能登2011〜24⑥珠洲原発とたたかった床屋さん

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反原発の闘士、ミュージシャンに

 珠洲原発計画への反対運動にとりくんだ理容店主・橋本弘明さん(64歳)は、電力3社が撤退した2003年以後、運動の闘士からアマチュアミュージシャンに「転身」した。コンサートにはかつての推進派もつどい、対立の傷がいやされてきたとかんじるという。東日本大震災から9カ月後の2011年末、橋本さんの思いをきくため、珠洲市役所の東の若山川のほとりにある「ヘアーサロンはしもと」をたずねた。

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2011年

 珠洲原発は1975年に珠洲市が誘致を表明し、76年に関西・中部・北陸の3電力が共同開発の構想を発表した。以来2003年まで賛否をめぐって住民はまっぷたつに割れ、市長選や県議選ではげしくあらそった。
 1989年の市長選では、反対派から北野進さんが立候補した。
 橋本さんの友人の乗光寺の坊守・落合誓子さんが北野さんを応援していたから、橋本さんは事務所の電話番をひきうけることにした。86年にチェルノブイリ原発事故があったのにくわえ、「事故はおきませんと言ってるのにしこたま金をばらまいてた。直感的にあぶない、と思った」からだ。
 こっそりかくれて手伝うつもりだったが、すぐに推進派にばれた。
「(市職員の)弟は出世できんぞ」とおどされ、弟にたいしても「なぜ兄貴は、現職と敵対するところいにいるんだ」などと圧力がかかった。
 怪文書や無言電話があいつぎ、警察は担当課長がかわるたびに散髪にやってきた。デモをしたらビデオで撮影された。大学卒の落合さんや北野さんは「あいつらはカクマルや」などと中傷された。
 自営業者の多くは「商売にさしさわる」と反対運動から距離をおいたが、橋本さんはひらきなおった。
 14年間、夜な夜なあつまり、チラシをつくったり、まいたり。市役所に39日間連続で泊まりこみ、役所から自宅に仕事のためにかよったこともあった。
「役所を占拠するなんてすごいよね。過激派やがいね。でもだまって39日もいさせてくれた。やさしさよね。俺だったらすぐ排除するよ。15年でぼくらもつよーなったわいね。権力者にたてつくのはおもしろかったねぇ」
 理容店には推進派の人はこなくなったが、、反対の運動の人がくるから売り上げはかわらなかった。
 選挙をすると、賛成派が6割、反対派は4割だった。
「選挙に負けても、長びかせることでとまるんじゃないかなあ、と漠然と思っていた。1998年ごろには電力会社が事務所を縮小しはじめ、これで勝ちやと確信したねぇ」
 電力需要の低迷もあり、電力3社は2003年に「凍結」を表明した。
 原発が終わって気が抜けて、ひまな時間にパチンコにでかけているうちに、若いころにギターの弾き語りのアルバイトをしていたことを思いだした。
「還暦までに200曲うたおう!」 
 56歳のときギターを手にとった。
「理容店主のささやき」というCD11枚を自主制作した。演歌やフォークソング、ラテン音楽まで192曲を収録した。店の客に無料でくばるうちに、年2、3回は舞台でうたうようになった。
 なつかしい歌を聴きたい人たちが、ときには300人ちかくもつめかける。旧原発推進派も旧反対派もいる。推進派の拠点だった商工会議所から、いすをかりてくることもある。橋本さんより若い世代のアマチュアミュージシャンも次々に誕生している。
 電力会社の撤退後、「原発がくれば市は活性化したのに」という旧推進派の声は根強かったが、2011年に東京電力福島第一原発の事故がおきてから、旧反対派が感謝されることが増えた。
「今ごろはうちにくるお客さんにも『原発に賛成する人は国賊やぞ』と言ってる。アマチュアミュージシャンが増えたのは、原発が終わって、みんなで音楽をたのしめる融和の雰囲気がでてきたからでしょう。41歳から15年間オカミにはむかってきたんやさかい、俺も今も腹にイチモツあるけど、これからも狭い土地でいっしょに生きていかないけん。珠洲の人は腹黒うなったかもしれんね」

津波と隆起が襲った原発計画地

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対岸の住宅地は地震と津波で壊滅状態に=2024年2月

 福島第一原発の事故で、原発のおそろしさをだれもが痛感したはずだが、志賀原発で事故がおきたら孤立を余儀なくされる奥能登4市町の首長は、志賀原発の廃炉を要請することはなかった。
「能登町長も珠洲市長も、海路で避難させることも考えると言うけど、珠洲の1万5000人が乗る船をいったいどこにおいとくがいね。避難計画なんて絵に描いた餅よ」
 2024年1月1日、橋本さんの危惧は現実のものとなった。
 午後4時すぎ、震度5強の地震がおきた。たいしたことがないと思ったが、その直後に強烈な揺れが襲った。外にでて若山川の河口をみると、水がひいて海底が露出している。
「やばい!」
 午後4時にショートステイから帰ってきたばかりの97歳の母と、近所のベトナム人を車にのせて飯田小学校に逃げた。3日後、川べりの自宅にもどると、津波で浸水して店はくさかった。下流の家々の自動車は軒並み津波でやられていた。

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 さらにひどいのは川の対岸の海沿いの住宅地だ。地震には耐えたはずの新しい家々も、高さ2メートル弱の防潮堤を超えた津波で破壊された。浸水した車は放置されたままだ。
 地震から40日たっても断水状態だから、近隣の500人の9割は市外に避難したままだ。橋本さんの息子一家も、仕事がないから県外に避難した。
 1994年にたてた橋本さんの家は、瓦が落ちてわずかにかたむいた程度だった。毎日湧き水をくんできて循環風呂で入浴できているという。76歳だが、原発反対運動できたえられたせいか、心身ともにたくましい。
 珠洲原発の計画地の寺家地区を通過し、もうひとつの計画地の高屋地区をめざしたが、1キロ手前で通行止めだった。

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2015年の木ノ浦
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2012年の木ノ浦

 永作博美さん主演の映画「さいはてにて」(2015年)の舞台になった木ノ浦海岸は、プライベートビーチのような美しい湾だった。夏場はこの海岸で、映画のモデルになった「二三味珈琲」の仙北屋葉子さんたちがカフェをひらいていた。その海岸をたずねると、透きとおった海だったはずが、海底の岩礁があらわになっている。2メートルちかく隆起したためだ。
 当然、港はつかえない。多くの集落が孤立したが、海路では脱出できなかった。

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海底があらわになった木ノ浦海岸

 もし高屋に原発ができていたら……、揺れに耐えられたとしても、隆起で冷却水を確保できなくなっていた可能性が高い。
「原発を止めてよかったと思うけど、『ほら見てみい!」っていばるつもりはない。今さら言ってもしかたないしね」と橋本さん。
 珠洲の反原発運動は、能登の人々を放射能汚染から救ったのである。(つづく)

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