大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」73 番外編 能登半島地震調査1 安富信

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 本来なら松江支局長編を続けるはずだった。やっと再開したばかりだ。しかし、またも、予定変更だ。この連載の見出しやレイアウトなどをしてくれている元朝日新聞記者の藤井満さんから2月7日に電話が入った。
「安富さん、能登に行かないのですか? 知り合いの人がいたら、教えてください」
「藤井さん、能登よく知っているの?」
「ハイ、輪島支局に4年ほどいました。知り合いの人たちが心配なのと、大好きな能登がどうなっているのかと思って。とりあえず今週末に行ってきます」
早速、輪島に滞在している日本避難所支援機構(JSS)事務局長の金田真須美さんに連絡した。あいにく、2度目の滞在を終えて一旦、神戸に帰って来るという。残念。ふと思いついた。今度の3連休は大学関係の仕事がない。藤井さんはマイカーで能登入りすると言ってた。厚かましくも、同行をお願いしたら、藤井さんは快諾?してくれた。10日の土曜日に金沢まで特急サンダーバードで行き、11,12日と能登半島を訪れた。

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観光客でごった返す金沢

夕方に着いた金沢は雨模様だったが、3連休初日、観光客でごった返していた。まるで阪神・淡路大震災の大阪、東日本大震災の仙台のようだった。それはそれでいいのだが、被災地に直接、人とお金が落ちないのは悲しいことだ。
 おまけにこの時期の金沢のホテルが、べらぼうに高い。ビジネスホテルで軒並み1万5000円以上。困っていると、またも藤井さんからメッセージが入った。「飲み屋街の真中、片町に安いホテルが残ってますよ」。6500円。安い。という訳で、翌日からの英気を養うために片町の藤井さんの行きつけの飲み屋で美味しい日本酒をいただき、カラオケスナックで石川さゆりの「能登半島」を熱唱した。すみません。

奥能登に向かう途中の車内から                穴水町甲地区の避難所 自衛隊の仮設風呂

「母さんの学校食堂」の経験生かし炊き出し

 前置きが長くなってしまったが、翌日からフルスロットルの能登半島被害調査。朝6時過ぎに金沢を出て、「のと里山海道」で一路、奥能登を目指す。朝早く出たのが正解だったのか、途中ほとんど通行止めや渋滞もなく、藤井さんの知り合いがいる穴水町の避難所には9時過ぎに着いた。廃校になった兜小学校の体育館が避難所になった甲地区避難所だ。地震直後最大で300人、この日で80人が避難生活を送っているという。
 ここからが元新聞記者の真骨頂だ。間もなく知り合いの室木律子さん(70)が出て来た。満面の笑顔で藤井さんを迎える。「覚えてますか? 以前に取材させていただいた」。室木さんは「もちろん、よく来てくれました」と避難所の中に招き入れてくれた。聞けば、藤井さんが輪島支局勤務の2011年6月から2015年3月まで、朝日新聞石川版に1人で取材・連載した記事のうち、「女性が復活『かぶらずし』」で取材した人だった。
 カブに塩サバを挟んでこうじ漬けにした「かぶらずし」は、カブの甘みと酸味、サバのうま味が絶妙で穴水町を代表する特産品となっていたそうで、40年前に室木さんら女性たちが「曽良かぶら生産組合」を作って復活したという。さらに、室木さんたちは、兜小学校が2008年に閉校になったのを機に、曽良地区と甲地区の女性6人で「母さんの学校食堂」を2013年にオープンし、山菜の天ぷらやサヨリのフライ、タコ飯などを作るようになった。それが今、避難所の貴重な炊き出しとして生きている。室木さんは藤井さんに言った。「よう忘れんと来てくれました。ずっと忘れないでね。この穴水を」。「もちろんです。また来ます」と藤井さんはお土産のミカンの袋を渡した。

室木さん(左)に取材する藤井さん                甲地区避難所の入り口
甲地区避難所の内部を特別に見せてもらった。畳やエアーベッドが揃っていた。

原発を拒否した珠洲

 穴水町を後にして奥能登に向かう。能登町宇出津の海岸沿いの町で藤井さんの知り合いを探したが、見つからず、珠洲市へ。東海岸の軍艦島が大きく削られている。宝立町から飯田町と同市の中心部へ。倒壊家屋の比率が高くなる。傾いた電柱が道を塞ぎ、マンホールが浮き上がっている。
 ここは、以前、原子力発電所建設が計画され、市は賛成派と反対派で二分された。藤井さんは原発建設の是非を巡って何度も取材したという。
 反対派の一人、落合誓子さんは元市議で真宗大谷派(東本願寺)乗光寺の坊守さん(住職の妻)。「泊まれるお寺」としてヨガや染め物体験、昼食作りなど様々な取り組みをしてきた。その乗光寺も大きな被害を受けていた。残念ながら、落合さんには会えなかった。しばらく街中を歩いて、飯田湾に注ぐ若山川に掛かる吾妻橋詰へ。この角に立つ理髪店店主橋本弘明さん(76)も原発反対派だった。偶然、奥さんが自宅前に出ておられたので、声をかけて、橋本さんにも会えた。
「いやあ、原発が出来ていたらどうなっていたか! 誰も声を出して言わないけど、『止めて良かったな』と思ってるよ。それにしても、酷い揺れだった。うちは何とか立っているが、傾いているよ。この辺りの家で被害のない家なんてないよ。津波? ほら、向こうの海岸沿いに2,3m以上来たんじゃないかな。新築の家が無茶苦茶やられているやろ」
 久しぶりに会った藤井さんに気さくに話す。奥さんも笑顔で話してくれるが、断水は続いており、厳しい生活が続いているようだ。

珠洲市・見附島(軍艦島)                   電柱が傾いて道路を塞いでいる
珠洲市の中心部
液状化で浮き上がったマンホール   仮設住宅?と災害ごみ
珠洲市狼煙町で活動するボランティア            能登半島最果ての海岸

在来種の大豆を復活させた北端の集落

 能登半島の北端に向かう。途中、仮設住宅が見えた、災害ごみが山積みの所も。ここでも藤井さんが取材した狼煙町の二三味義春さん(77)に会いに行くが、留守だった。避難所ではボランティアの人たちが働いていた。二三味さんは、この地でかつて栽培していた「大浜大豆」という、大粒で黒いへそのある在来種の大豆を復活させ、町おこしに尽力した人だ。娘の仙北屋葉子さんは、同市木の浦海岸にあるカフェで自家焙煎の「二三味珈琲」を提供しており、2015年に公開された映画「さいはてにて」のモデルになったことも、藤井さんは教えてくれた。彼はここでも、持参したミカンの袋を置いていった。

 この後、珠洲市の海岸沿いを回ったが、途中、崩落した巨岩が道路を塞ぎ、通行を断念した所もあり、夕方、たまたま予約できた志賀町のビジネスホテルに向かった。半島内にはほとんど泊まれるホテルや旅館がないと聞いており、車中泊も覚悟していたが、地震後2度も能登に入った同僚先生のアドバイスのおかげで宿を確保できた。ありがたいことだ。

 実は、藤井さんはミカンと一緒に過去に取材した人たちに1冊の本を持参していた。輪島支局時代に連載した「能登の里人ものがたり 世界農業遺産の里山里海から」。ホテルでくつろいでいると、二三味さんから電話が入った。「あの本、仲間に配りたいから100冊ください」。藤井さんはまた必ず行くと約束した。(つづく)

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