7月23日から10月2日まで、大阪中之島美術館で、「展覧会 岡本太郎」が開かれている。
キャッチコピーは「本職?人間だ」、「史上最大のTARO展がやってくる!」。
芸術家・岡本太郎(1911-1996)。1929年にフランスに渡り、30年代のパリで前衛芸術運動に参画。パリ大学では民族学を学ぶ。40年に帰国し、戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。50年代後半、日本各地を取材し、数多くの写真と論考を残した。
ドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」(完全版)。岡本太郎は1959年と1966年、沖縄に旅に出た。彼の究めたかったものは、日本人とはなにか?自分自身とは何かの答えを求めることだった。岡本太郎は自ら沖縄へ溶け込み、そして自分自身と出逢ったのだ。岡本太郎の沖縄は、今の私たちに何を投げかけ、今の私たちとどうつながるのか?それを確かめに行くドキュメンタリー映画である。
8月13日、「展覧会 岡本太郎」関連イベント、ドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」の上映後、葛山喜久監督のアフタートークが行われた。聞き手は大阪中之島美術館の学芸員の大下さん。その模様を報告します。
―なぜ、この映画を撮ろうと思ったのですか。
岡本太郎は1950年代後半、日本再発見の旅をしています。青森の恐山とか、秋田のなまはげ、長崎、出雲大社をまわっています。大阪にも来ています。最後に行きついたのが、沖縄でした。1959年でした。他の旅と何が違うかと言うと、岡本太郎は「沖縄で自分自身を再発見した」と言っています。岡本太郎がほれこんだ沖縄は今も残っているのか、それを岡本太郎の旅を追いながら見つめていこうじゃないかというのが、この映画製作のきっかけです。
写真集「岡本太郎の沖縄」をみて、あまりにも、久高島の久高ノロさんの写真がよかったんで、この写真集を持っていって、糸満や読谷などをぐるぐる回って、岡本太郎が撮った写真に写っている人を知っていますか、と聞いて回りました。
<久高ノロは久高島最高の司祭主の一人。岡本太郎はシャーマンだと紹介している。著名な民俗学者が島に来ても、“神事は見世物じゃない”と一切拒んだが、唯一、岡本太郎だけが久高ノロの素顔を撮影出来た>
―映画製作にどのくらいの期間をかけたのですか。
7、8年です。岡本太郎は著作「沖縄文化論~忘れられた日本」でも指摘していますが、一瞬一瞬の中に悠久なる時間の流れのようなものがあると言います。沖縄を媒体にして岡本太郎が自分自身を見つめた、ということだと思います。岡本太郎の旅がそういうスタンスであれば、この映画も、観た人が映画を媒体にして自分自身を見つめてみようじゃないか、という視点にもっていくようなものにしたかった、説明したり解説したり、そういう方向ではない映画にしたかった。岡本太郎が感動した沖縄をまとめると3つあります。1つは、「御嶽」、2つ目が久高ノロ、3つ目が「イザイホー」。ただ、この3つは、ないんです。「御嶽」は中に入っても岡本太郎と同じ精神性が感じられるわけではありません。
<「御嶽」は神の降りる聖所。岡本太郎は「この神聖な地域は礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。うっかりすると見過ごしてしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚愕した」と書き残している。(映画パンフレットから)>
<「イザイホー」は久高島の神事。12年に一度、午の年に、新しいナンチュ(神女)を資格づける厳粛な儀式>
葛山喜久監督は、沖縄北部の大宜味村喜如嘉(おおぎみそん きじょか)で感動的な出会いがあったという。
喜如嘉は芭蕉布で知られている。芭蕉布保存会のホームページにこう説明されている。
<芭蕉布は世界で唯一、沖縄・大宜味村の喜如嘉で守り続けられてきたものづくりです。
バナナ(実芭蕉)の仲間である糸芭蕉から採り出す糸は、あまりの繊細さゆえに極めて扱いが難しく、他の染織物にも増して、その工程を長く複雑なものにします。だからこそ、手数と心をかけて織り上げられた芭蕉布は、強く、美しい>
沖縄が琉球王国だったころ、王族は芭蕉布を身につけ、中国や日本への最上の貢ぎ物だった。
琉球各地の庶民の着物としてもなくてはならないものだった。
<糸芭蕉を育てる畑仕事に始まり、原木を剥ぎ、繊維を採り出し、糸をつくり、撚りをかけ、絣を結び、染め、織り、仕上げまで。文明の速度とは逆行するような手仕事の数々は、数百年前とほとんど変わっていません>
芭蕉布づくりは、第二次世界大戦後、沖縄で途絶えつつあった。その芭蕉布を、工芸に高めたのが、喜如嘉の平良敏子さん。
岡本太郎が1959年、嘉如嘉で撮った写真に偶然にも、平良敏子さんが写っていた。芭蕉布会館へ続く坂道を歩く若かりしころの平良敏子さんだ。葛山喜久監督は、岡本太郎と同じ場所、同じ構図で人間国宝となった平良敏子さんを撮影した。
「平良敏子さんとの出会いが大きくて、感動しました。何が感動したかというと、存在そのものみたいなものです。芭蕉布づくりをしているときの集中力が、こちらがあきれるぐらいの存在感が何とも言えない、沖縄の文化そのものを感じました」
葛山喜久監督は芭蕉布づくりをする平良敏子さんを撮影した。そのときのエピソードを語る。
「芭蕉布を紡いで、手で全部結んで、さらに手で織っていく、途方もない時間をかけてつくるわけです。このとき、敏子さんは、こっちに来て、向こうに行ってというふうな動きを繰り返すんです。敏子さんの動きに合わせて、カメラも動くんですが、一度、カメラが遅いときがあって、その時、敏子さんがにらむんではないのですが、こちらをちらっとみたとき、もの凄い迫力がありました。沖縄の文化をちょっと邪魔された、それぐらいの迫力でした」
この平良敏子さんとの出会いが映画製作のターニングポイントだという。
「岡本太郎は、御嶽、久高ノロ、イザイホーなんだけれど、私は平良敏子の存在に非常に感銘を受けました。だから、岡本太郎の沖縄の旅の本質は曲げてはいけないけれど、時代にそぐわったものを見つければ、それはそれでつくっていけばいいんじゃないかと思います。平良敏子さんとの出会いがこの映画をつくる上でのターニングポイントになったかなぁと思います」
アフタートークの最後、葛山監督はこう話す。
「映画のなかで久高島の男性が『昔はどう生きるかだった、今はどう生活するか』と話しています。岡本太郎は、その端境期に久高島を訪れて、久高ノロを中心に素晴らし写真を残しています。久高島に暮らす多くの女性が『岡本太郎はこの島に呼ばれた、岡本太郎ほど、この島を理解した人はいない』と言います。岡本太郎は時代の端境期に沖縄に呼ばれ、写真を残したり、そのときの気持ちを文章に残しました。それは普遍的に残るのではないかと思って、映画にしたかった」
そして、美術の専門家である学芸員の大下さんはこう説明する。
「イザイホーは残っていないけれど、岡本太郎のイザイホーの写真が残っているからこそ、監督も沖縄に行ってみて、撮影して作品をつくる、こうつながっていく。今、大きく転換するそのスピードのなか、沖縄も世界も変わっていくだろうけれど、作品がリレーしていって、次につながっていくと考えると、岡本太郎の作品と監督の作品と、ちゃんとつながりが脈々とあるんだと鑑賞していて感じました」
○ドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」上映情報
●「展覧会 岡本太郎」情報
○ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 ラジオ報道部時代、福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー。
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