃになると、小学校にまで進学とかテストの点数を持ちこみかねないなと思った。

久保 社会経済的人間の価値と、人間本来の価値のふたつを僕もちゃんと分けずに発言してきた。そこが分けられていないから、劣等感をもつ人も出てくるのかもしれない。

トリプルワークの母子家庭に「塾代1万円助成」はごまかし 「どうせ俺なんか」とあきらめる小学生

京大Yさん 小学校時代が一番いろんな子がいて、中学・高校と上に行くほどだんだん自分に似た人が集まった。
職人になりたい子と東大に行きたい子を同じ場所に入れて、「ひとりひとりに合った対応を」というのは無理だから、どこかで区別するのはしかたがないと思う。でも一方で分断を生んでしまう。どう調整したらいいのか。

久保 大学進学とか職人とか進路はわかれていくけれど、本当に自分の意思で選択できる社会になっているのか?
いま、塾代助成(大阪市は1人あたり月額1万円まで)の制度があるが、シングルマザーで、トリプルワークをしても食べていくのでカツカツで、時にガスを止められる家もある。そんな家の子に(塾代)1万円助成したところで、機会を公平にしたことになるのか?
なぜトリプルワークをするのかという根本の問題は解決されず、出口だけで塾代を助成してごまかしていると感じる。「支援があるからあなたたちも自己選択できますよ」と世間は言うかもしれないが、ぜんぜんそういう状況ではないって、現場で子どもを見ていて思う。小学校段階でも、「どうせ、おれなんか」「どうせ私なんか」と言う子が生まれているのが現実だ。

関大Bさん 校長室に監禁された弟は勉強がきらい。父は弟に安定した職業についてほしくて、大学まで行ける高校を無理矢理選ばせた。
中学ではバスケットが生き甲斐だったのに、高校のバスケ部は推薦の子しか入れない。「何をしたらいいかわからん」と、毎日起きて学校に行って帰って寝るだけ。
弟は子どものときから「できない子だからお父さんに従いなさい」と言われつづけて、劣等感で抗う気力もない。

画一的教育でほめられて育った若い教師「校長先生が決めてくれたら従います」

京大Xさん 小中学はなんでも先生が介入して方針を示したのに、高校(公立進学校)に入っていきなり「君たちは自由だ」と言われて、みんな戸惑っていた。できれば中学で、いろんな価値観や生き方があると教えてほしかった。

久保 先生の人数が足りなくて忙しいから、「共通理解のもとにみんな同じことをしましょう」となる。画一的で均質的なことを言うから、それに上手にこたえる子が評価される。
先生に疑問を抱かず、評価されて育った子がいま教師になっている。
僕が職員会議で「みんなで考えましょう」と言うと、「校長先生が決めてくれたらその通りにします」とよく言われる。「みんなで考えよう」と強く言うと「僕らに責任押しつけるんですか」ともなりかねない。
職員会議が「事務連絡」の場になり、事務連絡ならいらないんちゃうか、と、職員会議をなくした学校もある。

京大Yさん 特定のことをほめることをくり返すと、そっちに根づいてしまう。そういう弊害があると教育心理学で学んだ。

久保 小学校低学年は、たとえば「晴れた日は外で遊びましょう」と先生が言うと、「晴れてるからってなんで外に行かなあかんねん」と思ってる子は口をつぐんでしまう。
「元気よく手をあげて返事しましょう」と先生が言って、それにこたえる子をほめすぎると、それだけがひとつの価値になっていく。僕もそんなことをしてきたなという反省もある。

高校生も大学生も教師も「子ども化」 小学生は「大人化」

関大Bさん 私は自由な高校で、セーラー服でタイをリボンにするのがはやっていた。リボンをやめさせようと先生が圧力をかけると「校則がないのに、先生が私たちをしばる権利がない」と意見書とか出して対抗した。最近の子はみんなタイをちゃんとつけている。「先生に圧力かけられたんで、リボンやめました」と言っていた。大阪の進学校は自由度が高いと言われていたが、後輩を見ていると、今の高校生って子どもっぽいなあ、と思う。小学生みたいに先生に言われたら従うイメージがある。

里見教授 11年前に(テレビ局をやめ)大学の先生になって、「父母会」で「うちの子はどうですか」「娘がだれかとつきあってるけどどうしたらいいですか」と話していて驚いた。大学生が幼くなった。
失礼だけど、俺は君たちを高校生だと思っているよ。今の学生はそのままでは社会に通用しない。ドキュメンタリー制作は高校の社会科の授業のつもり。

久保 新任の先生の親が学校に来て「よろしくお願いします」なんて僕にあいさつしたり、「娘が悩んでいるけど、校長先生、援助していただいてますか」と親から電話がかかってきたりした。

久保 みんな子どもっぽくなってきたというけど、小学1年生は逆。昔の1年生は鼻垂らして、学校のなかを右往左往して、平仮名もわからん子もいた。今は「入学までにはここまでしないといけない」と保護者が考えていて、小学生はむしろ大人びている。
でも、高校生がたわむれている様子をみると、「小学生と同じことをしてるやん」と感じる。

過保護を克服するには批判能力が必要 でも批判すると処分される現実

関大Aさん 「とりあえずその高校に行けばなんとかなるから」と親に勧められた高校に入ったが、学校になじめなかった。親がレールを決めてしまうと子どもにはつらい部分がある。

関大Cくん 僕は偏差値50以下の高校に入って「安定した職につけないなら、あんた終わったな」と親に言われた。「指定校推薦」の制度を見つけて、それだけをめざして3年間勉強した。関大に受かって、「よかったわ。安定した職につけるなあ」と言われた。メディアに就職したいけど、親は「公務員試験を受けなさい」と言う。親の世代も「安定した職」というところで思考が固まっている。親の考えが硬いと子どもはすごくつらい。

京大Yさん 批判能力を失ってるから過保護にならざるをえないのかな。批判能力を育てるのには、いろいろな価値観があることを教えてもらう必要がある。その役割をメディアが担ってくれないかなと思った。

久保 批判する力は大事だけど、批判すると僕みたいに処分を受ける。提言書に対して、数人の校長先生だけ「その通りだ」と言ってくれたが、大半の人は口を閉ざした。
教育委員会の課長の聴き取りを受けたとき、「批判って悪いことじゃないのでは? クリティカルでクリエイティブという意味なのだから」と僕が言うと、「そういう意味があるんですか。批判て悪口やと思ってました」と言わはった。

教師の階層化で「上司」が出現 「多様性」は子どもを分断するしくみに変質

編集部 どんな経緯で「物言えぬ学校」になってきたのか。

久保 ゆとり教育がはじまった2000年ごろからゆとりがなくなり、文科省が言うことをそのまま教育委員会がおろしてくるようになった。
ティーム・ティーチング(TT)や習熟度別指導がはじまり、特別支援学級も、個別の支援計画や指導計画をたて、ひとりひとりに合った個別の教育をせなあかんとなった。
「ひとりひとりを大事に」「多様性を尊重」というのは、人権教育をしてきた僕には、その通りだな、この流れをとらえて人権教育をしようと思えた。ところがけっきょく、こっちの都合で子どもを勝手に分けるしくみになってきた。
同時に、管理職の「カリキュラム・マネジメント」とか「リーダーシップ」と言われ、校長に権限を集中し、「職員会議は合議機関じゃない」などと言いだした。
学校の組織も、従来は教諭・教頭・校長しかなかったのが、 教諭、主務教諭、首席教諭、指導教諭とランクづけられ、給料も差をつけられるようになった。「上司」」という言い方を先生が平気でするようになった。
主務教諭にならないとある段階で給料が頭打ちになる。そこで減らした人件費で、なり手がいない管理職の給料を増やしてきた。制度が始まった頃は、今さら主務教諭にならなくても「一生(ヒラの)教諭でよい」とあえて主務教諭にならない人もいたが、新採の人は30代後半で給料が頭打ちにされるからみんな主務教諭になるようになった。

増える雑用、考える余裕もなく

久保 心の天気を「晴れ」「曇り」と入力するとか、「相談通報ボタン」を押したら先生がSOSがわかるシステムとか……あれやれこれやとおりてくる。
一人一台端末が導入される前は、30台のタブレットを全学年で使い回ししていたが、通信環境が安定せず、1クラスで何台も同時に使うとかたまってしまう。それで利用が滞ると、「このままではタブレットを全部ひきあげますよ」と警告されたりして、僕がひまなときにログインして利用回数稼ぎをしたりもした。
新しいシステムは最初は「試しにとりあえずやってみてください」と言われるが、しばらくして気づいたら義務になり、実績の報告書を出さなあかん、となる。
それぞれ文句を言いたいが、検討したり批判したりする余裕のないまま、次々に押しつけられている。

【メディア人の感想】
酒井啓輔(放送局員)「メディアが多様な視点を伝えていない」という学生の問いかけに
「そんなことはない」と言いかけたのですが、うまく答えられなかったように思います。
 自分は、何を伝えたか。誰を見て取材しているのか。
 そんな素朴な問いが、改めて重くのしかかっているように感じました。
かんこ(風まかせ) 久保校長の話はアッそうか!が多くありました。
「勉強ができない子にそれ以外で何かできるかという能力主義になっていた」etc
 そして口アングリすることも多々ありました。
・教育委員会の人が「批判とは悪口」とおもっていたこと。
・教師に校長、教頭のほかにも役職があること。
 その「役職ある教師」に「一般教師」が上司と言うこと。
・職員会議で「みんなで考えましょう」と言うと
 若い教師が「校長先生が決めてくれたらそのとうりにします」
 強く言うと「僕らに先に責任を押しつけるんですか」。
・大学に保護者会があること。その保護者会での質問にも。
 などなど…
文箭(元民放記者) 学校に「上司」がいたり、学ぶ場が「分断」していたり、
 推薦入学でなければ部活ができない仕組みがあったり……
 国や自治体が教育の現場をコントロールしようとしているのだろうと。
 これは教育だけの問題ではないと感じました。
澤田(民放シニアプロデューサー)「人間の、人間的価値と社会経済的価値は別」
 という発言がとても印象的で、いまも自分の中で渦巻いています。
 では、人間的価値とは何か……。社会経済的価値よりも勝るものか……。
「教育」の本質を考えるうえで、とても重要なテーマだと思います。
 引き続き、学生のみなさんや教員の方々と話をして深めていきたいと思っています。
藤井(元新聞記者)「子ども化」を克服するには批判能力が不可欠だけど、批判したら処分される。
 でも、権威におもねらず批判できる人は、久保先生のような魅力的な大人になれるのでしょう。
 老いも若きも魅力的な「大人」をめざしましょう。

※感想やご意見をコメント欄にお寄せください

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次