ずいぶん、休んでしまった。実はそこそこ書いていたのだが、どうも、この地方部次長時代(1999年から2004年)は、あまり良い思い出がないので、筆が進まない。それで、「スタンドバイミー水道筋編」のスピンオフにして逃げていたら、10月23日が来てしまった。
2004年10月23日午後5時56分、新潟県中越地方を最大震度7の揺れが襲った。あれから20年の年月が過ぎた。これを書かなきゃ、防災研究者じゃない。
中越地震、突然の呼び出し
実は2004年は地方部次長の末期、ぼちぼち次長から部長になる時期だった。筆者は地方部次長の筆頭ではなかったが、翌年にはどこかの部署の部長になるお年頃だった。48歳。まあ、そんな状況だった。
忘れもしない。土曜日の夕方というか、黄昏時でかなり暗くなっていたが、三田市の自宅近くで散歩していた。夕闇が立ち込めるなか、新潟から遠く離れた三田でも、少し揺れた。震度1か2かな?
実は、この月の18日に発生した台風23号が20日にかけて兵庫県の淡路島や豊岡市、新潟県三条市などに大きな被害を出した豪雨災害が終わったばかり。後で詳しく書くが、この水害報道で、読売新聞大阪本社は大きな失敗をした。その後始末を済ませて、土曜日のこの日は休みを取ってゆっくりしていた。
当時は完全に大阪読売の防災担当デスクだったので、当然本社から連絡が入った。
「新潟で震度6強の地震が発生した。準備しておいて」と。
「準備って、どういうこと? 現地に行けってこと? 大阪読売の管内やないけど」と思っていたら3日後、本当に行くことになった。新潟は東京本社の管内で、東京地方部が長岡市内に現地本部を置いた。
「現本」のキャップは、阪神淡路大震災の直後、神戸総局に東京から派遣され、2年後に東京管内に戻っていたN次長だった。筆者が神戸総局次席時代に一緒に仕事した仲間だ。東京本社管内では戦後初めての大地震。数日後には、旧川口町で震度7を記録していたことがわかった。こうした大震災の報道に慣れていないということで、N次長とも懇意の筆者に白羽の矢が立ったのだ。
といっても、筆者にとっても、震災報道の現本の相談役など経験したことがない。とりあえず、3日後の10月25日午後、JR長岡駅近くの新聞販売店内に設置された現本を訪れたが、相談役と言っても何もすることがなかった。
翌日、長岡市妙見山の麓の土砂崩れ現場に母子3人が乗った車が埋もれており、午後から東京消防庁ハイパーレスキュー隊による救出活動が始まると聞いて、現場に向かい、3時間近く、遠巻きに見た。3人のうち、母と3歳の長女は亡くなり、2歳の男の子だけが生存しており、救出された。この動画が後に大学の防災教員になって「サイレントタイム」(災害現場で報道陣が救助活動などの邪魔にならないように、大きな音を出すヘリコプター取材などを自粛すること)の講義をするとは思いもしなかったのだが。
結局10日間ほど、現本にいたが、ほとんど何もせずに過ごした。しかし、この4年後の7月に、新潟県中越沖地震が発生。その時は、災害担当編集委員になっていたので、かなり精力的に取材活動をした。この中越地震の体験が大いに役立ったと今は思える。
高1の長男がボランティア
それともう一つ、新潟県中越、中越沖地震の被災地でその後長い間、防災仲間として付き合うことになる人たちとも知り合った。それは、筆者の長男が中越沖地震当時、高校1年生で夏休み、部活もせずに暇にしていたので10日間ほどボランティアで連れて行った。その際、筆者は新聞社の編集委員だったので3日間ほど取材をして帰宅したのだが、長男を知人の当時、中越復興市民会議という中間支援組織の事務局長をしていた稲垣文彦さん(現東京のふるさと回帰支援センター)に預けた。長岡駅前のビジネスホテルを10日間予約して、食事代を渡して。稲垣さん以外にも現大阪大学大学院の宮本匠准教授やボランティアだった阿部巧・中越防災安全推進機構ムラビトデザインセンター長らにも随分世話になったと後で聞いた。
2024年、10年ぶりに再会
その彼らと10年ぶりに中越で会った。11月8日から3日間、長岡市で開かれた日本災害復興学会長岡大会で。中越地震から20年と言う節目だった。8日にはエクスカーションといって、被災地の今を視察する催しがあり、バスで旧山越村と旧川口町(いずれも現長岡市)を半日かけて回り、復興ぶりを見て歩いた。この時、ガイドをしてくれたのが、新潟工科大学の上村靖司・長岡技術科学大学教授だ。稲垣さんや宮本さんらとも翌日からの研究発表会で会い、当時長男がお世話になったことにお礼を言ったら、「そうか、息子さんももう30を過ぎたのか? そうだよね、あの時高校生だったもんね」などと懐かしがってくれた。
学会には懐かしい顔が揃ったが、同時に能登半島地震の被災地でボランティア活動を続けている大学院生や大学生らも多く参加し、積極的に研究発表をしたことが、将来の日本の防災を背負う人材として頼もしく映った。(つづく)
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