なにも知らなかった「南の島」
新聞記者を長いことやっていると、厚かましさを随分、身に纏う。その反面、取材をしていて新しいことが知れると、嬉しくて嬉しくて。そんなことを思いながら生きて来たが、当たり前のことだが、人生結構長く生きて来たのに、知らないことが多過ぎる。なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが。今回も番外編で行きます! 題して「南の島で知らなかったことを知る」。
つい先日、奄美大島に取材でお邪魔した。まだ、取材してるの? と言われるかもしれませんが、やってます。だって「生涯一記者」だから! 偉そうなことを言いましたが、要するに元新聞やテレビの記者と現役の記者たちでつくる「社境なき記者団」という不思議なグループに入らされている。総務省消防庁がその記者団に委託して、単年度ごとの災害事例をまとめて冊子にしている。その事業に協力しているという訳だ。
深夜の津波警報、数千人が避難
奄美大島で何か災害あった? と思われる方がほとんどでしょう。そうなんです。ほとんどの方が忘れている一瞬のような、そんなことあるの? という災害が昨年(2022)1月16日、日曜日の未明というか、日付けが変わる前後に起きた。
それは、8000㌔離れたトンガ諸島で起きた噴火が原因で、10時間以上経って津波が日本列島に来た。津波警報が出たのが16日午前0時15分。奄美大島と岩手県の一部にだけ発令された。jアラートと連動して多くの住民に知らせが届くとともに、NHKや民放各局が避難を呼びかけた。0時18分には奄美市全域に避難指示が出た。
「皆さん、東北の地震の際の津波を思い出してください。逃げてください」と何度もテレビで呼びかけられた、島民の多くが真っ暗な中、高台や高い建物、市役所などに逃げた。その教訓を伝え残そうと安田壮平・奄美市長(43)に1時間半ほどインタビューさせていただき、その後、同市防災対策監の龍和隆さんに市内を案内してもらい。車で避難して大渋滞が起きたことや、市役所に数百人が避難して、ロビーや会議室が一杯になったことを聞いた。
4万人に避難指示が出て、はっきりとした数字はわからないが、数千人が徒歩や車で避難したと推測されている。この「逃げた」という事実は非常に重く、大切なことだ。実は潮位の変化は、市役所のある街中から20㌔以上離れた小湊という漁港で1.2mあり、それも警報発令の20分以上も前だった。島内に被害はなく、徒歩で逃げたお年寄り女性が足を挫いて怪我をしたくらいだった。
空振りおそれず素早い避難指示
なんだ、それくらいの被害でわざわざ南の島まで取材に行く必要あるの? と言われそうだが、これが意外に大きな意味がある。何故なら、日本では大雨や津波で避難指示が出ても、ほとんどの人が逃げない。アメリカではハリケーンの襲来に備えて300万人に避難指示を出すと実に500万人が逃げるという。しかし、日本では数%しか逃げない。だから、1年前の奄美大島での避難は極めて重要な事例になる。
市長との面談と島内を取材して少しだけわかったことは、やはり、津波に対する恐怖心、12年前の東北の大地震による大津波の恐怖を住民が思い出したから?と。NHKなどの呼びかけも非常に効果があったのかな?と。奄美市も空振りを恐れずに素早い避難指示を出したことも評価される。まあ、その分析と検証は、新年度に発行される消防庁の災害事例集を待つとしよう。
知らなかった「復帰70年」
今回のメインは、これからだ。南の島で知らなかったこととは?
皆さんは、奄美諸島が太平洋戦争の敗戦直後から米軍の占領下にあり、昭和28年(1963)に日本に返還され、今年で復帰70年になるのをご存知でしたか? そんなの常識やん!と言われる人は立派です。沖縄のことは知っていても、意外に奄美のことは知らないのやないですか? 筆者も恥ずかしながら知らなかった。今回、生まれて初めて奄美を訪れ、旧知の方に会って教えられた。
その方は、島内で「あまみエフエム・ディ!ウェイブ」の代表理事・麓憲吾さん(51)。平成22年(2010)秋の豪雨災害で、市当局に協力して住民に災害情報を流した事例を翌年1月に、神戸の人と防災未来センターに来られて報告された。その夜、懇親会で一度だけお話しした方だ。今回、奄美大島に行くと決まり、麓さんのことを思い出した。図々しく、再会を約束した次第だ。これが冒頭に書いた新聞記者の厚かましさという訳だ。そして、市長インタビューの後の夜、島料理を満喫しながら、麓さんの話す奄美の歴史の様々を聞いたのだ。
一文字の姓は差別の跡
例えば、島には一文字姓の人が多い。麓さん、龍さん、豊さん、、、この日会った人で3人。何故か? 旧薩摩藩の政策で、本土の人間より島の人間を見下すことだった。安田市長も元々は安一文字姓だったとか。奄美は、本土とも沖縄とも違う文化と歴史を持っている。そして、今年が本土復帰70年だった。
筆者が生まれ育った神戸の東地区にも、奄美から移住した多くの友人がいた。阪神工業地帯がある尼崎や東神戸には、鉄鋼や造船工場が林立し、そこで働くために島から来た人たちだ。友人たちはその子息娘だった。神戸の親たちは、そんな人たちを差別していた。筆者らも多分に差別意識を持っていただろう。そんなことも思い出させる夜だった。
翌日、麓さんたちに勧められた奄美博物館に立ち寄った。当然のことだが、島には長い歴史と文化の積み重ねがあることを確認した。やっぱ、現地に来ないと知らないことがいっぱいある。人生、まだまだ勉強かな? そんなことを実感した南の島の旅だった。またもや、モラトリアムをやってしまった。(つづく)
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