スタンドバイミー@水道筋「あの頃ぼくらはアホでした」⑩ 安富信

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さよなら稗田小学校 みんなで涙の丸坊主

 水道筋3丁目の交差点から南へ300mに母親の実家「高橋米穀店」がある。祖父の故高橋伊太郎が8歳の時、播州地方から丁稚奉公に出て来て、30歳そこそこで独立して店を構えた、という。最初は、灘区のもう少し六甲道寄り、将軍通りという所だった、とおカンは言っていた。今の灘消防署の斜め向かいぐらいだ。
 因みに、やっさんが生まれたのは、そこから200mほど北にあった「安富酒店」だ。どうやら、父と母は酒屋と米屋の”政略結婚”だったようだ。登録制度の中で、”免許”が無ければどちらも開業出来ない業種。安富米穀店は1歳の時に潰れた。おカンは色々言っていたが、要は親父の飲み過ぎと経営下手が原因のようだ。それから、親父はおカンの実家の高橋米穀店を手伝うようになった。手伝いと言っても当時、昭和30年代の初めは丁稚奉公のようなものだった。嫁の実家で働くって、嫌だったろうね。数年後、親父はスーパーダイエーの前身、大阪の千林駅前にあった「主婦の店ダイエー薬局」に勤め始める。

左上から①現在の高橋米穀店 ②昭和30年代の高橋米穀店前で、前列がおじさんと父、後列右から祖母と祖父
③正月に親戚一堂が集まった(右端が母・和子) ④祖父・伊太郎と
⑤祖母・やす乃と ⑥父・脩と


 前置きが長くなったが、要は「米屋の孫」だった。伊太郎と祖母やす乃は3女1男をもうけ、孫は9人。長女の長男であるやっさんは「孫頭」だ。正月にはおカンと親父、おじさん、おばさん、孫のほとんどが米屋に集まり、飲んで、食べた。当時の米屋は年末に餅販売もしていた。猫の手も借りたい忙しさだったようで小学高学年になると、祖父とおじさんを手伝って餅を配達した。高橋米穀店は年末3日間で10万円以上稼いだものだ。
 小学校6年だったかな? 事件が起きた。自転車で集金した1万円。店に帰って財布を出そうとしたがない。落とした。おカンも手伝いに来ていて大騒ぎになった。3日間の売り上げの10分の1だ。祖父が冷静に言った。「交番に聞いて来なさい」。水道筋4丁目に今もある「水道筋交番」に駆け込んだ。あった!良かった! 数年間は年末が来るたびに、笑い話になった。

  水道筋交番        米穀通帳(イメージ)

 今だから言えるが、やっさんは密かに”罪”を犯していた。それは、当時の米屋には「米穀通帳」というお得意先の個人情報満載の書類が保管されていた。戸主や家族構成などが記されている。好きな女子の家もお得意先だった。夜中に店の机から引っ張り出して見ていた。ごめんなさい。
 水道筋界隈の春夏秋冬、色々あった。春になると、稗田小学校は1年から6年までの全校児童1000人以上が王子動物園に写生大会に行く。毎年のことだから悪ガキたちは、まともに絵を描かない。前の年の作品を提出したこともある。

写生大会が開かれた神戸市立王子動物園

 梅雨時になると、当時はシトシトと雨が降り続いた。外で遊べないから、小さな庭にあったアジサイの葉っぱに這うカタツムリと遊んだ。夏はプール三昧。神ノ木児童公園であった8月15日の盆踊りが済むと、24日夜は子どもたちが待ち侘びた地蔵盆。町内のあちこちにあったお地蔵さんに提灯が灯られ、長椅子が並び、お年寄りたちが揃う。子どもたちが来ると、お菓子やジュースがもらえた。いっぱいもらうために、いくつもの地蔵を回る。楽しい楽しい夜だったが、地蔵盆は夏の終わりを告げるイベント。この後、地獄の夏休みの宿題が待っていた。しかし、要領の良いやっさんは、ほとんど済ませていた。

左上から ①水道筋1丁目近くのお地蔵さん ②楽しかった伊勢志摩への修学旅行 ③蒸気機関車に乗った ④枕投げして眠らなかった

 6年の秋は、伊勢志摩に修学旅行に行った。途中、奈良県のどこかの駅で蒸気機関車に乗り換えた。昭和40年代前半、既に蒸気機関車は珍しかった。みんな興奮した。トンネルに入ると、誰かが「窓を閉めろ」と叫んだ。旅館のお風呂には、クラス全男子20人以上で入った。お年頃、性器に毛が生えている男子が偉かった。やっさんは、まだだった。大広間でワァワァ言いながら夕食を摂り、後は寝るだけだが、当然のように、枕投げで大騒ぎ。先生に何度も叱られてやっと就寝。朝早く起きて夫婦岩を見たことしか覚えていない。
 昭和30年代から40年代の神戸の下町には、何故か空き地かあちこちにあり、土管や訳の分からないモノがたくさん転がっていた。小学校近くの空き地にはヘビやムカデのリアルゴムおもちゃがあり、持ち帰ったら、おカンに怒られた。素佐男神社の近くにあった豪邸は無人で「幽霊屋敷」と呼ばれていた。何度も「探検」に入ったが、とっても怖かった。小学校の校庭で公開の殴り合い事件が年に数回あった。やっさんも一度だけやった記憶があるが、メイン対決は下坂君vs.榎本君だった。下坂君は無茶苦茶喧嘩が強かったので友だちになった。
 そして、楽しい小学校生活も終わりを迎えた。ほとんどの子が行く中学校は原田中学で阪神電車大石駅の北側にある。稗田小学校と同じくらいの距離だったが、当時の国鉄線(JR)のトンネルをくぐって海側に10数分、西灘小学校の子たちと一緒になる。
 最も嫌だったのが、丸坊主にすることだった。当時、神戸市立中学校の男子生徒は全員丸坊主にしなければならなかった。悲しい。小学校の卒業式が終わってから、中学の入学式までの間に散髪しなければならない。例の5人組で一緒に丸坊主にしに行った。場所もよく覚えている。M木さんの銭湯があったところの跡地だった。「灘理容」というちょいと量販店的な一度に5、6人が髪を切れる店で一斉に丸坊主になった。悲しかったが、ちょっと大人になった気がした。(おわり)

 追伸。この連載を書くために、水道筋商店街に何度も取材に行った。無くなってしまった店や、最近出来たお洒落な店もある。知らなかったことが多くあった。下記の写真で追加しておく。

 左上から①現在の中央市場マップ ②知らなかったことを記しておこうという試みがあちこちに
③市場の歌があったんや! ④最近出来たフレンチ居酒屋 ⑤正宗屋は店仕舞いした


 

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