「能登の食」を語るとき輪島塗は欠かせない。家々の蔵には赤や黒の膳があり、夏祭りではそれに「ごっつぉ」を盛ってふるまう。浄土真宗の寺の「講」でも、輪島塗の膳に煮物などがならぶ。
なぜ、輪島に輪島塗がそだったのだろう。
塗師屋は総合プロデューサー
輪島の漆器は、下地に地の粉とよばれる珪藻土をつかい、木地の破損しやすい個所に麻布をはる「布着せ」をほどこし、その上から何度も漆をぬりかさねる。定期的に修理すれば100年以上つかいつづけることができる。他産地の漆器にくらべて圧倒的に丈夫だから、全国の旅館や寺の宿坊で重宝されてきた。
輪島に漆器がそだったのは、原料の漆やケヤキ、珪藻土があり、気候が適しているから……と、一般的に説明されてきた。
「輪島屋善仁(ぜんに)」の中室勝郎社長は、輪島塗という全国ブランドがなぜ成立したのか、研究をかさねてきた。すると、珪藻土もケヤキも漆も、日本のあちこちに存在することがわかった。漆器が輪島だけにさかえる理由がことごとくなくなってしまった。
そこで中室さんは、輪島塗が文化的な製品になったのは、そこに文化があったからではないかと考えた。そしてその文化をそだてたのは「塗師屋」だと結論づけた。
塗師屋とは、製品を企画し、職人につくらせ、売り歩く総合プロデューサーだ。
全国の得意先をたずね歩き、それぞれの土地の最先端の文化をもちかえり、それを漆器づくりに生かした。モダンな文化をもたらす塗師屋は、売り歩く先でも「輪島様」とありがたがられた。
中室さんの父は、山形県鶴岡市に「アンサンブル鶴岡」という楽団をつくった。ある塗師屋は現地に2カ月間滞在し、昼間はテニスをおしえ、夜に営業にまわった。別の塗師屋は、泊まった旅館で宴会芸を披露し、「私が景品をつけますから」と銘々皿を1枚ずつくばった。「1枚じゃしょうがないから」と10枚単位の注文がきた。輪島の塗師屋は知的でしたたかだった。
ブランド力のある輪島塗は戦後、塗師屋による直接取引から、問屋や百貨店をとおした取引に転換した。バブル期までよく売れたが、それとひきかえに、全国の文化を輪島にもたらした塗師屋のシステムが失われた。
さらに、バブル崩壊後は価格競争にさらされた。他産地との競争で品質を落としたことが、輪島塗が衰退した一因だと中室さんは考える。
「塗師の家」は文化トンネル
中室さんは、荒れ果てていた明治時代の塗師屋の家を1990年に再生し、「塗師の家」と名づけた。
商工業をいとなむ町家は一般的には、表に売り場や工房があり、裏に居住部分がある「職前人後」だ。だが塗師の家はなぜか「人前職後」で、表に客間と仏間があり、職人のはたらく場所が奥にある。
当初は、奥のほうが仕事に集中できるからだと中室さんは考えた。だが、それだけではないと思いなおしてきた。
高い文化をもつ全国の富裕層とつきあう塗師屋は、そうした文化を職人に理解してもらう必要がある。職人に理解してもらう仕掛けとして、贅をこらした客間や仏間をつくったのではないか……。
前でまなんで後ろでつくる「学前職後」という仕掛けであり、無意識に文化を学ぶ「文化トンネル」だったという。
「塗師の家」は、建築の専門家から「日本一美しい町屋」と評された。中室さんはこの家を、塗師がはぐくんだ高度な文化を体感できる場として活用したいと考えている。
今後の課題は、営業マン兼文化プランナーとしての塗師屋の再生だ。
「生活芸術品としての漆器をつくりあげてきた塗師文化が、空気のようにあたりまえになったとき、輪島は復活します」
中室さんは断言した。
輪島塗は、沈金や蒔絵をほどこさないシンプルなものでも1万円を超える。はじめてその値段をみたときは私もおどろいた。
だが実際につかうと、陶磁器とちがって冬は汁物がさめない。うどんやラーメンを食べる丼も、軽くて熱くならないから手でもちやすい。落としてもわれない。破損しても修理してもらえる。不便なのは、食洗機や電子レンジがつかえないことぐらいだ。その丈夫さを考えれば、高い買い物ではないと思えるようになった。
火がせまる家から電話をかけつづけた人
2024年元日の能登半島地震は、輪島塗の工房や職人にも甚大な被害をもたらした。「塗師の家」も焼けてしまった。
私の家にも7つの工房や作家さんがつくった食器がある。震災後、その消息をひとつひとつ確認していった。
最初にテレビでみたのは「輪島キリモト」の桐本泰一さんだった。自宅は全壊、朝市通りの旧店舗は焼失したが、ひげをはやした精悍な顔で仁王立ちになって「絶対に輪島は復活します」とかたっていた。
3月にたずねると、土嚢をつめたビールケースの基礎のうえに、「紙管」を構造材につかった仮設工房の建設をいそいでいた。職人が輪島での仕事をあきらめてほしくないからだ。
吉田宏之さん(63)とひとみさん(63)の吉田漆器工房も、自宅兼工房が全壊し、朝市通りのギャラリーは焼失した。2月に奈良でひとみさんに再会した。
元日、窓も玄関の扉もふきとび、柱も折れた。はだしでとびだして高台に避難した。
日が暮れると市街地の空が赤くそまり、プロパンガスの爆発音がひびきわたった。深夜、朝市通りのギャラリーの様子をみにいったが、火事でたどりつけなかった。
倒壊した7階建ての五島屋ビルの下にとじこめられた女性が、よびかけに大きな声でこたえていた。これならたすかる、と思ったが、母娘が亡くなった。とじこめられた朝市通りの建物から、火がせまるなか、家族や知人に電話をかけつづけた人もいた。
若手の蒔絵師の島田怜奈さん(36)は、輪島塗にはめずらしい独創的なかわいい絵が人気で、吉田さんのギャラリーでも彼女の作品をあつかっていた。彼女も朝市通りの自宅兼工房で亡くなった。
「彼女には商売とか関係なしにがんばってほしいなって思ってたからショックでね……。大津波警報がなかったら、なんとかなったかもしれないけど、東北のような津波がぜったいくるって思ったからね。ほんとうに、せつない話ばかりです」と、ひとみさんはふりかえる。
お客とのつながりが塗師屋の強み
「もうやめよう」「つづけられん」「輪島塗がおわるかもしれん」……当初はあきらめの声ばかりだった。工程ごとの分業でなりたつ輪島塗は、廃業する職人が続出すれば一気に存続の岐路にたたされてしまう。
だが時がたつにつれて、2次避難先からもどってくる職人たちが増えてきた。
吉田さんは市内の別の場所にある空き家に、全壊の自宅兼工房から道具や在庫をはこびだして仮工房にした。
取引先の百貨店やギャラリーが企画展をひらいてくれた。「在庫を自分で写真に撮ってネットにだしたらいいよ」という助言にしたがうと予想以上に売れた。
「朝市のお店はなくなってしまったけど、私も漆をさわったり荷造りしたりという時間がもてるし、こじんまりとやっていこうかなって思うようになってきました」
宏之さんは、角偉三郎さんの作品の上塗り師だった。角さんは、旧柳田村につたわる素朴な合鹿碗の価値を発見し「漆芸作家」から生活に密着した器をつくる「職人」に回帰した人だ。
宏之さんは、自分のつくりたい器をつくり、お客さんと直接つながりたいと思って独立した。
宏之さんの漆器は、蒔絵や沈金をほどこした高価な商品ではないから、問屋の手数料をはらったらやっていけない。直接、百貨店やギャラリーにもっていき、お客と相対する商売をつづけてきた。そのつながりが地震後の支えになった。
「地震がおきて、どうしていいかわからんし、先は真っ暗と思ったけど、お客さんが本当に親身になって応援してくれるから、がんばろうって思えるようになった。輪島塗の仲間はみんなそうじゃないかなぁ。漆を愛するお客さんって、すごいあたたかいんです」とひとみさんは話す。
輪島塗は戦後、問屋をとおした取引が中心になって、顧客との直接のつながりを失った。それが輪島塗の衰退の一因だと中室さんは指摘していた。
輪島キリモトも吉田漆器工房も、NHK連続テレビ小説「まれ」の塗師屋のモデルになった大崎漆器店も、顧客との直接のつながりを大切にしてきた。
そんな現代の「塗師屋」がいるかぎり、輪島塗は生きつづけることだろう。
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