能登2011~24⑤珠洲 祭りがつなぐ伝統の知恵

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海中を乱舞する七夕キリコ

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見附島

 珠洲市宝立町の見附島はその形状から「軍艦島」とよばれる。その北にある海岸では8月はじめ「七夕キリコ」がもよおされる。この地区の七夕は盆の準備をはじめる日で、祖先の霊をむかえる行事とされている。提灯やぼんぼりでかざられた高さ約14メートルの巨大なキリコ6本をそれぞれ約70人でかついで海にはいり、花火がいろどる夜の海をゆらゆらと乱舞する。華やかで優美なこの祭りは、昭和の観光ブームとともにはぐくまれたものだった。

観光ブームで新たなキリコ誕生

 戦前は、現在のような重厚なキリコではなく、竹の柱をはしごのように組みたてる小さな竹製キリコだった。戦後もしばらくは、妙巌寺(みょうごんじ)という浄土真宗の寺の門徒が2本のキリコをかつぐだけだった。
 1965(昭和40)年前後の観光ブームのころ、橋元信勝さん(昭和30年生まれ)の家は旅館をいとなんでいた。5月の連休や夏休みは、「廊下でもいいから寝かせてくれんか」とたのまれ、橋元さんの四畳半の勉強部屋にも客を泊めた。夏は派手な花火も打ち上がった。当時の見附島商店会は100軒以上が加盟(2014年は20軒)し、パチンコ屋もそば屋も旅館もあって「銀座通り」とよばれた。
 そんななか、これまでキリコがなかった2つの町内の若い衆が「なにかやろう! 私らもキリコをつくろう」とキリコを新調した。

軽量化でかつげるキリコに

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 民宿をいとなむ田崎正彦さん(昭和20年生まれ)の町内は、山間の柳田村(能登町)から買った高さ13メートルの古いキリコをかついでいた。木材はアテ(ヒノキアスナロ)だから2トン以上の重さがあった。重いからかつぎあげられず、鉄板をかましてひきずって巡行していた。とくに海から上陸するときは重くて、ロープをかけてひっぱりあげていた。
 田崎さんが45歳だった1990年ごろ、そのキリコを600万円かけて新調することにした。木材は寄付であつめた。
 カタネ棒は杉に、屋根は軽いキリをつかい、1.2トンに軽量化した。1年かけて完成したキリコを「七夕キリコ」でかつぎあげたとき、制作した大工は涙をながしてよろこんだ。
「ずっとキリコをひきずってたけど、みっともないさかい、きちっとかっこよく、きれいにかつぎたいって思っていた。それが実現できてうれしかったぁ。台車をつけてないキリコは宇出津とここと柳田ぐらい。台車つけたらキリコの意味がねぇ。ぜったいかつぐんだって、意地やね」
 ただ、高齢化がすすみ、キリコ1基あたり70人という担ぎ手をあつめるのは大変だ。近所の医院は、取引先の薬問屋の社員らに協力をもとめていたが、ある年、不幸で医院が参加できなかった年は担ぎ手がたりず、そのキリコは海にはいれなかった。最近は金沢などの大学生の協力をあおいでいる。
 七夕キリコは開催するのに約1000万円かかるが、補助金は商工会議所からの20万円だけ。あとは市民から寄付でまかなっている。

「日本一の提灯」は消滅

 珠洲市の中心でひらかれる「珠洲まつり」ではかつて高さ14メートル、直径7メートルの「日本一の提灯」がかざられていた。ただこれは、珠洲原発計画にともなう電力3社からの資金が潤沢だった1988年に祭りの目玉としてつくられたものだった。その後、何度か世代交代し、2007年に突風でつぶれたのを最後に姿を消した。
「大提灯は5年間しかもたないのに制作するのに400万円もかかった。補助金をもらって、いやいやする祭りなんてダメだ。うちらの祭りは在所の若い衆の誇り。全部自腹でやっている。『こわれたさかい』ってカネもらうなんて考えられん」
 田崎さんは誇らしげに語った。
 宝立町では1958年まで、塩田がひろがる海岸で「デカ曳山」をひきまわす祭りもあった。2008年に高さ18.5メートル、重さ20トンのデカ曳山を再現し、祭りを復活させている。

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デカ曳山、2012年

祭りの役割〜西山郷史さんにきく

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飯田燈籠山祭り、右が市役所=2012年

 宝立町の4キロ北東に位置する市役所のある飯田町では7月20日に、キリコではなく、高さ16メートルの「燈籠山」をふくむ9基の山車が夜の街を練り歩く「燈籠山祭り」がひらかれる。能登半島では、こうした多彩な祭りが、高齢化で規模を縮小しながらも何百年もつづいている。これらの祭りは、地域共同体のなかでどんな役割を果たしてきたのだろう。能登の民俗にくわしい、珠洲市の西勝寺の住職西山郷史さん(66歳)をたずねた。(2013年)

 生活と祭りの関係について西山さんにたずねると、珠洲市の経念太鼓山の祭りを例にあげた。
 この祭りの山車は幅六尺で、江戸時代の公の道の幅だった。田の道路際は日当たりがよく、重要な苗代田として利用していたから、こっそり道を削って自分の田をひろげる人もでてくる。山車を引っ張ることでその部分をつぶしてしまう。「神を背負った太鼓山が共同体を守る役割を果たしていたんです」
 また、珠洲市中心部の飯田地区でもよおされる「燈籠山祭り」の山車は、以前は毎年土台からくみたて、山で伐採したフジでしめていた。年に一度、山のフジを伐採することで里山をきれいに整備する意味があった。
 砂浜を巨大な山車(デカ曳山)をひっぱる祭りは、揚げ浜塩田をつくるため、砂地をしめる意味があった。日本海側の外浦につたわる国指定の「揚浜塩田」は、まず粘土でかため、その上に砂をしく「塗り浜」だが、広い砂浜がつづく内浦の海岸線では、砂浜そのものをかたくしめて塩田にしていた。曳山は、塩づくりの季節が終わって塩田を休ませる際の作業と秋祭りをかねていた。
 祭りには生活の知恵をつたえる役割もある。
 石崎奉燈祭(七尾市)は、最近まで旧暦6月15日の満月の日にあった。満月の日は明るすぎて魚がとれないから、仏事や祭りをもよおしていた。珠洲市の早船狂言は、「こんな雲なら漁に出てもいいぞ」といった内容を盛りこんでおり、輪島市門前町の「ぞんべら祭り」は、田植えの手順を復習する内容をふくんでいる。
「祭りは、生活の技術を体でおぼえる場でした。能登に集落ごとに祭りがあるのは、生産性が高く、幅広い文化があったことをしめしています。祭りのつたえた生活の知恵は機械化で見向きもされなくなったけど、電気や時計がない時代の知恵は、いつか役だつ時がくるかもしれません」
 世界遺産認定もあって、各地で「あえのこと」などの伝統行事の復活もすすんでいる。だが、観光化やマスコミに注目されることで、祭りが変質するおそれもあるという。
 「あえのこと」は地域によって「田の神様」「あいのこと」と、さまざまな呼称がある。実は「あえのこと」という名は大正時代にはじめて文献に登場する。「あいのこと」は秋祭りと正月の間の行事という意味と考えられるという。12月に神様をむかえるのは本来は夕方だったのに、テレビ放映にあわせるために午後2時ごろにするところが増えた。
「多少の変化はしかたないが、本来の姿からずれていないか検証しつづけなければ、名前だけの行事になってしまいます」
 時代とともに意味が変化する祭りも多い。

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もっそう飯=2012

 輪島市の久手川町地区の「もっそう飯」は、2月16日早朝に住民があつまり、大きな椀に円筒状に盛ったごはんを食べる風習だ。「もっそう」はごはんを盛る円筒状の木枠のことで、その量は茶碗10杯分の5合もある。
 江戸時代、加賀藩の年貢のとりたてに苦しんだ農民が隠し田をつくり、その米を腹いっぱい食べたのがはじまりで、黙々と食べるのは、口げんかから仲間割れして、隠し田の秘密がもれるのをふせぐためとつたえられている。だが西山さんは言下に否定する。
「隠し田伝説はあとからつくられました。あきらかにオヒガシ(真宗大谷派)の報恩講の流れであり、『来年も豊かに実ってほしい』」という行事です」

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名舟大祭の御陣乗太鼓=2012年

 輪島市名舟に伝わる「御陣乗(ごじんじょ)太鼓」は、1577年に上杉謙信の軍勢が名舟に攻めこんだ際、鬼や亡霊の面に海藻の髪をふりみだして太鼓を打ち鳴らして奇襲して上杉軍を撃退したとされるが、これも昭和40年代につくられた話だという。
 輪島前神社の中村裕・宮司によると、海士町の住民が400年前に加賀藩から漁場として舳倉島をあたえられたが、舳倉島は本来、名舟に属する島だった。その後150年間、明治になるまで島の争奪戦がつづいた。その争奪戦で、面をかぶって太鼓たたいて夜襲をかけたのが御陣乗太鼓のはじまりという。
 では、祭りや行事の本来の姿をどう継承すればよいのだろう。
 西山さんによると、戦時中の国家主義への反省から、戦後は地域教育に力を入れ、学校の先生が子どもをつれて郷土について調べる教育が広まった。だが今、地域にはいって指導できる先生がいなくなり、大学の研究者も現地を歩かなくなった。地元の子が農林漁業の技術を学び、地に足のついた行事の継承に役だっていた水産高校や農業高校もなくなった。
「本来の意味が薄れてきたとはいえ、能登は伝統行事がよくのこっている。能登にこそ県立博物館や研究機関をもうけ、文化や行事をきちんと記録・解説する本をつくっていく必要があります」

キリコは津波で流出

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崩れた見附島

 2024年1月1日、能登半島地震にともなう津波で、宝立町の鵜飼川の河口ちかくにあったキリコの倉庫が津波の直撃をうけ、大キリコ4基と子どもキリコ1基が流されて全滅したと報じられた。
 私は40日後の2月11日、現地をおとずれた。見附島は大きくくずれ、もはや「軍艦」ではなくなっている。七夕キリコの浜は津波で漁船が打ち上げられている。

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津波で打ち上げられた漁船
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宝立のまちなみ

 観光ブームのころ100軒の店がならんでいた街は、ほとんどの電信柱がななめにたおれ、家々は倒壊し、マンホールが道路がつきでている。空間がゆがんでいるようで、めまいがする。

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飯田の中心

 市役所のある飯田町も、商店街のあちこちの家がつぶれ、かろうじて形をたもっていても、多くの家屋に「危険」という応急危険度判定の赤紙がはられている。
「祭りのつたえた生活の知恵は機械化で見向きもされなくなったけど、電気や時計がない時代の知恵は、いつか役だつ時がくるかもしれません」
 電気も水道も破壊された被災地で、西山さんの言葉を思いだす。西山さんが住職をつとめる西勝寺をたずね、民俗学の見地から、今回の地震をどうとらえ、復興の道をどうさぐるべきか聞きたかった。だが「西山先生は2022年に亡くなりました」と聞かされた。
 中心街にある乗光寺は山門や寺をかこむ塀はくずれたが、本堂などは無事のようだ。境内ではボランティア団体が炊き出しをしている。坊守をつとめるノンフィクションライターの落合誓子さんは珠洲原発反対運動の中心人物のひとりだった。残念ながら落合さんには会えなかった。
 近所で理容店をいとなむ橋本弘明さんをたずねた。彼もまた原発反対運動の闘士だった。
 次に橋本さんの歩みを紹介したい。(つづく)

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