『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』著者・大森淳郎講演会〈後半〉

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大森淳郎さん

『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』の著者、大森淳郎さんの講演会に放送局や新聞社の記者や制作者が集まった。講演後、大森さんに質問が投げられた。

Qなぜ、日本放送協会の人たちは戦意高揚の仕事を自分たちのやらねばならない仕事だと強く思うようになったのか?

大森

まさに、それが知りたくて長い年月がかかったという感じでもあるんですけれど、簡単に答えることはできません。いろいろな人がいたわけです。100人いれば100人の考え方・感じ方があったんだろうと思います。はじめから終わりまで、ラジオは政府の声を国民に伝えるものだと考えた人もいただろうし、そう考えなかった人もいました。

多田不二さんという人がいました。この人は講演放送の責任者だった人ですけれども、元々は詩人です。初期には、戦争や植民地主義を厳しく批判するような詩を書いていましたが、講演放送をリードしていってしまいます。何の悩みもなかったかというと、どうもそうではなかったらしい。自己否定に悶えるような詩を書いています。このように引き裂かれた人もいました。

奥屋熊郎さんは大阪放送局の人です。高校野球の中継やラジオ体操を創設し、「みんなのうた」みたいな番組を制作し、ベートーヴェンだとか文化をラジオを聴く人にもっと知って欲しいと一生懸命にやっていました。日本の放送の父と言ってもいいような人です。奥屋さんは満州事変後もなお、御用放送の方に流れていってしまうラジオのあり方を内部から批判していました。しかし、いつの間にか、戦意高揚の側にいってしまう。でも、途中で気が付いて、1943年に日本放送協会を去っています。

別の大阪局の一人は、アメリカのラジオ局員が書いた文章を翻訳して発表します。それは、放送は御用放送であってはいけない、民主的でなければいけない、弱い人の立場から放送しなければいけない、という内容です。どんどん御用放送化する東京に対して大阪から物申すという一撃だったと思っています。

本を書きながら、頭から離れない問いがあります。「お前だったらどうした?」という問いです。僕はドキュメンタリーを中心に仕事をしてきましたが、戦意高揚のための戦時中のドキュメンタリーは工夫の跡が見られ、上手にできています。制作者はきっと、おもしろくてしようがなかったと思います。だから、他人事じゃないと思います。

Q戦時中、日本放送協会にジャーナリズムはなかったのか。

逓信省の田村謙治郎という人物が、1934年に日本放送協会の定時総会の場でこう言っています。

<ラジオは最早、世情の流れに引き摺られてプログラムを編成する時代ではないのでありまして、一面民衆の要望に調和して行きますと同時に、他面に於いて時代を率い、民衆をして追随せしむるに足るところの権威あるプログラムを編成しなければならぬと考える次第であります。これが為には先ず第一にジャーナリストの思想を一掃しなければならぬ…>

日本放送協会の総会ですから、協会の職員に向けて述べたと思いますが、「先ず第一にジャーナリストの思想を一掃しなければならぬ」と言っています。残念ながら、ジャーナリストの思想は一掃されていってしまった、と言っていいと思います。

この発言から9年後の1943年、当時の日本放送協会の報道部、教養部、演芸部などの部長が集まって、座談会が開かれました。企画部長兼教養部長だった人はこう言いました。

<放送を国家の宣伝機関として、言い換えればチンドン屋ですね、その程度に放送は宣伝機関だという考えで行くのは一向差し支えないと思う>

「チンドン屋」と卑下して言っているのではありません。ラジオは速く、広く、伝えられる大きな力を持っている、そういう矜持の元に、ラジオは政府のチンドン屋だと誇りを持って語っています。それから、これは怖いことですが、ラジオを聴いている国民にラジオがチンドン屋であることがばれてはいけない、と一貫して主張しています。

日本放送史の研究者、竹山昭子さんが強調しているのは、日本のラジオはナチス・ドイツが手本だったということです。ゲッペルス宣伝相が強調したのが、ラジオを聴いている人のことを考えなさい、だから強面の演説一色にしてはダメ、音楽や演芸番組を大切にしなさい、そうやって、ラジオを聴かせる、そのもとで何らかの宣伝をしていく、ということでした。これがナチス・ドイツのラジオについての大きな考え方だったんです。それから学びながら、日本のラジオは形作られていったんだ、と言っています。

Q当時の日本放送協会の人たちは聴取者の反応をどう受け止めていたのか。

1932年、「どんな番組を望むか」「どういう放送を希望するか」という全国の聴取者を対象にした調査が行われました。調査をしたのは、日本放送協会ではなく、逓信省でした。このこと自体が驚きです。調査の結果、「検閲が厳し過ぎる」という声が多く、また、国家的な放送を望むより、民衆的な放送を望むという声の方が多かったんです。調査は満州事変後で、世の中が右の方向に地滑りを起こして行った時代だったにもかかわらずなのか、逆にそうだったこそなのか、微妙ですが、ラジオはもっと民主的でなくてはならないという声がありました。逓信省が調査結果をどう受け止めたかわかりませんが、調査後を見ると、調査結果は有効に利用されていきます。つまり、ラジオによって国民を戦争に導こうとするわけですから、そのためには、まずは、聴取者のリアルな実相を知らなければいけなかったのです。それを知った上で、当時「善導」という言葉を使っていましたが、どうやって国民を「善導」していくのか、どうやって戦争に協力させるのか、そのために聴取者の声が利用されました。

Q逓信省が行った全国ラジオ調査を、日本放送協会はどう受け止めたのか。

1934年に日本放送協会の中に、放送編成会という組織ができました。あらゆる番組の企画について、審議・決定をする場です。ここには、内務省や文部省の次官クラスも参加していて、政府が直接的に番組の審議・決定に参加するようになっていました。もう一つ、放送審議会という組織がありました。一本一本の番組ではなく、放送の大きな方向性を審議する場です。ここには陸軍、海軍が参加していましたが、放送編成会にも参加したい、と述べているんです。これに対して、日本放送協会はどのように発言したのか。日本放送協会の実態は官庁の宣伝機関だが、外形上は民衆の機関であるように見せかけた方が放送により達成しようとする効果は高まる、だから、軍は我慢してください、と発言しました。調査で、ラジオを聴いている人たちは官庁による放送を嫌がっているとわかっていました。ラジオの調査は無駄ではなかったわけです。

Q占領下のNHKは、占領軍の考えを先取りして放送するようになったと言われている。権力を持つものの考え方を先取りしていくことに恐ろしさを感じる。どう思うか。

戦中戦後、そして占領期、変わらずそうですね。何よりの証左は、検閲に引っ掛かってしまうようなニュースや番組は、極めて例外だったんです。実は、はじめからそういうものは書かなかった、出さなかった、これは戦後においてもそうだったんです。住友公一さん、この人は日本語で書かれたニュース原稿をCIE(民間情報教育局、GHQの一部署)に、これでいいですかと了解をもらうために、英語に翻訳していました。住友さんは「検閲に引っ掛かるようなことはほとんどありませんでした」と話しています。

佐賀放送局のアナウンサーに聞いた話ですが、ニュース原稿に「足が十文もある大男が質屋に強盗に入りました」というニュース原稿が出てきて、アメリカ兵の犯罪を伝えているのだと思い、原稿を書いた記者に「どうして、アメリカ兵と書かないのか」と聞いたそうです。記者は「アメリカ兵と書いたら、どういう問題が起きるのか、お前は考えたことがあるのか」と言ったそうです。ニュースや番組が検閲によって削られまくったかというと、それは大きな誤解で、検閲があるというだけで、ほとんど検閲に引っ掛からなかった、忖度していた、そういうことです。

Q戦前戦中の日本放送協会と戦後のNHK。何が変わったのか、何が変わらなかったのか。

いろいろな資料を掘り起こして、一番何というか、いすから転げ落ちる思いをしたのは、戦後の資料です。「番組企画の基本態度について」という資料があります。NHKの中に、企画委員会という番組企画の最高方針を決定する局内会議がありました。1949年5月9日付けの「番組企画の基本態度について」という文書が全国の放送局現場に向けて通達されました。何が書いてあったかというと、NHKの番組の中には、政府の政策を伝える、周知徹底させる番組が数多くあるとしています。これはそうだったんだろうなあぐらいの感じですが、問題は次です。周知徹底させる番組と相反するようなことを伝えてしまっている番組が最近、一二ある、全国放送、ローカル放送、すべての放送が一体となって同じ線を推し進めていかないといけない、ということを企画委員会が放送現場に言っていたんです。つまり、NHKのあらゆる番組は政府協力する一点で統一されなくてはいけませんよ、と1949年に言っているんです。

1949年に「日本放送協会放送準則」ができ、NHKの放送は政府に協力するものだと明言しました。この準則は放送法ができた1950年をまたいで1959年まで続きました。政府に協力するという考え方が敗戦をはさんで、なおかつ放送法の制定を超えて、NHKの中に残り続けました。もちろん、そんなバカなと言う人たちはたくさんいました。こちらの方が多かったんです。

放送の公共性とは何か、公共放送とは何なのか。正当に選挙された政府の方針を国民に伝えることが公共放送の役割だと固く信じている人たちがいます。放送というのは政治権力と確実に一線を画した自主自立したものでなくてはいけないという人たちがいます。2025年で放送開始100年になります。この二つが100年間、せめぎあいを続けているのだと思います。

Q再び、放送局が率先して国策を宣伝していくという流れが始まる時、番組の採択の変化から始まるのか、それとも、表面的な構成やナレーションなどの変化から始まるのか。最後まで抗うことができるとすれば、どこに可能性があるのか。

企画段階か、最終段階か、両方だと思います。企画段階では、それぞれのプロデューサーやディレクターががんばっているわけです。がんばろうとしか言いようがありません。

この本を書くにあたって背中を押したのは、2001年ETV特集の改変の出来事です。政権の中枢が一本の番組に手を突っ込んで、壊してしまった。そういうことが起こりました。とてつもないことだと思いました。だから、番組改変が明るみになった後、まず検証番組をつくろうと僕らはやりましたけど、結局、何もできませんでした。これは全然、昔話ではありません。政治権力が番組に介入してくるという意味でも変わっていないわけだし、それに最後まで抗い切れなかったことも変わっていないと思います。だからといって、絶望ばかりしているわけではなく、その後、NHKはいい番組をたくさんつくっていると思います。先ほど言った100年来変わっていない闘いを続けていくしかないんじゃないでしょうか。

1951年、日本初の民間放送として、中部日本放送と新日本放送(現毎日放送)がラジオ放送を開始。民放の草創期を知る辻一郎さんが登壇。辻さんは1955年、新日本放送に入社。報道局長、取締役を歴任。

毎日放送を始めたのは高橋信三という人物です。彼がなぜ、民間放送を立ち上げたいと考えたかと言いますと、戦後、新聞は曲がりなりにも戦争責任ということを感じて、それを紙面化した、つまり、戦争中いかに自分たちが間違っていたかということを謝った。しかし、NHKは全然、そのことは謝らない。それが許しがたいというところが民間放送を立ち上げた一つの要因だった。そんなことで、戦後、昭和21年ぐらいからNHKに対抗する放送をスタートさせたいということで、免許申請のための努力を始める。毎日放送になったのは後の話で、その頃は新日本放送という名前で免許申請をして、昭和26年に放送を始めます。

高橋信三さんは、日本民間放送連盟ができて10周年のシンポジウムに講師として招かれます。民放の若い人に向けて、こう話しました。

<民放はジャーナリズムでやれ!野党であれ!>

野党であれ!はなかなか素晴らしい言い方だと思いますが、ただ、その高橋さんもそんなきれいごとばかりではなく、実は田中角栄ともつるんでいたし、橋本登美三郎ともつるんでいた、そういう一面もあるんです。しかし、レッドパージにあったNHKの人たちを、毎日放送だけではなく中部日本放送もそうですけど、喜んで受け入れた。その時の入社試験の様子を聞くと、「まあ、いろんなことがあったんだろうな」みたいなことを言っただけで採用した。また新人社員の入社式では、「君たち、憲法を読め!」と言った。なかなか懐の深い人だったと思います。そういう感じで民間放送はスタートしました。初期の民間放送は確かに野党的だったと思います。ただ、当時の民間放送を志した人たちが今のテレビを見たり、ラジオを聴いたら、いったいどう思うのかなあ、と思うところはいっぱいあります。

大森

辻さんが話すように、NHKは自らの戦争責任にきちんと向き合うことをしてこなかった。だからある意味、この本は、本当はとっくの昔に誰かの手によって世に出ていなければいけなかったものだと思います。いろいろな巡り合わせがあって、敵基地攻撃能力だとか、防衛費増額だとか、そういう言葉が躍っている時代に、私が書くことになったと思います。今、一番大事なのは、ジャーナリズムとは何なのか?今、ジャーナリズムはどうなのか?このことを話し合っていくことではないでしょうか。

●編集担当:文箭祥人 1987年毎日放送入社、ラジオ局、コンプライアンス室に勤務。2021年早期定年退職。

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