県道のすぐ脇の志賀原発
能登半島地震調査2日目、2月11日。志賀町のビジネスホテルを朝7時に出発。この日は、輪島市門前町と同市の中心部を見て回る予定だ。県道36号線を北上、20分ほどで志賀原子力発電所の横を通り過ぎた。びっくりした。道路からこんなに近い原発は国内でも珍しいのではないか? 少なくとも筆者が見た原発では最も近い。かなり怖い。
駆け出しの松江支局時代に、原子力発電所の担当を買って出て数年間、京都支局でも反原発団体との付き合いを深めていただけに、この無防備さに驚いた。ちなみに、読売新聞は全社的に「原発容認派」だったので、非常に取材がしにくかった。なので、松江支局時代もネタを取るために会社に内緒で「反原発団体」に所属した。島根県警はこの団体を「新左翼」とみなしていたから、サツ回りでも内緒にしていた。少しだけ、能登半島に来て、前日の珠洲市の原発建設計画を聞き、志賀町の原発を見て、昔を思い出した。藤井満さんも「原発建設には反対」と言い、道中、朝日新聞社内での原発の取り組みなどを興味深く聞いた。東日本大震災後の朝日は「原発反対派」であるが、最近、ちょっと風向きが変わってきているようだ。
重伝建シンボルの文化財も倒壊
国道249号線を北上して1時間ほどで輪島市門前町に入った。同町赤神の道の駅を過ぎ、同町南の真宗大谷派(東本願寺)新巻山本誓寺。五木寛之氏が「百寺巡礼」で紹介した古刹である。かなり傷んでいる。
8時半過ぎに黒島地区に到達。ここは北前船の船主や船員の居住地として栄え、2009年に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている。なかでも国指定文化財「旧角海町住宅」は、黒釉薬瓦に黒い下見板張りの外壁、格子の独特の外観を持つ、現存する黒島の代表的な廻船問屋住宅であるが、心配していた通り、完全に崩れ落ちていた。 2007年震度6強だった前の能登半島地震で大きな被害を受け、ようやく復興していたのに。周囲の住宅も多くが倒壊している。ホンマに残念だ。
住民独自の炊き出しを補完するボランティア
9時過ぎに、道下(とうげ)地区に入る。前回の地震でも非常に大きな被害を受けた地区だった。酷い! 言葉を失う。前回の地震で何とかもった建物はほぼ全壊。前の地震で壊れて建て直した住宅は大丈夫だったが、9割近くが全壊と見える。確か前回、この辺りを歩いた記憶があるが、これ程酷くはなかった。震度6強と震度7の破壊力の差を見せつけられた。しばらく地区内を歩く。1階が完全に崩れ落ち、2階の大きな瓦屋根が被さっていたり、横倒していたりする住宅。電信柱が傾いている。地区の諸岡公民館にたどり着いたところ、ちょうど、「富山県青年海外協力隊OB会」と書いた車が着いた。
神戸学院大学の学生ボランティア活動の事前調査も兼ねていたので、厚かましくも代表らしき人に声をかけてみた。驚いたことに、神戸学院大学を名乗って名刺を出すと、筆者を知っているという。元常葉大学浜松キャンパスで教員をしておられた渡邊雅行さん。同大学教授で災害心理や社会貢献学を教える木村佐枝子先生を通じて知り合いだそうで、立ち話をして、後日、メールで詳しくここにボランティアに入った経緯などを教えてくれた。
渡邊さんは現在、富山市内の民間精神科病院で作業療法士・理学療法士をしながら、JICA青年海外協力隊の技術顧問。青年海外協力隊OBや元JICA職員らが輪島市と縁があることから、有志10人ほどが休日の前日に、仕込み、炊き出しの活動を継続されているということだった。「この避難所では、地域の住民が役割分担し、普段は自分たちで炊き出しを行い、外部からの支援者が炊き出しをしてくれると、その間、自宅へ戻って片付け作業が出来るので感謝されている」と渡邊さん。「ありがとう」「おいしかった」「また、いつでも来てください」と声を掛けられたという。
避難所によっては外部の人を入れなかったり、自分たちで炊き出しが出来なかったりする所では、支給されるパンやおにぎりのみで栄養状態も良くないところもあるとここの代表から聞いた。ありがとうございます。こういった情報が非常に助かるのです。近いうちに大学生をボランティアで連れてきて、少しでも役に立ちたいと思う。元の門前町役場、現在の総合支所前の曹洞宗大本山総持寺へ。ここの被害も酷い。暗澹たる思いで後にした。
応援の三重県いなべ市職員を訪問
1時間弱で輪島市役所に到着。藤井さんは知人の家を回って来ると市内へ。筆者は市役所で総務省からの派遣で行政支援している大月浩靖・三重県いなべ市防災課課長補佐の陣中見舞いに。受付で「三重県から支援に来ている大月さんを」と告げると、少し首を傾げられたので、「極めて元気なお兄ちゃんです」と付け加えると、「ああ、あの方ですね。元気な方」とすぐに内線電話で呼び出してくれた。地震発生以来、3度目の支援だそうで、2回目はインフルエンザに罹患し「強制送還されました(笑)」と言う。発災後かなり早い時期から来ていたので、直後の輪島市の災害対応、石川県の対応などを、こそこそ話で聞き、ボランティアの受け入れ、同センターの位置などを聞き、退散した。防災仲間はどこに行っても、温かく迎え入れてくれるが,長居は禁物だ。
石川県のボランティア対応の異常さ
歩いて10分ほど、大きなショッピングモールの一画にボラセン(VC)があった。「輪島市災害たすけあいセンター」。県のボランティアバスが1台止まっている。数人が手持無沙汰で座っている。一番年長の方に声を掛けた。この日のボランティアは金沢市からバスで来た40人。ここ数日、この数字だそうだ。石川県の場合、県がボランティアを統率している。他の都道府県では被災地の社会福祉協議会がボラセンを立ち上げて、ボランティアを受け入れているが、石川県、特にこの能登半島地震では、半島という地理条件や、発災後の道路寸断などの状況をみて、しばらくは「ボランティアは来ないで」とした。
ようやく2月も中旬になって、県が統括してボランティアを受け入れることになったが、HPに事前登録し、それも金沢から出る県指定のバスで行くのみに限られている。こんなのは、阪神・淡路大震災以降、東日本大震災、熊本地震、その他各地で毎年のように発生している水害でもなかった。
ついでに言えば、様々な防災関係者仲間によると、今回の地震に対する石川県の対応は異例中の異例だという。つまり「信じられない対応」という。県の災害対策本部会議が地震発生後、1週間も開かれなかったなどなど。それはそれで、石川県独自のやり方や問題点もあるのだろうが。そもそも、馳知事が発災後、しばらく石川県におらずに東京から指示を出していたというのも信じがたい。閑話休題、ボランティアに戻ろう。
「ボランティア拒否」はダメ
輪島市社会福祉協議会の荒木正稔さんは、こう言う。「今はまだ、一般のボランティアの方に活動していただけるまでの準備というか前段階の調査ができないという状況です。もちろん、全国からたくさんのボランティアに来ていただきたいのですが、まだ、その時期にはないというのが現状です」。なるほど、確かに素人というかボランティア初体験の人たちはまだまだ、難しいだろう。断水が続いていて、トイレ事情も宿もままならない段階では。しかし、倒壊家屋の撤去などに必要な重機ボランティアや、熟練の聴きボラや避難所に深く関わっている専門ボランティアまで排除する理由にはならないだろう。つい先日、NHK大阪のラジオ番組に出演した渥美公秀・大阪大学大学院人間科学研究科教授は言った。「いろんな事情があっても、ボランティアに来てもらっては困る、は困ります。様々なボランティアを受けていけるよう、石川県には柔軟な考え方をもってほしい」。おっしゃる通りです。
輪島市朝市の火災現場へ。一言で言って涙が溢れた。また、溢れた2007年の地震の後、「能登のキリコ祭り」が復活した8月25日、娘と一緒に祭りを見に訪れた。朝市近くの民宿に泊まった。その辺りはほぼ全壊だ。朝市の焼け跡はまるで、阪神・淡路大震災の長田の火災現場を思い出させた。また、涙がこぼれた。
地方記者の原点とは……
輪島の中心街では、藤井さんと別行動だった。彼はきっと多くの「友人」たちと会って、ミカンとあの本を渡して、再会を約束したのだろう。新聞記者の原点を地で行く人だ。ふと、水谷豊演じる「地方記者立花陽介」を思い出したので、そう言ったら、藤井さんは言った。「ぼく、事件に弱いし、水谷豊みたいに男前やないです」。後からいくつ地方を回ったのか聞いた。初任地は静岡、そして松山、京都、大阪、松山、大阪、松江、輪島、紀南(和歌山県田辺市)、大阪、富山だって。それで、50歳過ぎに朝日を辞めた。すごいな! まさに「地方記者藤井満」だ。そのうえ、輪島と同じように地方支局では、ほとんどその地に根ざした連載記事を書いていたという。全く素晴らしい。読売新聞でも昔は、ずうっと同じ地方支局管内の通信部にいたベテラン記者はいたし、最近では50歳を過ぎたころから、ローカル専門の記事を書く記者もいるそうだが、藤井さんは当に「記者の鑑」と言える。この番外編を書こうと思ったのは、藤井さんと一緒に調査(取材)したからだ。そして、思い出した。記者として大切なことを。(つづく)
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