「殉職者之碑」
茨城県水戸市内原町にかつてあった、満蒙開拓団青少年義勇軍の訓練所跡を辿るフィールドワークへ。
今回は、奈良県大和郡山市で偶然出会った、16歳で訓練中に事故で亡くなった「西本清蔵」少年に呼ばれるかのような訪問となりました。
茨城県のJR内原駅に近い「東光山地蔵院」にある「満蒙開拓殉職者之碑」。
1946年に建立された碑には青少年義勇軍の遺骨26人、内原訓練所の9人、武具池の2人の37人が祀られています。
案内板の字は薄く、ところどころ読みにくくなっていました(案内板の写真にキャプションとして全文付記しておきます)。
私が出会った西本少年もここに祀られているということで、線香を上げさせていただきました。
横には「聖母観音」。これは訓練所に入って来た当時14〜18歳の少年たちの面倒をみた176名の女性たちを意識して1971年に建てられたそうです。
<説明板の内容>
「我等は若き義勇軍 祖国の為ぞ 鍬とりて
万里涯なき 野に立たむ
今開拓の 意気高し 意気高し 意気高し
平和と勤労を愛し不毛の荒野を拓き 五族協和の理想のもとに楽土建設を夢見て大陸に渡り 理想の夢が花開くかに見えた矢先のあの大悲劇の中に巻き込まれた満洲開拓民二十七万有余明の内殉難された八万有余柱の為 昭和二十一年 元義勇軍発祥の地 ここ内原町「東光山地蔵院」に碑文を元内原訓練所長加藤完治先生、当時財団法人開拓民援護会設立により建立される。
苦しくもこの納骨室には義勇軍で無事に内地上陸するも故郷へ帰山出来ず、我が内原拓友会が懸命な「ふるさと探し」もかなわなかった十七柱の実骨と帰山された文骨を合わせ三十四柱が安置合祀されております其の後 残念ながらいまだ帰山出来ぬ実骨十六柱が合祀されております
どうか全国の今は亡き拓友よ 我が国の平和と繁栄は諸兄の犠牲が礎です殉難零位の御冥福を祈願いたします 合掌」
「内原郷土史義勇軍資料館」
水戸市にある「内原郷土史義勇軍資料館」は、訓練所跡の一角に2003年開館したユニークな施設です。
7月20日は同館としては初めてだという企画展「漫画『満蒙開拓青少年義勇軍』の世界」と題して元義勇軍隊員、細井芳男さん(1924〜2005)が戦後描き続けた、内原訓練所での訓練の日々や、満洲に渡った後の厳しい状況などの漫画 160点が公開されました(〜9月23日まで、無料)。
関口慶久館長と細井さんのご子息の博充さんの解説も聴くことができました。
細井芳男さんは鮮魚店を営む家に生まれ、幼い頃は田河水泡の『のらくろ』が大好きだったとか。しかし訓練所や渡満後の暮らしについては描けても、ソ連軍との交戦やシベリア抑留については描きかけてすべて破り棄ててしまったといいます。
ご子息の博充さんの聞き書きも展示されていますが、民間人に地雷を担がせソ連の戦車に特攻させたり、失敗して戻ってきた民間人を「非国民」と射殺したりした「将校」が、部下から激しく憎まれ、敵との交戦中のどさくさに紛れて味方の銃撃で殺害された…といった細井さんのリアルな証言もありました。
またシベリア抑留ではロシア人兵士に対する憎悪をかき立てられることも多く、到底漫画には出来なかったようです。芳男さん自身も何度も危うく命を落としそうな場面に遭遇しています。
入所していた時期は違いますが、西本少年もまた細井さんと似た訓練所生活をこの場所で過ごしていたに違いありません。
西本少年は結局満洲に渡れませんでしたが、その後の過酷な運命を知ると、満洲に渡れなかったことが不幸なことだったと言い切れるのか…、簡単には片づけられない気もします。
「満蒙開拓団」「青少年義勇軍」とは
ここでおさらい。
満蒙開拓団は、1931(昭和6)年の満洲事変後、貧困にあえぐ農民の救済などを目的に、全国から満洲に送り出された農業移民の集団を指します。
1936(昭和11)年には国策として500万人の移住が打ち出され、終戦までに全国から約27万人が満洲に渡りました。そして「満蒙開拓義勇軍」は、満洲の開拓と治安維持のために、14歳から18歳までの少年たちで組織されました。1938(昭和13)年から国が募集し、訓練を経て満洲に渡った少年は全国で8万6500人余りにのぼるとされます。満蒙開拓青少年義勇軍の編成を訴える建白書を出すなど、中心的な役割を果たしたのが農本主義者で内原訓練所所長も務めた加藤完治(1884〜1967)でした。
「内原郷土史義勇軍資料館」は戦友会に似た組織「拓友会」が建設を推進したこともあり、終戦後のソ連参戦やシベリア抑留、満蒙開拓団の数多の悲劇については、これまで殆ど触れてきませんが、今後は負の部分にも光を当てていきたいと関口慶久館長は話します。
資料館には訓練所の特徴的な円形の建物、「日輪兵舎」が復原・併設されていますが、一つの日輪兵舎で60人が生活をともにしていたといいます。同郷の少年たちで中隊を組織することが多かったようですが、時には幾つかの府県で混成もあったとか。
西本少年は優秀だったようで、早々に60人をまとめる「小隊長」として訓練の先頭に立っていました。
加藤完治と「日本農業実践学園」
内原訓練所跡は、現在、私立の専修学校「日本農業実践学園」が大部分を占め、農場実習を中心とした、農業の実践的教育を行っています。
そこには前身の「日本国民高等学校」の校長であり、青少年義勇軍内原訓練所の所長であった加藤完治(1884〜1967)の思想が、今も脈々と受け継がれています。
籾山旭太学園長(まだ43歳!)からいろいろ教えていただきましたが、農本主義者であった加藤完治について、讃美や功績に留まらず、さまざまな批判も受けとめて、客観的に学園の歴史を研究しようとしている学園長の姿勢に共感を抱きました。
加藤完治は、多くの生徒や卒業生に慕われ人格的にも優れていたといわれますが、それにしても道場をはじめ、あちこちに加藤完治の墨蹟や写真が掲げられているのをみると、彼に関しては、ある種の伝説化が生まれていたことが窺われます。しかし一方で、彼が推進した青少年義勇軍の悲劇もやはり見過ごすことは出来ないのです。
「内原訓練所之碑」「勇者地蔵」
内原訓練所は、1938(昭和13)年3月に開所しました。面積は39ヘクタール、39の中隊が収容できる大きさだったといいます。
「内原訓練所之碑」と「拓魂」の碑は、1975年に元訓練所正門近くに建てられましたが、さらにその傍らに1980年「勇者地蔵」が建てられました。
訓練所があったことを記念するのなら、満洲に渡って戻ることのなかった2万4,000人の慰霊も忘れてはならない…地蔵が建てられたのはそんな思いからだろうかとひとりごちました。
数奇な運命を辿った「日本公墓」「極楽世界」
水戸市内原町にある「本法寺別院」は、満洲で多くの犠牲を目の当たりにした住職が建てた満蒙開拓の慰霊を中心にした珍しい寺院です。
「拓魂」碑は1992年に建立されましたが、もうひとつ不思議な「極楽世界」の碑があります。実はこの「極楽世界」碑は、ふたつの碑を貼り合わせたもので、一枚はもともと「日本公墓」と刻まれていて、中国・ハルビンの墓園に建立されていました。
それは元義勇軍の人たちが、墓園の一角を購入して建てたものだったのですが、中国人の墓地にそぐわない等の理由で「極楽世界」と刻んだ碑が「日本公墓」の上に貼り付けられる形で建てられた…というのです。
ところがこの「極楽世界」の碑にもクレームがついたため、結局この碑は日本に運ばれ本法寺別院に2003年に建て替えられました。
…と、ここまでは今年5月に98歳で急逝した元義勇軍の末広一郎さんが書き残した文章をもとに書きました。
日中関係がいい時は中国側もいろいろ便宜を図ってくれたようなのですが、関係が悪化すると途端に慰霊の行為すら拒まれてしまう……戦争の犠牲になった人たちは、戦後もまだいろいろな感情に振り回されているともいえます。しかし問題は、ハルビンだけでなくまだ中国各地に同胞の遺骨が残されたまま放置されてきた、という点です。満洲開拓民を棄てた国は、今も数多くの遺骨を「放置」し続けているのです。
いよいよ「武具(ぶんく)池」へ
奈良県大和郡山市で偶然墓標と出会った「西本清蔵」少年。彼は16歳だった1944年4月3日、訓練中に命を落としますが、墓標と出会った半月後私はまさにその場所へのフィールドワークのお誘いを受けたのでした。
これはもう、西本少年から呼ばれたのだとしか思えませんでした。
いよいよ彼が作業中土砂崩れに巻き込まれた「武具(ぶんく)池」へ。
周辺の農地に水を送り出すための、池の堤の工事に携わっていた西本清蔵少年ら青少年義勇軍の内原訓練所の隊員たち6名が、崩れてきた土砂に巻き込まれ、4人は助かったものの奈良県出身のふたり、西本清蔵少年と谷村基洲(もとくに)少年が亡くなったのでした。武具池の大工事は、事故の2か月後に終わり、周辺の収穫量は一気に倍増したといいます。
池は静かに夏の日差しを反射していました。
蝉の声とアメンボと。
「来ましたよ」…と心のなかで私はそう西本少年に声をかけました。
そして「西本清蔵少年」と80年ぶりの再会…?
事故現場からほど近い場所に、亡くなったふたりの少年を偲ぶ「殉難碑」があります。いつもは草に覆われて気づきにくいそうですが、籾山学園長が事前に草を刈ってくれたということで心より感謝!
この碑についても元義勇軍の一員だった末広一郎さん(今年5月に98歳で逝去)が調べてくれていました。
碑の側面には何やら字が刻んであり、その下に「青少年義勇軍内原訓練所 農事課長 高橋祐治郎詠/義勇軍内原訓練所長 加藤完治書」とあることから、歌が刻まれているようなのですが、風化していて殆ど読みとれません。
ただ末広さんの資料によると、ここに刻んであるのは
「武具池の堤塘まもる ふたはしら 永久にいのらむ里の栄を」――。
この碑は事故から7年後の1951(昭和26)年に、周辺の村の耕地整理組合が建てたものなので、青少年義勇軍の少年たちの悲劇は当時かなり広く知られていたのだろうと推察できます。
西本少年は、忘れないで欲しいという一念で奈良県の共同墓地で私を呼び止めたのか。
それとも自分も含む満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇を、もう一度思い出して欲しいと願ったのか…。
その真意はわかりませんが、西本少年との出会いがきっかけで、義勇軍をめぐる「忘れてはいけない」物語を突きつけられた思いがしています…。
青少年義勇軍内原訓練所農事課長だった高橋祐治郎が詠んだ歌を、内原訓練所長の加藤完治が書いた。
武具池の堤塘まもる ふたはしら 永久にいのらむ里の栄を
◆西本少年との出会いのきっかけ、奈良でのフィールドワークを企画した會田陽介さんは、私の話を聞いて早速翌21日、西本少年のお墓参りに行ってくれたそうです。ありがとうございました!
◆いつもながら今回も竹内良男さんに大変お世話になりました。資料館の関口慶久館長、日本農業実践学園の籾山旭太学園長、細井博充さん、その他、一緒に旅した皆さん、ありがとうございました!
〇大牟田聡(おおむたさとる)
1963年広島生まれの広島育ち。毎日放送(MBS)で長く記者、プロデューサーとして働き、現在監査役。仕事を離れ、近現代史をたどるフィールドワークに足を運ぶ無類の映画好き。
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