能登では冬から春にかけて海藻が食卓をいろどる。その多様さは全国でも1、2位を争い、約30種類を食べている。山菜も約100種を口にする。魚介類にくらべべて地味なイメージだった里海と里山の「草」が健康ブームもあって見直されつつある。(年齢は2012年現在)
収入源の海苔をもたらす「日本海銀行」
珠洲市仁江町の皆戸昭利さん(71)と洋子さん(69)夫妻の家を訪ねると、居間にはコナ(カヤモノリ)という海藻でつくったノリがつみかさなり、部屋中に磯の香りが満ちていた。
冬、頬に紫のしもやけをつくりながら「米粒をひろうように」、磯で摘みとって水で洗い、型枠で水を切って簾の上にのせる。風が吹き抜ける縁の下でひと晩乾燥させ、1枚あたり5分かけてはさみで小石などをとりのぞく。10枚1500円(イワノリは3000円)で売れるという。
輪島市と珠洲市の境の「八世乃洞門(はせのどうもん)」が1963年に開通するまで、仁江は珠洲中心部からのバスの終点で、輪島側に抜けるには山道を歩くしかなかった。皆戸さんの家は3反(30アール)の田をつくり、伝馬船で漁をいとなんできたが、海が荒れる冬場は魚も野菜もとれない。コンカイワシ(イワシの米糠漬け)をダイコンと煮たり、乾燥や塩漬けにした山菜が中心の食事だから、海藻は貴重なビタミン源だった。
乾燥した海藻は、女性が背負って内陸の集落で売りあるいた。とくに正月の雑煮に欠かせないイワノリ(ウップルルイノリ)は12月中は生で、1月以降はノリに加工して売る貴重な現金収入源だった。「千畳敷」と呼ばれる磯で、手袋が高価だった時代は、かじかんで感覚をうしなった手を岩にたたきつけながら摘んだ。家にもどって食器を洗おうとすると、傷ついた手はカミソリで切られたようにいたんだ。
昭利さんは珠洲市中心部の会社に勤めていたが、洋子さんは息子3人をかかえて、働きにでられない。イワノリが2月に終わると収入源がないため、家で食べるだけだったコナを、イワノリ用の型枠や簾をつかってノリに加工することにした。イワノリにくらべれば風味が落ち値が安いから「そげなもん、お金にしようとして!」と笑われたが、まちでは飛ぶように売れた。
コナを1枚1枚、簾に張って「1枚○円だ」と言うと、3人の息子は真剣な表情で枚数をかぞえ、「母ちゃんがもうけたら、ぼくたちはうまいもんがあたる!」と作業を手伝った。
「子どもに食わしてやりてぇって一心だった。人間というのは困るとそれなりに考えて知恵がでてくるんもんだにゃあ」と洋子さん。
いま、イワノリなどの海藻の売り上げは年間100万円ほど。
「年金だけだったら孫にお年玉もやられん。お年玉をやる時分にちょうどイワノリがあるし、入学や卒業のときにお祝いやれるさかい、助かるがです」
必要なときに現金をもたらしてくれる海を「日本海銀行」とよぶ。
仁江も年々高齢化が進み、約30軒のうち今も海藻を採取しているのは6、7軒になった。
「手間もかかるし、厚さを均一にするのも大変だし、今の人はまねできんだろうね。私らの世代で終わりやね」
昭利さんは話す。
30種の海藻が食卓に
日本海に面した能登半島の外浦は、冬は海が荒れて漁にでられず、畑は雪に埋もれるため海藻を食べる文化がそだった。
のと海洋ふれあいセンターの池森貴彦専門員(45)は1997年のナホトカ号の重油流出事故を機に県内の岩礁の動植物の調査をはじめた。能登半島の季節ごとの海藻量も計測してきた。
海藻は秋に芽吹いて冬に成長し、春先には全長10メートルにものびてジャングルのようにおいしげる。5月の連休が終わると一気に枯れてながれ、夏は陸上の冬枯れのようになってしまう。
調査の結果、能登の海にはホンダワラ類を中心に約200種の海藻が確認された。単一の草が密集する太平洋岸と異なり、雑木林のように雑多な種類が混生していることもわかった。
全国的に磯焼で藻場が激減し、能登でも面積あたりの海藻量は1975年から半減した。それでも全国トップレベルだという。
「北はキタムラサキウニ、南はアイゴという魚の害がある。能登はその中間にあって被害が少ない。さらに、きれいな海でそだった海藻は環境の変化にたえる力をもっているのでは」と池森さんは推測する。
200種類のうちどれだけ食用にしているのだろう? 珠洲市仁江町の皆戸昭利さんに1年間で食べる海藻をあげてもらうと、ウミゾウメン、ギンバサ、カジメ、ノリハバ、アオサ……、たちどころに12種類あがった。池森さんによると、能登半島全体で約30種にのぼり、「伊勢志摩とならぶ海藻文化」という。
日本一の能登の海藻だが、地元では長らく、粕汁やみそ汁に入れる「あたりまえの食材」でしかなかった。
珠洲市真浦町の「庄屋の館」は20年ほど前、冬場のメニューとして海藻の活用を思いついた。家で食べる粕汁をヒントに、酒粕をトッピングした独自の「海藻しゃぶしゃぶ」を考案した。
酒粕入りだし汁に海藻をくぐらせると、鮮やかな緑に変化し、鮮烈な香りを発する。磯の香が舌にとろけるアオサ、メカブのようにぬるぬるしたダイズル(アカモク)、気泡がプチプチとつぶれるギバサ(ホンダワラ)……。冷凍保存することで、1年中6種類の味を提供できるように工夫した。いまや「海藻しゃぶしゃぶ」は珠洲市内の飲食店や旅館の冬の定番メニューになっている。
「海藻でも山菜でも能登は金沢などよりはるかに食材が豊富です。でも高齢化で漁師が減り10年後が心配。世界農業遺産で海藻が見直され、漁師の生活がなりたつようになってほしい」
和田丈太郎料理長(39)は期待する。
珠洲市中心部では2012年冬、「海藻」を主役にしたイベントがはじめてひらかれた。金沢市での出張イベントで、海藻が想像以上にめずらしがられたのがきっかけだった。「海藻祭り」では海藻の粕汁をふるまい、「海藻おしば」教室をもよおした。「奥能登B級グルメ選手権」で海藻をつかった料理をつのると11品が集まり、牛すじと海藻を具にした「荒磯牛すじラーメン」がグランプリを獲得した。
「海藻は魚介類のようなインパクトはないが、ほかと組み合わせると存在感を発揮する名脇役です」と市の担当者は話す。
山菜100種を利用
能登は山菜王国でもある。
広々とした草原と雑木林が広がる穴水町旭ケ丘の丘陵は、昭和40年代の国営農地開発で開拓された。ススキがおいしげる土地がめだち、ガラス窓がわれクモの巣がはった廃屋もある。同事業による町内の開拓地500ヘクタールの半分は利用されていないという。
そんな一角に2010年春、3つの観光ワラビ園がオープンした。雑草を刈りはらった斜面に薄紅色のワラビが芽吹き、6月末まで1キロ1000円で収穫できる。
岩谷秀二さん(75)は20歳で入植し、2・2ヘクタールの農地で葉たばこやコメをつくってきたが、8年前に葉たばこをやめてワラビ(1・1ヘクタール)とウド(0・2ヘクタール)にきりかえた。山で自生するワラビの根を畑に植え、3年間試行錯誤して出荷にこぎつけた。4年前からはワラビの苗を近隣の農家に販売している。
「若い時みたいにきつい畑仕事はできん。ワラビは虫がつかんから農薬はいらん。手がかからんからたすかります」と話す。
岩谷さん宅の隣では、東京の物流機器メーカーが2008年に設立した「三栄農工」が、荒れていた17ヘクタールの農地で野菜づくりを手がけ、ワラビの観光農園もひらいた。今年(2012年)4月、民家を改装した農産物加工場も完成し、能登の海洋深層水をつかった塩漬けワラビの生産をはじめた。
「周囲の農家からも仕入れ、『能登』にこだわって付加価値の高い商品を生み出したい」
元役場職員で現地責任者の近藤充夫さん(68)は意気込む。
2010年の石川県の調査によると能登の人々は約100種の山菜を利用していた。金沢などの飲食店が「ほしい山菜」にあげたのは39品目にのぼった。
「能登の山菜文化は想像以上に豊か。こだわり食材や旬をもとめる飲食店が増えており、能登の山菜はまだまだ伸びしろがある」
中出吉彦・県奥能登農林総合事務所農業振興課長は話す。
穴水町大町の谷口藤子さん(80)は50年前から県内の山の植物観察をつづけ、能登に生える200種類の山菜を試食してきた。谷口さんによると、穴水ではワラビやミズブキを糠に漬けて冠婚葬祭の煮しめ料理などにつかっていたが、コゴミやカンゾウ、コシアブラを食べるようになったのはここ数年だ。山菜を商売にする農家も少なく、富山県などの業者がマイクロバスでのりつけて大量に採取してきた。
「四国の山ではイタドリやシイタケで祭りのすしをつくるが、穴水は魚が豊富だから山菜にこだわる必要がなかった。最近やっとお金になることがわかり、山菜の価値にめざめてきたようです」と谷口さんは説明する。
能登の里山里海は世界農業遺産になったが、穴水には千枚田のような観光資源がない。そこで町は「山菜」に目をつけた。林野庁の外郭団体に働きかけて2011年、「山菜アドバイザー」の研修会をひらいた。町民のアドバイザー10人(県内は22人)が誕生し全国一の人数になった。
「山菜は自然環境や農地の保全につながり、高齢化した農家の収入源にもなる。世界農業遺産の理念にぴったりです」
宮下謙二・町産業振興課長は胸を張った。
山崩れ9人犠牲に 仁江を再訪
海藻の取材をした珠洲市仁江町は、能登半島地震で山が崩落し、直下にあった民家で正月をすごしていた9人が亡くなった。
2024年2月、海沿いの国道249号は寸断されているから、山のなかの小道をたどって日本海側にでた。「道の駅すず塩田村」にも、国の重要無形民俗文化財に指定された角花家の塩田にも人影がない。地震による隆起で海岸線は100メートルちかく後退している。これでは塩田に海水をくみあげるのは大変だろう。
角花さんの塩田から西へ約300メートルあるくと、緑の山と日本海の岩礁海岸にはさまれた仁江の集落だ。崩落した山は尾根からふもとまで茶色い地肌をさらしている。
波音にまざって、冷たい風がビュービューとうなりをあげる。その音は、大地の泣き声のようだった。
長期避難の仁江、集会所に泊まり畑づくり
3カ月後の5月なかば、仁江を再訪した。
途中の塩田の小屋からは海水を煮つめる煙があがっている。角花さんの塩田も整地されている。なんとか復活できるようだ。
仁江地区は全23世帯が被災者生活再建支援法にもとづく「長期避難世帯」に認定され、土砂災害の対策工事が終わるまで2、3年は集落にすめないことになった。
集会所にいた南仁(ひとし)さん(64)に皆戸さんの消息をたずねると、地震までは自宅にいたが、今は夫婦とも施設にはっているという。
まもなく、目つきがするどいスキンヘッドの男がやって来た。
「こいつは仁江の反社会勢力や」
南さんがそう評したのは浦幸栄(こうえい)さん(58)。地震後に白山市にたてた家からかよってきている。
この日は3人が集会所に泊まり、家をかたづけたり、芋を植えたり、ワカメをとったりしている。
集会所で2人の話をきいた。
暗闇のがれきで赤ちゃんを抱きあげた
2024年元日の午後4時すぎ、地震後に外にでて海を見ると、一気に水がひき、海底が沖まであらわになっていった。
「でっかい津波がくるぞ」
住民たちは一目散に高台の避難場所に逃げた。その途中、山が大きく崩れて民家をおしつぶしているのが見えた。
その家はふだんは4人暮らしだが、親族8人が帰省していた。警察官の男性は最初の地震がおきて仕事にいくために屋外にでた。直後に本震がおそい、彼の目の前で11人が生き埋めになった。
現場にかけつけた若者たちは「なにをしていいかわからん……」とたちつくした。
「なにやっとるんや! 屋根の瓦を全部はがせ!」
浦さんはさけび、つぶれた屋根によじのぼった。若者たちも瓦をはがして、板をめくるが、そこで動きがとまる。
「いつまで板をもってるつもりや! こうするんや!」
浦さんは怒鳴って、足でバキバキと板を踏み割っていく。
ヘルメットがないからニット帽をかぶり、屋根上にあいた穴から、真っ暗な家のなかにとびこんだ。がれきの下からきこえる声をたよりに捜索する。
断続的に余震がつづく。
「ただいまぁ、震度5の地震が発生しました……気をつけてください」
のんびりした調子で防災無線がひびく。
「声をたよりにさがしてるのに。やかましい、だまれや!」
がれきの外にいる4歳上の先輩は余震のたびに「おーい、揺れるぞ、でかいぞ」「気をつけろ」と声をかけてくれた。
浦さんは最初にみつけた男性をだきあげたが、意識はなく唇は紫色になっていた。
まだ下から声がきこえる。
電灯をがれきのなかにいれて、グルリとまわす。
「この光が見えたら声をだせ!」
「見えた!」
声がした方向をさがす。
午後8時すぎ、浦さんは倒壊した家の真っ暗な空間で生後2カ月の赤ちゃんを抱きあげた。
「この子をはじめて抱っこするのががれきのなかかぁー」
いっしょに救出された父親はあとで浦さんに言った。
「(余震が)かなりでかいぞ、って声がきこえて、みんな逃げるんやと思った。なのにオーイと声がした。……津波警報がでて、もう流されて死ぬんやって思ったら、幸栄(こうえい)の声がきこえたんや」
翌1月2日午前11時すぎには家の主人の中谷六男さん(88歳)が救出された。
「ありがとうな、ありがとうな」
手をあわせる六男さんに浦さんはこたえた。
「元気になってから言え!」
だが六男さんは自衛隊のヘリで搬送中に亡くなった。
3日の晩まで集落の人たちだけで捜索し。4日以降は自衛隊にひきついだ。9人が亡くなった。
元日の晩、輪島市方面があかるかった。
「ここは停電やのに、なんで輪島は電気ついとるんや」と思った。まるでプラネタリウムのような、見たことがないほど美しい星空だった。なのに、がれきのなかでのことは断片的にしかおぼえていない。
「一番おぼえているはずのことをおぼえてない。人間は本当につらいことは忘れるんかなぁ」
アワビ食べ放題の避難生活
元日の夜の捜索後、浦さんは若者たちに「みんなを集会所にあつめろ」と命じた。70人ほどがつめかけて集会所はいっぱいになった。
安否を確認するため、まず名簿をつくった。中学教諭をしている南さんの息子が住民のLINEグループ「仁江町LINE集会所」をつくりスマホがない高齢者は子どもの番号を登録した。これがバラバラに避難したあとの住民のつながりをたもつ手段になった。
3日の晩までは50人ほどが寝泊まりしていた。
当初は湧き水を焼酎のペットボトルでくんできたが、それではたりず、「道の駅すず塩田村」にあった20リットルのポリタンクをもってきて、炊事や便所につかった。
捜索を自衛隊にひきついだあとは、昼間は自宅の片付けなどの作業をする。
隆起した海岸ではサザエやアワビがとり放題だ。南さんは日ごろから素潜りをしていたから、アワビのいる場所を知っている。岩にはりついたアワビを毎日50個から100個もとった。
アワビごはんやサザエごはんがつづくと、調理する女性たちの表情はしだいにけわしくなり、「殻をとって身だけだせ!」と言う。それでもとりつづけると
「もうとってくんな。見たくもない!」
なのに男たちは海にいくと、ついついバケツいっぱいとってしまう。
「母ちゃんたちにみっかんなよ。おこられっさかい」
女性の目をぬすんで、夜中に薪ストーブのまわりにあつまり、鍋で煮たり壺焼きにしたりして酒をのんだ。
1月9日、土砂災害の危険があるため、集会所にいた20人余りは大谷小中学校へ避難した。20日すぎには親類の家や富山などのホテルに二次避難した。
24時間つづく酒盛り、飲むとけんか
仁江は半農半漁のムラだ。春はワカメがおいしい。6月になるとサザエやアワビの素潜りだ。山では、フキやウド、ワラビなどの山菜がとれる。過疎の奥能登ではめずらしく、子どもの数も多かった。
「当時30軒しかなかったのに、オレは同級生が6人もおった。仁江は豊かでいいところげんて」と南さん。
昔から男たちはことあるごとに酒宴をひらいてきた。10月の秋祭りには子や孫も帰省してキリコをかつぐ。まずは神社の正面にある南さん宅でのみ、次は隣家にうつり、さらに別の家へいき……「朝まで」どころか翌日の晩まで飲みつづける。
けんかっぱやいのも仁江の特徴だ。集落の会合や祭りで飲むと、2回に1回はとっくみあいになる。でも翌朝は目のまわりを腫らしながら「おはよー」とあいさつをかわす。
輪島市の海士地区の漁師は気性の荒さで知られ、輪島にやくざが少ないのは海士の漁師がいるからだ、ともいわれている。その海士の漁師が仁江の秋祭りをひやかしにきて、しばしば大げんかになった。
「わしら、海士なんてこわないわ。いつもどつきあいしとった、なぁ! 反社会!」
南さんが浦さんの肩をバシンとたたいた。
集会所を「家」に 簡易水道を手作り
二次避難で住民はバラバラになってしまったが、多くの人たちが「水道さえくれば帰れるのに」と口にしていた。地元に恩返しをするため、浦さんは自費で井戸を掘ろうと思いたった。市役所は「試験掘りをする」と約束してくれた。だが、その約束ははたされず、井戸計画は頓挫した。
せめて集会所を快適につかえるようにしたい。20リットルのポリタンクでトイレの水をはこぶのはめんどうだ。
50メートル先の側溝からホースで水を引き、集会所前に設置した500リットルの水タンクにためる。その上においた200リットルのタンクまでポンプで水をあげ、トイレや台所に水を供給できるようにした。6月にはボランティアが浄水器をつけてくれることになった。
「家にすめないんだから集会所がみんなの家や。今ここでできることをひとつずつやっていく。集会所ですめるがにすれば、みんな帰ってこれる。ここに泊まって酒をのめば、祭りをやるかって気になれるかもしれんしね」
地元の人はあたたかい
浦さんは、亡くなった中谷さん一家の遠縁にあたり、家族同然のつきあいをしていた。六男さんは浦さんを息子のようにかわいがってくれた。
小学生のときからサザエ網の漁を手伝い、中学生になると朝5時から定置網の作業をして、カワハギの皮をむいた。ワカメの雌株やサザエがおやつだった。
「おれといっしょに漁師をせーっ」と六男さん。
「イヤじゃ」
「漁師がいやなら学校いけー」
「勉強なんてイヤじゃ! 学校って(名前が)つけばどこでもええんか?」
「どこでもええ」
「そんなら自動車学校行くわ!」……
そんなやりとりを今も鮮明に思いだすという。
元日の夜、危険ながれきのなかに浦さんはまっさきに飛びこんだ。ニット帽をかぶった頭は傷だらけになっていた。
「おまえはよーやったな」と集落の人たちは言ってくれる。
「そうじゃない。たまたまそこにいたなかでオレが一番ジジーやし、半分人生終わってっからやっただけや。地元の人はあったかい。みんなが手伝ってくれた。ほんとにみんなのおかげやわ……」
「それにオレが死んだって、うちの母ちゃんが喜ぶだけやしな」
南さんは隣で笑いながら大きくうなずいた。
「そこだけうなずくなっ!」
スキンヘッドの浦さんは吠えた。
コメント