薬害スモン、美人事務員……弁護士事務所に通う
ドタバタ劇の松江編は終わった、と前回書いたが、またもや前言撤回。終わると、また思い出したことがあった。題して「ささやかな特ダネに、天は味方してくれない」。
昭和57年(1982)2月。新聞記者になって4年目、警察回りを続けながら少しずつウイングを広げていた時期。もう一つ、ネタ元になるのが、弁護士さん。島根県弁護士会の現在の会員名簿を見ると、所属弁護士が80人以上おられるが、当時は50人くらいだったような記憶がある。
弁護士さんとの付き合いは裁判を通してだ。島根県では当時、薬害スモン訴訟の弁護団が結成されていた。薬害スモンとは昭和30年代に整腸剤のキノホルムを服用した人に全身のしびれ、痛み、視力障害等の被害が発生し、昭和46年(1971)5月以降、キノホルム剤を製造・販売した製薬会社(武田、チバガイギー、田辺)とこれを許可した国を相手に提起した損害賠償請求訴訟だ。東京地裁のほか全国27の地裁で4,819人が提訴、昭和54年(1979)に6491人と和解が成立した、と厚生省の記録にある。島根県も多くの原告患者がおり、弁護団が形成されていた。薬害訴訟は難しい。弁護士さんに勉強させてもらいに松江市内の弁護士事務所に通った。
もちろん、刑事事件でも弁護士取材は欠かせない。県警記者クラブでは、弁護士会と定期的に懇親会を開き、時には、島根県警本部チーム、記者クラブチーム、弁護士チームなどが作られ3者対抗ソフトボール大会が行われた。そこにいたのが、今も名簿を見るとご健在のO弁護士。マドンナ弁護士(古い!)。何かにつけてO弁護士務所に通った。Oさんは結婚されていたので、美人の事務員さん目当てだったが、すげなく振られた。
先に書いた石見町の女児誘拐殺人事件では、被告Nさんの弁護を担当したA弁護士は当初、筆者のところに来て弁護方針を相談した。偉そうに少し歳上のAさんに「無罪じゃないのだから、心神耗弱で量刑を低くする方針がいいんじゃないの」なんてアドバイスした。それが数年後、無罪になった。
刑事が容疑者殴打、特ダネだ!
松江市内に事務所を構えるM弁護士から有力な情報を受けた。元々は、別のところからの情報だったと思うが、弁護人がこの人だったとわかり、そんなに仲良くなかったが、直当たりした。M弁護士はあっさりと“事件”の概要を教えてくれた。松江市の隣町のT警察署の取調室で刑事が容疑者を殴った暴力事件だった。まあ、よくあることとはいえ、M弁護士は県に対して損害賠償訴訟を起こすという。立派な特ダネだった。
早速、記事を書いて原稿を出し、本社地方部に打診した。全国版に原稿を出す場合、読売新聞では大阪本社地方部の当番次長に連絡して、全国版に掲載するよう依頼する。当番次長が採用しても、朝と夕に開かれる「土俵入り」と呼ばれる編集会議(編集局次長主催)で最終決定するのだが。ちなみに、編集会議は編集局長の前のテーブルに円陣を組んで行われ、大相撲の土俵入りに似ているからこう呼ばれた。
この記事は採用が決まった。本社内にいる内勤の整理記者(現編成記者)は、記事をどの面でどの位置にどれくらいの大きさ(これを扱いと呼ぶ)にするかを決める。この記事はとりあえず、早版地区(島根や高知などに来る新聞)の第2社会面トップ記事で扱うことになった。やった!
1日目「シャブ中男が7人殺傷」、2日目「ホテルニュージャパン火災」
しかし、世の中そう甘くない。昭和57年(1982)2月7日朝、大阪市西成区で覚せい剤中毒の男が妻子や近所の住民らを包丁で刺し、7人を殺傷する事件が起きた。翌8日の紙面は1面から第1、第2社会面と見開いて詳報するという。仕方ない。原稿を引いた。
翌日も再チャレンジしたが、ダメだった。8日未明、東京都千代田区永田町のホテルニュージャパンで火災が発生、死者33人負傷者34人が出た。オーナー社長の横井英樹氏(故人)の極端な合理化経営のせいで、スプリンクラーなどが設置されていないなど多くの欠陥が見つかった火事でもある。当然、紙面は大展開となった。
3日目「逆噴射で日航機墜落」、みたび特ダネ見送り
さあ、3日目だ。そろそろ、2社面の紙面は空くだろうと思った。幻想だった。2度あることは3度ある。次の日は何が起きたのか?
9日午前7時34分に福岡空港を離陸した日本航空350便(ダグラスDC型機)が、同8時44分、東京国際空港の羽田沖の東京湾に墜落した。乗員・乗客174人のうち24人が死亡、149人が重軽傷を負った、あの有名な「K機長逆噴射」事故だ。K機長は業務上過失致死の疑いで逮捕されたが、精神鑑定で妄想性精神分裂症(当時)と診断され、事故当時、心神喪失状態にあったとして不起訴処分となった。直接の原因はK機長の操縦ミスで、操縦桿(そうじゅうかん)を前に押してエンジンの回転が急低下し、さらに2つのエンジンのスロットルを「逆噴射」位置に操作したため、機首が異常なほど下がり、海に突っ込んだ。
I支局長は事故の模様を伝えるテレビ画面を見ながらつぶやいた。「シン(信)のささやかな特ダネに、天は味方をしてくれんなあ!」。頷くことしか出来なかった。結果的に数日後、記事は2社面トップで掲載され、地方部長賞をいただいた。女児誘拐殺人事件容疑者逮捕に次ぐ2つ目の部長賞だった。
出雲王朝示す「額田部臣」の太刀
書きながら、思い出したことがまだあった。「文化財記者」もやった。いやいやながら。島根県は文化財遺跡が豊富だ。その昔、大和に政権が移る前までは、出雲地方に強大な国があったと出雲風土記などに記されている。ヤマタノオロチ伝説に始まる出雲王朝である。スサノオノミコトやオオクニヌシノミコトが登場する神話の世界。弥生時代から古墳時代初めまでこの地に存在したという。
「国譲り伝説」というヤマトと戦わずに国を譲ったという伝説もあるが、筆者はそうは思わない。血を血で洗う戦いの末に、ヤマトに政権を奪われたのだと思う。故梅原猛氏が著した「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」によると、出雲大社はオオクニヌシノミコトの霊を鎮めるための巨大建築物だという。とにかく、大和政権成立以前の弥生時代の日本に古代出雲に一大勢力があったことは間違いなく、多くの埋蔵文化財が発掘される。道路工事をすれば、遺跡が発見され、工事が中断されることは度々だった。
その代表的な発掘が、岡田山の太刀である。
松江市南の郊外、八雲立つ風土記の丘にある岡田山1号墳から大正4年(1915)に発掘された円頭太刀はその後、先端部分が破損していたが、奈良県の元興寺文化財研究所がX線を当てたところ、残った部分から銀象嵌の4文字が確認されたという。これを昭和59年1月3日付朝日新聞朝刊1面トップ記事で抜かれた。出雲国風土記に登場する豪族の「額田部臣」の4文字だというから、これまた、普段静かな松江の町が大騒ぎになった。
前に書いた豪傑先輩Mさんは文化財記者だったが、彼が転勤してから読売松江支局ではだれも文化財をやりたくなかった。しかし、抜かれたら、追いかけなければならない。なぜか筆者にお鉢が回って来た。文化財も夜回り取材だった。
島根大学の考古学の権威の名誉教授宅に訳も分からず取材に押しかけた。先生は丁寧に取材に答えてくれた。そのうえ、筆者が前もって考えていた「無くなった先端部分にも文字が書いてあったはず。その部分が発見されると、銘文の全容がわかりますよね」との問いに、「そうだね」。よし、続報が出来た。翌日、2社面トップ記事に「失った部分の発見に全力 全容解明できる?」などという記事が載った。新聞の世界ではよくあることだ。注目されている事象に、それほど大したことを書いていないのに、扱いが大きくなる。にわか文化財記者は悔しい思いをした。苦労した記事がなかなか掲載されなかったのになあ!
銅剣100本、200本、358本……セリのような特ダネ合戦
その後も島根県では文化財発見フィーバーが相次ぐ。昭和59年8月、出雲市斐川町神庭の谷間にある荒神谷遺跡から銅剣が発見された。この時は、神戸支局から転勤してきた先輩記者が文化財担当を名乗り出ていたので、彼が取材合戦に参加した。各社の書き比べが始まった。と言っても、勝負は銅剣の数。どこかの社が数十本と書いた。翌日違う社が100本と書いた。200本、300本とまるで、セリにかけているような取材合戦。読売の先輩が358本と書いて正解! 彼は部長賞を獲得した。ますます、あほらしくなった。
ともあれ、出雲地方は文化財ニュースの宝庫である。平成8年(1996)10月には、雲南市加茂町岩倉の加茂岩倉遺跡から全国最多の39個の銅鐸が発見され、後に国宝に指定された。出雲大社は古代、その本殿の高さが今の2倍の48mの巨大神殿だったという言い伝えがある。歴史の専門家は「古代にそんな大きな建物を造ることができるはずがない。単なる伝説だ」と一笑に付していた。
しかし、平成12年から13年(2000~2001)にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱(直径1.4m)が3本1組で発見された。「心柱」と呼ばれ、3本くくると直径3mにも及び、地上48mの空中回廊ともいえる巨大神殿の存在を十分示唆している。古代のロマンに浸る余裕があるなら、すごくいい土地だったが、この頃にそんなロマンなど皆無だった。
鉄剣つくったたたらの田部家、知事も輩出
関連して大事なことがあった。先のヤマタノオロチ伝説は、斐伊川という島根県の山奥から流れる大河の治水伝説でもある。この川の河原で砂鉄が採れ、それが鉄剣製造につながった。たたらという技術である。田部家、櫻井家、絲原家。「奥出雲たたら御三家」と呼ばれ、古代から連綿と続く家だ。特に田部家は「出雲の山林王」と呼ばれ、昭和時代には知事も輩出し、山陰中央新報の社主でもある。古代から脈々と受け継がれる血脈の世界。単なる田舎ではない。離れてわかった奥の深い地だった。それなのに、毎日新聞の先輩記者が「文化果つる地だ」と松江市内の飲み屋で発言し、総スカンを食らったことを思い出した。(つづく)
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