大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」51(社会部編25) 安富信

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さあ、いよいよ「黒 安富歴史」の始まりだ。と言ってもやはり、ワクワクして書けるものではない。また、少し筆が止まった。

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懐かしの「珉珉」で先輩記者と昼飲み

で、話を変えるが(これをモラトリアムというのかな?)、先日、捜査一課担の先輩で後に地方部でもデスクの先輩として随分、お世話になった田山一郎さん(69)がLINEに突然、和歌山から出てきて読売新聞大阪本社近くの居酒屋に来ている、と書いた。地方部デスク時代によく行った「ひげ」という店だが、筆者はそんなに思い入れはない。ついでに言えば、社会部遊軍や本社でデスクなぞをしていると、会社近くの居酒屋に入り浸りになる。泊まり勤務や宿直明けなんかによく近くの店に行くからだ。筆者は「柿右衛門」という鰻の白焼きの美味しい店によく行ったものだ。

夜にLINEが来たので、「誘ってくれたら、行ったのに」と書くと、「急に思い出して。たまらなくなって」と返事が来た。どうやら、食べたくなったのは、写真の汁のようだ。名前を忘れたので田山さんに聞いてみた。「鴨すい」だそうだ。別の人は「血合いの竜田揚げ」も美味しかったとか? あまり覚えていない。で、その夜は大阪府内の別宅に泊まると言うので、翌日、田山さんと昼飲みをご一緒した。午前11時開店を待ってお初天神通り脇の「珉珉」に入った。隣にあった呉春を飲ませる懐かしい店はなくなっていて、みたらし団子で有名な十三に本店がある酒饅頭の店も改装中だった。「夜回りにここの饅頭よく持って行ったなあ」と田山さんは懐かしむが、筆者は持って行ったことがない。

㊧田山さんが急に食べたくなった「鴨すい」㊨お初天神通りの「珉珉」

記者時代の悪夢はトラウマ?

昔、「しょんべん横丁」と呼ばれた通りに面してあった曽根崎小学校跡は立派なマンションが建ち、うめだ花月跡に出来た西村珈琲に入り、しばらく時間を潰した。田山さんが言った。「最近、記者時代の夢をよく見るんやわ」。その時は「ふーん」と聞き流していたが、気になって再度LINEで「どんな夢を見るんですか」と聞き直したら、「とにかく、上手くいかない話ばかりで、夢から逃れたくて意識的に目を覚ますから、具体的な内容はよくわからないよ。事件だったり、震災の現場みたいだったり、チーム取材のキャップで責任を負っている立場が多いね。再度眠ったら、今度は野球のピッチャーをしてて、バッターを次々三振に打ち取って拍手喝采、なんてこともある」と返ってきた。そう言えば、社内対抗野球大会で、社会部の頃の田山さんは、地方部にいた若手の記者(元関西の大学リーグで投げていたFさん)に対して、「ホームラン打ったるわ!」とバットを高々と差し上げたが、あえなく三球三振したっけ!

㊧昔の「しょんべん横丁」も小ぎれいになったなあ ㊨うめだ花月跡の西村珈琲

 
確か、一課担を一緒にやっていた4期下の永田広道さんも現役時代、しょっちゅうグリコ森永事件で抜かれた夢を見ると言ってたっけ。筆者が今でもよく見る夢は、これもやはり記者時代なのだが、不思議に何かの事件や取材チームに遅れて行き、上手く取材班に溶け込めずにいると、いつも先輩のUさんに叱られている場面。よほど、Uさんにトラウマがあるのだろうか? やはり、みんな記者時代の悪夢をよく見るのだな、心に傷が残っているのかな?

紅花産地・谷地の「ひなまつり」会心の紀行文

で、記者になって最も傷ついた時代が、今から書く第2期京都時代だ。その前に、6年間の第1期社会部時代の最後に行った「紀行文」について書く。ある意味思い出深い取材だった。1つは既に書いたが、捜査一課担の終盤に行かせてもらった対馬で、紀行文を軽く見ていた筆者は酷い記事を書いて、大失敗をした。確か、8月に取材に行って9月頃に掲載されたものだと思い込んでいて、図書館で記事を探したが、見つからなかった。ひょっとして、あまりに酷い出来だから、載らなかった? なことはあるまい。
その半年後、リベンジの機会が巡って来た。前と同じ藤本次長が「どうや?行ってみるか?」とチャンスをくれたのだ。今度こそ!と入念な下調べをして出かけた。

今度の行き先は、山形県河北町谷地。紅花の産地で、江戸時代に、ここの紅を大量に携えて最上川を下り酒田の港から北前船で京都に行き、紅を売って大儲けをした商人が京の街にあった「享保雛」を買い込んで、古里への土産にしたという話を読み込んだ。月遅れの4月上旬に行われる谷地の「ひなまつり」。500年も前から毎月18もの市が立つという。旧暦3月2日がちょうど雛の節句に当たる。これだ!面白い。本当に今回は丁寧に事前取材を重ねた。行き先は、高さ25㎝以上の大きな享保雛を江戸時代から保存している鈴木家を選んだ。七段飾りのフルセットで高さが2m以上もあり、白壁の土蔵に保存されている。どうやって、永く伝わる雛を保存しているか? 嫁に来た鈴木玲子さん(当時66歳)の苦労話なども交えて、しっかり書けた。藤本次長も「合格」と言ってくれ、ガッツポーズだった。
今読んでもいい記事だ。(自画自賛!)

「すごい記者だったんですね!」過去形に傷つく

その紀行文の掲載日が平成4年(1992)2月28日の夕刊。つまり、翌3月1日付で筆者は京都総局に異動となった。今はどうか知らないが、当時は夕刊で掲載された記事は、特に紀行文などの連載物は翌日の統合版の朝刊に載った。京都総局は、北の丹後半島から南の山城地区まで統合版からセット版両方がある。だから、この「谷地の享保雛」の紀行文は、2月28日には筆者は「社会部 安富信記者」となっていたのが、翌3月1日には「京都総局 安富信記者」に変わった。入社2年目の女性記者は、そんな筆者の心の中も知らずに、赴任した直後、この記事を眼前に持ってきて、「安富さんってすごい記者だったんですね! こんな記事を書いていたなんて」。過去形なんや!嗚呼、白鳥は悲しからずや!だわ。
 追伸。社会部を出る記念に大阪府警詰めの警察記者証をサービスカットでお見せしよう! №が803というのは記者証発行の順番です。803人目の記者だす。微妙。(つづく)

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