太郎を魅了したのは「生きる」魂 ドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」(完全版)と「岡本太郎展」

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岡本太郎が撮った久高のろ 1959年11月24日撮影
 ©2022シンプルモンク/岡本太郎の沖縄製作委員会
目次

太郎がひかれた沖縄の魂を再現

 岡本太郎は芸術家ではあるけれど「画家」の枠にはおさまりきらない。
 画家ならば、自分の作品を大切にするのだけど、太郎は自分の作品を次々に上書きしていった。
「展覧会 岡本太郎」(大阪中之島美術館で開催中)では、いったい太郎はなにものだったのか? を紹介している。
 ピカソの影響をうけ、文化人類学者のマルセル・モースに師事した。
 抽象画の数々をのこしながら、青森の恐山や出雲大社といった日本の辺境の民俗を訪ね、最後にであったのが沖縄だった。
「沖縄で自分自身を再発見した」と語っていた。
 太郎は沖縄でいったいなにを見つけたのだろう?
 沖縄の経験を一冊につづった「沖縄文化論 忘れられた日本」と、太郎がのこした写真を手に、太郎の足跡をたどりなおしたのがこのドキュメンタリーだ。

イザイホー3日目の朝の「紅差さし」「花さし遊び」神人への合格を願う
©2022シンプルモンク/岡本太郎の沖縄製作委員会
フボー御嶽の入口

 太郎が感動したのは、①社殿のない信仰の空間である御嶽(うたき)、②久髙ノロに代表されるおばあさん、③イザイホーに代表される精神性の高さだった。
 御嶽はいまは入れない。ノロはいなくなり、イザイホーは1978年に終わってしまった。

イザイホーがひらかれた御殿庭(久髙殿)。左はイラブー小屋。

 古い映像でそれらを再現し、その登場人物の「今」の姿とをオーバーラップさせる。それを何度も何度もくりかえすことで、イザイホーやノロに体現されていた精神が今につながっていることをしめす。

喜如嘉 ©2022シンプルモンク/岡本太郎の沖縄製作委員会

 久高島だけではない。糸満や読谷村、芭蕉布を伝承する北部の喜如嘉を訪れる。
 喜如嘉では人間国宝の平良敏子さんにであう。手作業で糸をくり、そめ、織り上げる圧倒的な存在感こそが、岡本太郎を感動させた「沖縄」だと監督は実感する。
 太郎は、沖縄と対峙して「自分」を見つけた。「沖縄文化論」をとおして、映画の監督も沖縄と対峙し、平良敏子さんとであって、「自分」の根源にふれる魂をよみとった。
 映画は「岡本太郎についての解説」ではなく、岡本太郎が感得した沖縄の魂に観客を対峙させようとしている。「映画をとおして一人ひとりが自分を再発見してほしい」と監督は願うのだ。

死と生がとけあう島の世界

 私も20年以上前「沖縄文化論」を読み、それをもとに竹富島や喜如嘉、読谷をたずね、2022年3月には久高島をおとずれた。岡本太郎が「感動」したその核心を知りたかった。
 ぐそう(後生)とよばれる風葬のあとを、太郎が週刊朝日に紹介して大騒ぎとなり、それをきっかけに心ない観光客が殺到したために「後生」の場はコンクリートにかためられた。だから太郎をうらむ人も多いとも聞いた。
 久高島は、石灰岩の島だからコメができない。男は遠洋漁業にでかけ、留守をまもる女たちが「神行事」をささえてきた。集落は南の端だけ。北側は神々の場として開発されずのこされている。

カベール岬。アマミキヨが上陸したと伝えられる

 北の端のカベール岬は、沖縄の祖神アマミキヨが上陸したと伝えられる。
 竜宮神が壬(みずのえ)の日の早朝、2頭の白馬の姿でこの岬に上陸し、島を巡って大漁や健康を祈願するともいわれている。
 久高島は今も、本土からきた女性がなにかをかんじて泣きくずれたとか、白い馬を見たといった不思議なスピリチュアル体験のエピソードにことかかない。
 島の東側は砂浜が広がるが、西側は断崖になっている。断崖の下にかつて後生(ぐそう)があった。墓のない家は浜に棺をおき、白骨になったころに洗骨して甕におさめた。
 いまも西側は亀甲墓が集中する「死の世界」だ。
 亡くなった人の遺体は亀甲墓に収容し、12年に1度の寅年の10月20日に墓を開け、洗骨して、甕におさめる。前回の寅年の2010年には12,3人の洗骨があったという。今は大半の人は本島で亡くなり火葬に付されている。2022年の寅年が最後の洗骨になる可能性が高いという。

岩礁の湧き水

 隆起珊瑚礁でできた久高島では水が貴重だ。雨が地面に浸透して、西海岸の海面ぎりぎりの岩礁に地下水が湧く。イザイガー、ミーガー、ヤグルガー……といった7つの井泉があり、飲料用、洗濯用……とそれぞれの役割がきまっている。水道が整備されるまでは、明け方に女性が列をなして水をくみにきていたという。
 そのうちのひとつ、洗骨で骨をあらうのにつかう「ミーガー」という井泉に案内してもらった。急斜面を磯にむかってくだっていく。 夕暮れどき、薄暗く厳粛な空気がはりつめている。ふと目を上げると、岩礁に白い四つ足の動物が2頭、つったっている。
 白い馬?
 一瞬鳥肌がたったが、山羊だった。「ここで山羊をみるのははじめてだ」とガイドさんはおどろいていた。


 信仰の島は、イザイホーという行事がなくなり、ノロがいなくなっても、2人の神女が「神行事」をつづけている。フボー御嶽という立ち入り禁止の聖地の入口は、「なにもない」のになにかがあるようにかんじられる。信じる人たちがいるかぎり、太郎が感銘をうけた魂は生きつづけるのだろう。

「どう生活するか」ではなく「どう生きるか」

 こうしたスピリチュアルな雰囲気が、太郎のかんじた沖縄の魂だったのだろうか?
 それだけではないはずだ。
 この映画の監督も「スピリチュアル」に収斂することをあえて避けているようにみえる。
 そして、登場人物が発した印象的な言葉を2回か3回、くりかえし紹介する。
「昔はどう生きるかだった。今(現在)はどう生活するかじゃないですか……」
「どう生きるか」という問いには「どう死ぬか」もふくまれる。「どう生活するか」という問いには「死」の影は見えない。
「どう生きるか」「どう死ぬか」を祈りによって日々意識しながら生きる沖縄の人びとに太郎は恋した。太郎の旅の軌跡をたどった監督は、芭蕉布の平良敏子さんから同様のものをかんじた。
 この映画は、美しいエイサーのリズムや音楽をふんだんにもりこむことで、死者とつながる生の豊かさを表現し、その世界と視聴者が対峙することをうながしていると、私には思えた。

各地の上映館

・第七藝術劇場 8月20日~
・京都シネマ 8月26日~
・元町映画館 9月3日〜
・東京都写真美術館 10月25日〜
・渋谷ユーロスペース 11月予定
・沖縄桜坂劇場 10月予定
・名古屋シネマテーク 来年1月予定
 その他全国随時公開

ふじい・みつる 2020年に朝日新聞を退社。著書に『僕のコーチはがんの妻』(2020年、KADOKAWA)、『北陸の海辺自転車紀行』(2016年、あっぷる出版社)、『能登の里人ものがたり』(2015年、アットワークス)、『石鎚を守った男』(2006年、創風社出版)など。

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