「ミラクルシティコザ」明暗混沌、老いにも可能性開く  映画ヒョーロクダマ(ライター)

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「お前はネガチブなやっちゃのう。三上寛とかばっかり聞いとるからやで。これ聞かんかい」といって友人の小山君が貸してくれた紫のLPレコード。それを返す時、私は小山君にこう言ってしまいました。
「日本の楽団が何で英語で歌とるねん。頭が植民地化しとるんとちゃうけ」
結構楽しく聞いたくせに。45年ほど昔の話です。その紫が、50年現役であることを映し出して幕を閉じるこの映画。
これは可能性についての映画です。可能性は一般的に若さに向かって開かれていますが、「老い」にもそれが向けられているところがいいな、と思いました。

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「現在進行形の情熱」のみに集中するロックの精神

またタイススリップSFでありがちな「過去の改変」というパターンを安易に踏んでいないところも良かったと思います。「バックトゥザフューチャー」が最もわかりやすい例ですが、タイムスリップ物の多くは、主人公にとって「満たされていない(あるいは最悪な)現在」を「もっと幸福な(あるいは少しはましな)現在」に変えるために「過去」を改変しようとする物語です。しかし、本作におけるタイムスリップは、あくまで祖父と孫の「魂の交換」であるために、過去の改変といった大きな物語にはなりません。「ハル=翔太」が生きている1970年と2022年に「音楽」という小さな事件が起きるだけです。これは、映画の創り手たちが、過去現代未来を問わず、「人間が生み出すパンクチュアルなもの、現在進行形の情熱」のみに可能性を見出しているからでしょう。その可能性が名付けてロックンロールだ、という叫びが聞こえてきそうです。

陽気な作品にのぞく分断や搾取の暗喩

ここまでは、作品の陽性な魅力ですが、実は表裏一体で、沖縄・コザという土地が持つ痛ましい歴史が刻印されているのも感じました。それは「翔太の父親は本当は誰の子なのか」が曖昧になっているところです。
劇中のやり取りからすればあのやくざのボスが本当の父親であり、ハルはそれを承知で実の息子として育てたことになります。孫である翔太が実際にはハルとは血が繋がっていないのなら、「祖父と孫という血縁ゆえに成立した魂の交換」という、そもそもの設定に揺らぎが生じます。作品内リアリティを崩しかねない「負の可能性」を、創り手たちはなぜあえて示唆したのでしょう。「自分は何に属しているのか?」「ルーツはどこなのか?」といった問いかけが、沖縄が琉球と言われた時代から繰り返された根源的なものだからに違いありません。
さらに、映画では孫の翔太が、ハルの肉体を通して「祖母が真の祖父を殺めてしまう」ところを目撃します。そして、その後に、コザ動乱、日米ハーフの米兵ビリーが沖縄の人々にリンチされる暗鬱な展開が続きます。この一連の流れには、どうしても沖縄という共同体の内外で繰り返されてきた分断や搾取の暗喩が読み取れてしまいます。これが、一見陽気ではじけたこの映画がはらんでいる、非常に昏くかつ重要な側面だと思います。
ああ、結局はダークサイドを取り上げてしまいました。しかし明暗が混沌となって素晴らしいエネルギーを放っている映画です。紫、出てるぜ。いい映画だぜ。小山君にそう伝えてやりたい。彼に連絡はつくだろうか。それはわかりませんが、少なくとも現在連絡がつく限りの目利きの人々には爆音でPRさせていただきます。

 

 

 

 

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