大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」27(社会部編3) 安富信

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脅迫状・挑戦状で警察とマスコミ翻弄

グリコ・森永事件をもう少し続けよう。この事件の犯罪形態のもう一つの特徴は、脅迫状と挑戦状である。特に、マスコミ各社に送り付けて来た何通もの挑戦状は、前代未聞だった。政府や警察、公務員などの権力が嫌いな人種が多い大阪の地で、こういった権力者を揶揄するような文面(筆者は決してユーモアとは感じないが、関西人の中にはユーモアたっぷりだ、と言う輩がいる)を喜ぶ人種には受けた。この連載ではあまり紹介したくない文章だが、知らない世代もあるだろうから、少しだけ。

昭和59年(1984)5月10日、読売、朝日、毎日、産経4社に届いた挑戦状
まづしい けいさつ官たち え うそは ドロボーの はじまり ゆうたけど まちがい やった
けいさつの うそは ごう盗の はじまり やった まえの TEL とおくから かけたのを また かくしとるやろ
(中略)
グリコは なまいき やから わしらが ゆうたとおり グリコの せい品に せいさんソーダ いれた
0.05グラム いれたのを 2こ なごや おか山の あいだ の 店え おいた
死なへんけど にゅう院する グリコをたべて びょう院え いこう

これが劇場型犯罪をさらにヒートアップさせた要因でもあると考える。大阪読売社会部捜査一課担当の加藤譲さん自身も挑戦状や脅迫状をすべて、犯人グループの思惑に乗って新聞に掲載することが正しい選択なのか、随分と悩んだようだ。そんな中、グリコ犯は新たなターゲットとして森永製菓を選び、9月12日に脅迫状が届いた。

グリコの そんで もおけて わるい おもっとるやろ もうけた なかから 1億円だせ
けいさつえ しらせたら おまえの会社 つぶしたる 会長 社長は さろてきて 生きたまま えんさんの ふろに つけて 殺したる 9月18日火よう日に 金 もらう

18日には、森永製菓の社員に扮した捜査員が、犯人の指示に従い、京阪本線守口市駅前のマンホール上に置かれたポリ容器に1億円を入れて待つが、犯人は現れなかった。20日の夕刊で毎日新聞がこの脅迫状をすっぱ抜く。読売新聞もこの事実は掴んでいたが、捜査員から「現行犯逮捕の絶好の好機だから書かないでくれ!」と言われて見送っていたという。各社の追及に大阪府警刑事部長は「毎日の記事は誤報だ」と断言するも数日後、マスコミ各社に「このまえの森永のTEL あれ なんや サラリーマンはTELで りょおかい なんて いわへんで」と暴露する挑戦状が届き、刑事部長の嘘がばれてしまう。当に、警察とマスコミ、さらに府警内の幹部と現場の捜査員を分断させる巧妙な手口だ。そして、昭和60年8月12日、犯人グループは突然の犯行終結宣言を出し、完全に姿を消し、2000年2月13日に一連の事件は完全時効を迎える。

くいもんの 会社 いびるの もお やめや このあと きょおはく するもん にせもんや
ゆうしゅうな 警察え とどけたら ええ 大学での よしのや しかたが あんじょお してくれるで
わしら 悪や くいもんの 会社 いびるの やめても まだ なんぼでも やること ある 悪党人生 おもろいで
かい人21面相

グリコ・森永事件の犯人グループがマスコミなどに送り付けた挑戦状

実に人を喰った嫌な文章である。

10年目「グリ森事件に有力容疑者」特報も…尻すぼみ

ところで、グリ森事件を追った執念の加藤記者は一度だけ、この事件で大勝負に出た。発生10年目の節目、平成6年(1994)3月25日付の朝刊だ。実は、筆者はこの時、2度目の京都勤務になっており、詳細は知らない。よって、経過を詳しく書いている元神戸新聞記者でグリコ・森永事件の犯行グループに迫った映画「罪の声」の原作者、塩田武士氏の『「かい人21面相」の影を掴んだ、執念の男の告白』による。
社会部の同僚2人が滋賀県警から「ある筋」の話を引いてきた。それは以前大阪府警が捜査したまま結論が出ていないグループだった。一度捜査線上から消えかけたが、滋賀から浮上。大阪府警と合同で調べを再開しており、取材すると、21面相のピースが次々と見つかった。北摂地域に住んでいた中年男が任意で調べを受け、ポリグラフ(うそ発見器)の反応が黒で、秘密の暴露(犯人しか知らない事実)に近い供述があり、被害企業の出入り業者や「キツネ目の男」によく似た人物が周辺にいた。約1か月の裏取り取材で主要な8人の名前が挙がった。複数の捜査員からも「このグループで間違いないやろ」との言質を得て、25日付朝刊最終版に突っ込んだ。編集局長にもその日の当番局次長にも直前まで知らせずに、「グリコ・森永事件に有力容疑者」を打った。もちろん、一面トップ記事だ。
しかし、捜査は進展せず、この筋は尻すぼみになった。「キツネ目の男」と目された男も行方をくらませた。約2か月後、一斉聴取が実現しなかったことから「性急だった本紙報道」という見出しの記事を書き、加藤さんは「進退伺い」を社会部長に出した。

加藤記者が「Nスペ」のモデルに 幹部が執拗に反対

その加藤さんのもとに、NHKから平成22年(2010)秋、NHKスペシャル 未解決事件「file.01 グリコ・森永事件」での主人公のモデル役とする申し出があった。前回でも書いたが、グリ森事件を追う事件記者を上川隆也さんが演じたのが加藤さんの役だ。ここで、大阪読売新聞はまたも、すったもんだのドタバタ劇をやらかす。
どちらかと言えば、この事件では分が悪かった読売新聞の加藤さんになぜ、白羽の矢が立ったのか? どうやら東京から来たNHKのドラマ制作班は、まず、毎日を中心に産経、朝日の一課担に当たり、ドラマの主人公にふさわしい人物を推薦してもらおうとした。ところが、この3社に適任者はいなかった。「Aは特ダネも書いたけど誤報も多かった」「Bは一課の刑事から信頼されていない」などなど。他社の一課担が声を揃えたのは「ミスタ―・グリ森記者は読売の加藤さん」だった。筆者も一課担の後輩だが、同感だ。
兎にも角にも、NHK制作班はやって来た。当時、彼は2年前に定年を迎え、「特約嘱託編集委員」として情報番組に出演していた。なぜそんな立場になっていたかは、このかなり後になるが、後に説明する。「事件を風化させたくない」の一心で引き受けた。当然、会社は大歓迎だったと思うが、なぜか、東京から出向してきた大阪本社常務取締役役員室長は大反対した。この辺りのことも、筆者は残念ながら関連会社に飛ばされていたので、詳しく知らない。加藤さんの節目の話を何度か目の当たりにできなかったのは、筆者の不徳の致すところだ。
これに、この時のT編集局長(後に筆者の不倶戴天の敵となる人物)とT広報宣伝部長(女性)も同調し、役員室次長で筆者と京都支局時代に京セラ問題などを一緒に取材したNさんが、読売大阪本社新館会議室で録音しながら事情聴取をした。比較的友好的な聴取だったというが、筆者もこれ以前にこの部屋で、“セクハラ疑惑”で事情聴取されたことがあるが、まるで警察の監察官調べのようだったことを思い出す。これもまた、後述する。
不思議なことは当時の山口寿一・東京本社執行役員広報担当や中村仁・大阪本社社長は賛成していたというが、なぜ、役員室長やT編集局長らはそこまで執拗に反対したのだろうか? これはあくまで憶測だが、黒田軍団以後、「大スターを作ってはいけない」という東京本社サイドの思惑が蠢いていたのかもしれない。「読売の記者が実名で出ることなど問題外だ」と言ったという。
当初は平成23年(2011)3月放映予定だった。年末から年が明けても読売側の「実名では出さない」という方針は変わらなかったが、1月から2月にかけて、事実に基づくフィクションの旨をナレーションに入れることや、30か所にも及ぶ細かい台本の書き直しを経てようやく放映が認められた。加藤さんは役員室長との話し合いの最後に「読売、やめさせてもらいます」と辞意を伝えた。3月11日に東日本大震災が発生し、7月まで放映は延びた。6月には各社の一課担記者らの対談も撮られ、番組の一部にも出演した。スペシャルドラマは7月29日と30日のゴールデンタイムに、1部「劇場型犯罪の衝撃」、2部「消えた“かい人21面相”」、3部「目撃者たちの告白」と連続放映された。筆者は妻と自宅でテレビを観ていたが、大阪読売新聞本社東館3階編集局では、記者たちは画面にくぎ付けだった。1年先輩でこれまた大阪読売の名物記者のIさんが加藤さんに興奮気味に伝えた。「編集局は大騒ぎでしたよ。凄かった」。加藤さんは冷めていた。

NHKスペシャル 未解決事件 グリコ・森永事件のオンデマンドHPから(c)左上の写真一番左が加藤氏

ロートレック展で「マルセル」盗難、主催者の読売が屈辱の「特オチ」

10年以上前の話だが、ここに今の大阪読売の「原形」を見るようだ。いつから、こんな会社になってしまったのだろう? そういえば、唐突だが、「大阪読売社会部3大恥辱事件」というものがあるそうだ。栄光の大阪社会部の影の部分だ。うち2つは筆者が社会部に上がる前の事件だ。1つは昭和43年(1968)というから筆者は中学時代、大阪発刊から16年目の事件だ。社会部の先輩に酒の席で聞いた記憶を基に断片的につなぎ合わしたので、不正確な点が多いかもしれない。
この年11月9日から、京都国立近代美術館で開催されていた「ロートレック展」の最終日の12月27日に、フランスから借りて展示されていた油彩絵画のうちの1つ「マルセル」(時価3,500万円相当)が盗まれた。3日後の12月30日に美術館から約200m離れた自転車置き場で額縁だけが発見されたが、捜査は進まず、7年後の昭和50年(1975)12月27日に時効が成立した。ところが、翌年1月、大阪市内住む会社員夫婦が「盗まれたマルセルではないか」と朝日新聞に持ち込み、朝日は社会面トップ記事で報じ、なぜか、毎日新聞も最終版に記事を突っ込んで、主催者の読売だけが知らずに事実上の「特落ち」という大恥をかかされた、というものだ。会社員夫婦によると、知人で京都に住む中学教諭から預かったもので風呂敷の中身を確かめずに押し入れに置いていたという。中学教諭も「知人から預かり中身を知らなかった。知人の名は言えない」とし、犯人は捕まらず、真相は闇のままだ。

ロートレックの「マルセル」

もう一つは、昭和61年(1986)10月26日夜に高知県上空で発生したタイ航空機爆破事件だ。バンコク発マニラ経由大阪空港行のタイ国際航空機620便(乗員乗客247人乗り)が午後8時ごろ、機体後部で爆発が起きて圧力隔壁が破損するなどの大損傷を負い、ダッチロールの末、午後8時40分、大阪空港に緊急着陸した。乗員3人乗客11人の計14人が重傷、乗客95人が軽傷を負った。当然、空港から大阪府警に一報が入り、各社に広報された。しかし、読売社会部はこの事故を甘く見た。一報の「尻もち事故」の表現に腰を上げなかった。日曜の夜の編集局社会部の泊り当番はデスク以下6、7人いたが、デスクは現場取材を命じなかった。
しかし、考えてみれば、1年少し前、日航機御巣鷹山墜落事故が起きたばかりだ。当然、現場取材は必須だったろうが、1人も行かなかった。果たして数時間後、テレビのニュースで「酸素マスクをした恐怖に怯える乗客の顔、顔、顔」が映し出された。「しまった!」。慌てて現場に駆け付けたが、後の祭りだった。恐怖の写真は1枚も入手できなかった。。
この事件の真相は、あっと驚くものだった。暴力団員がフィリピンにパイナップルと呼ぶ手榴弾を買い付けに行ったが、思うように調達できず、わずかに調達できた1個だけをトイレに持ち込んで弄んでいるうちに安全ピンを外してしまい、そのまま放置したところ、爆発したという。この事件では、発生直後のチョンボから読売大阪は苦戦し、一課担の取材も困難を極め、数多くのエピソードを生んだが、それは後ほど。3つ目は? さて、そろそろ、吹田通信部に戻ろう!(つづく)

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