「長く生きられない」と言われた奈緒ちゃん、50歳になりました。ヒューマンドキュメンタリー映画『大好き~奈緒ちゃんとお母さんの50年~』

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奈緒ちゃんは、生後間もなく難治性のてんかんと知的障がいがあることがわかり、医者から「長く生きられない」と言われました。その奈緒ちゃんが50歳になりました。家族に地域に育まれ、家族を地域を育んだ歳月…。「いのち」を見守り続けた50年間におよぶヒューマンドキュメンタリー『大好き~奈緒ちゃんとお母さんの50年~』の誕生です。奈緒ちゃんはお母さんが大好き。お母さんは奈緒ちゃんが大好き。50年におよぶ大好きの記憶。

7月28日、大阪・十三のシアターセブンで映画『大好き』の先行上映が行われ、上映後、伊勢真一監督が舞台挨拶を行った。その模様を報告します。

伊勢監督

うしろでずっと観たんですね。自分でつくってて言うのも、おかしいかもわからないけれど、良い悪いというより、好きな映画という感じですかね。

『大好き』は、奈緒ちゃんをずっと撮り続けた50年の記録です。‘奈緒ちゃんシリーズ’の第5作となります。ムービーを撮影したのは42年間ですが、奈緒ちゃんが生まれた時に写真を撮っています。ムービーを撮るまで僕は、映像の仕事で一人前になるために必死になっていました。奈緒ちゃんが生まれた年に僕も映像の仕事を始めているんです。だから、僕も50年やってきて、そういう思いも含めて、「奈緒ちゃんとお母さんの50年」と言わせてもらっています。

最初に奈緒ちゃんの映画をつくったのは、もう30年前になります。最初に奈緒ちゃんの映画をつくった時、映画館で観せようと思ってつくり始めたわけではありませんでした。「長くは生きられない」と言われていた奈緒ちゃんの元気な姿を形に残すには、写真じゃなくてムービーの方が絶対いいなあと思って、それで、映像の仕事をしている先輩に声を掛けて一緒に撮り始めました。奈緒ちゃんが公園で遊んでいる姿や家族と食事をしている様子などを撮影して、5分か10分の短いムービーをつくってプレゼントするとしたら、おじさんとして姪っ子の奈緒ちゃんへいいプレゼントかなあ、そういう軽い気持ちで始めたんです。やり始めると、すごく奈緒ちゃんと奈緒ちゃんの家族にひかれたと思うんですけれども、止められなくなっちゃったんです。

伊勢監督の実姉がお母さんの西村信子さん。その娘が1973年生まれの奈緒ちゃん、西村奈緒さん。

ずっと撮影を続けていくうちに、撮影スタッフの瀬川順一さんというベテランのキャメラマンが「もしかしたら、これ、完成させないという映画にしたら、いいかもしれない」と真面目に話をしていました。スペインの建築家ガウディのように、完成させない、ずっと撮り続ける、そういうドキュメンタリー映画があっていいんじゃないか、二人でそういう話をしました。

奈緒ちゃんの元気な姿を撮る、それだけしかなかった、何かテーマを考えて、福祉のことについてああだこうだとか、そういうことを考えて撮り始めたわけではありません。けれども、ずっと撮り続けて11年目に、キャメラマンの瀬川順一さんが末期がんの告知を受けてしまったんです。「完成させない」と言っていたけど、完成させて、映画の世界でずっと生きてきた瀬川さんに観てもらうものにしようと思って、『奈緒ちゃん』という映画にまとめたんです。「長くは生きられない」と言われた奈緒ちゃんをずっと撮り続けたキャメラマンの命が限られたということで、なんとか完成させて、瀬川さんに観てもらうことができました。その半年後、瀬川さんが亡くなりました。

奈緒ちゃんシリーズ

第1作『奈緒ちゃん』(1995年)

奈緒ちゃんの、9歳から成人式までの12年間を追ったヒューマンドキュメンタリー。伊勢監督の長編デビュー作。

自分にとって、これまでかなあ、瀬川さん以外のキャメラマンとやるのは考えられない、そういう感じがありました。映画『奈緒ちゃん』が完成してから、一つには、すごく自主上映をやってくれる人たちがどんどん出てきて、ずいぶん自主上映会をやってもらいました。もう一つは、「奈緒ちゃんはその後、どうですか」とか「奈緒ちゃんのお母さんがつくった作業所『ぴぐれっと』はどうなっていますか」とみんなに聞かれたりしました。映画『奈緒ちゃん』が完成して2、3年して、僕も「もうこれ以上撮れない」ということではなくて、それこそ、瀬川さんと「完成しない映画をつくろう」というような気持ちで、奈緒ちゃんが元気なうちはともかく撮り続けようと思ったんです。それで、2作目の『ぴぐれっと』という奈緒ちゃんのお母さんがつくった作業所の映画をつくって、その次は『ありがとう』、それから『やさしくなあに』をつくりました。

第2作『ぴぐれっと』(2002年)

奈緒ちゃんのお母さんと仲間たちは、地域作業所『ぴぐれっと』を立ち上げ、ハンディキャップを持つ人々やその家族を支える場へと成長していく。

第3作『ありがとう』(2006年)

奈緒ちゃんは30歳を越える年になり、家族はグループホームへの自立を考え始まる。奈緒ちゃん一家それぞれの、自立と成長の物語。

第4作『やさしくなあに』(2017年)

奈緒ちゃんと家族の日々を見つめ続けた35年の記録。「奈緒ちゃんが生まれたから、生きたから、たくさんのいのちが生きた」奈緒ちゃんは44歳、元気です。

映画『やさしくなあに』をつくるきっかけは、2016年7月の相模原障がい者施設殺傷事件です。この事件に非常にショックを受けました。というのは、奈緒ちゃんの姿を撮り始めたり、最初の映画が完成した頃に比べて、障がい者に対するいろいろな制度が出来たり、施設が出来たり、ずいぶん良くなって来たんじゃないかなあというふうに思い込んでいたところがあって、決して、そんなことはないんだと気付かされました。相模原事件の犯人が言った「障がい者はいない方がいい」「生きる価値がない」「社会にとって無駄な存在だ」に対して、ずっと奈緒ちゃんを見て来た自分が奈緒ちゃんのことを描くことで、そんなことはないということを伝えたいと思いました。それでつくったのが第4作の『やさしくなあに』です。もう一つは、奈緒ちゃんの映画の撮影と並行して、脳性マヒで寝たきりの学生時代の友人をずっと撮影してつくった映画『えんとこ』の続編の『えんとこの歌』をつくりました。

映画『えんとこ』(1999)

伊勢監督の学生時代からの友人、遠藤滋さんは脳性マヒで寝たきり生活を強いられながら介助の若者たちと共に生きてきた。「えんとこ」”縁”のある”トコ”。寝たきりの障がい者、”遠”藤滋のいる”トコ”。遠藤滋と介助の若者達との日々を3年間にわたって記録したドキュメンタリー。

映画『えんとこの歌~寝たきり歌人・遠藤滋~』(2019)

ベッドの上で歌が生まれる。遠藤滋と介助の若者たちとの触れ合い、25年に及ぶ相聞歌。

ここまで撮れれば、撮り続けることもないかなあと少し思ってたんですけど、奈緒ちゃんの元気な姿を追っていくと、奈緒ちゃんの家族の中で、一番元気なのは奈緒ちゃんみたいな感じになってきました。そんな中、お母さん、僕の姉ですけど、心臓の病気を患います。「もしかしたら自分は長くないかもしれない」と言い始めたりしました。「終活を始めた」と言ってきました。僕は終活がどういうことなのかあまり知らなかったのですが、葬式をこういうふうにやるとか、遺言をどう残すとか、形見をどうするとか。姉に言わせると、自分の周りでは結構、流行っている、終活グッズもあるんだということでした。姉は終活のすべてをやり始めました。奈緒ちゃんに残すこと、長男の記一に残すこと、それをちょっと見せてもらううちに、ずっと奈緒ちゃんを撮って来た自分としては、「長くは生きられない」と言われた奈緒ちゃんが50歳まで生きてきた、もう一度ちゃんと奈緒ちゃんの家族をみることで、語りかけるような映画をつくることには意味があるかなあと思いました。撮影を再開して、完成させたのが今回の映画『大好き』です。新たに撮影した2年ぐらいの映像、今までの42年間の映像、奈緒ちゃんが生まれた頃の写真、これら全部を見直しました。だから編集には1年以上かかりました。撮影まで何とかいっても、上映がどうかなあと思いながら、はじめてなんだけど、はっきりしたカンパを要請して、今まで奈緒ちゃんの映画を観てくれた人たちがカンパを寄せてくれたりして、それで最終的に出来上がったということです。

第5作の『大好き』が完成して、封切りの上映が始まる頃に、旧優生保護法が憲法違反であるという最高裁の判決が出ました。この法律ができたのは戦後の昭和23年です。僕は昭和24年生まれですから、生まれる前の年にできたんです。どうしてできたかというと、戦後、僕らは団塊の世代と言われて、ともかく戦後の復興のために、労働力が必要だから、生産性の上がるために労働力が必要だから、「産めよ、殖やせよ」と言って子どもをどんどんつくろうと。そのことと同じ時期に日本の国は、戦力にならない人はいらない、不良な子孫をつくるな、という法律をつくったんです。この法律がいつまで続いていたかというと1996年までです。相模原事件の犯人は、自分はいいことをしたんだ、国や社会が考えていることをただ実行しただけだと言ったのは、その通りだったんです。2018年に、優生保護法によって被害にあった人たちが国はきちんと謝罪するべきだ、と国を相手に裁判を起こしました。最高裁がしっかりしていたのは、国がちゃんとすぐに謝罪し補償するべきだと判決して、それから、国は20年の「時効」があるから謝罪も補償もしないと反論していたけれども、最高裁は人間性にもとる、正義にもとることに関しては20年の「時効」は成立しないと判断しました。何が言いたいかと言うと、知らないことが結構あったことと、てんかんも降ろしなさいという病気の一つだったことです。

映画『大好き』は旧優生保護法のことを意識してつくったわけではありません。僕は、ドキュメンタリーは問題を撮るのではなくて、人間を見るんだと考えています。一人の人とか一つのことをともかく、時間がかかってもいいから、しっかり見る、いろんなことを知識として集めるんじゃなくて、一人の人、一つのことをしっかり見ていく、これがドキュメンタリーの基礎だと思うんです。何を見ようとしたのか、と思いながら、編集して映画に仕上げます。正直に言うと、自分が撮ったものでも最後まで何を言おうとしたのかなあとわかりきらない場合もあります。それでもいいと思うところがあります。要するに、最初からわかって撮るんじゃなくて、わからないから撮るんで、わからないから撮りながらわかったから撮り終えるんじゃなくて、わからないまま撮るわけですよ。今回の『大好き』で言うと、命のことをどういうふうに見ていくか。お母さんが映画『大好き』の中でこう言っています。

「今は羊水検査で障がいがあると分かった人は産まない人もたくさんいるらしく、そういうことがわからない時に、奈緒さん、生まれてきてよかったなってね」

羊水検査がない時代に奈緒ちゃんが生まれてよかった、要するに、奈緒ちゃんに育てられたということを盛んにお母さんは言っています。もしも、奈緒ちゃんが奈緒ちゃんでなかったら、自分は育たなかったということですね。作業所のぴぐれっとの仲間たちも、障がいがある人たちとのかかわりが自分たちを育てたとはっきり、思っています。

お母さんは相模原事件について、映画『大好き』の中でこう言っています。

「私…あの事件起こした人、あの人がね、特別だとはね、思わない。必ずああいう人はたくさん潜んでるはずで、いるはずで、そういう人をつくった社会がやっぱりよくないのよ、と思う」

要するに、社会の問題、社会的責任、社会がもっとちゃんとフォローできて、社会の目が変わっていって、障がいがあっても生きていけるというふうになっていけば、この子はこの子としてちゃんと育てようと思うはず。社会全体がまだそういうところまでいっていなくて、むしろ、逆行しているような、生産性を上げることの方にまっしぐらにずっと走ってきている。日本の社会だけじゃないんでしょうけれど、特に日本の社会はそういう傾向が強いかもしれません。

映画『大好き』はこういう問題意識でつくったわけではないんだけど、ただ、奈緒ちゃんとお母さんの相思相愛の物語をつくってプレゼントするっていいかなあと思ってつくったという感じなんです。でも、観てもらって、自分の身近な、すぐ近くにいる、奈緒ちゃんのような存在、障がいがある存在だけじゃなくて、手助けが必要だったり、あるいは自分自身も含めて自分自身も病気になったり、障がいになったり、年老いたり、みんなするわけです。こういうことを、ひと時思うというふうに、この映画を受け止めてもらえたらいいかなあと思います。

映画のパンフレットもつくりました。このパンフレットの中から一つ紹介しようと思います。遠藤滋、一昨年死んじゃったんですけど、俺の友達で、映画『えんとこ』の主人公です。あいつに映画『大好き』を観せたらなんて言っただろうと思ってたら、彼が映画『やさしくなあに』を観て、一言寄せているメッセージがあって、これはもしかして、『大好き』を観てたんじゃないかなあと思うぐらいでした。ちょっと読んでみますね。

「人は”私“であるよりも前に一つの”いのち“です。

そのいのちは元々決して平等ではありません。

だからこそお互いにその人権を尊重し合い、守り合う必要があるのです」

〇編集担当:文箭祥人  1987年毎日放送入社、ラジオ局、コンプライアンス室に勤務。2021年早期定年退職。

●映画『大好き』特設サイト

〇大阪・十三のシアターセブンで、映画『大好き』が9月7日(土)より上映。さらにシアターセブンでは、「奈緒ちゃんシリーズ」の4作品の上映、そして監督生活50年の伊勢真一監督ヒューマンドキュメンタリー特集上映も行う。上映情報はシアターセブンのHPに掲載。

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