2022年3月に37年間の教師生活を終えた元公立小学校長の久保敬先生と教え子たちの物語『僕の好きな先生』。著者は朝日新聞記者の宮崎亮さん。出版記念トークイベントが、昨年12月10日、大阪・九条の下町長屋の本屋さんMoMoBooksで行われました。その内容の報告その2です。
モモブックス店主・松井良太
久保先生は生徒に謝りはるじゃないですか。
久保敬先生
最初は、それができませんでした。最初に勤めた学校で、あいさつしない子がいて、「ちゃんとあいさつしろ」と言ってたんです。実は、その子がどんな生活をしているのか、僕は何も考えていませんでした。僕が子どもの時、あいさつしろと言われたら、そんなもんやと思って、元気にあいさつしていました。それは、僕がある意味、何かめぐまれていたとは言わないけれど、あいさつができる環境にいてて、親もある程度、そういうことができてたり、僕はたまたま、そういう環境にいたんやなと、それが当たり前と思っていました。教師は指導する、要するに、教師の言うことを聞かせるのが、指導力のある教師なんや、そんな勝手な思い込みがあった中で、それが全然、通用しないというのが、よくわかったんです。テレビドラマの『熱中時代』にあこがれていたのは、僕もこのドラマのように、子どもたちと楽しい活動をしたいと思ってからなんです。それやのに、やればやるほど、子どもたちと溝ができるようなことになりました。だから、教師一年目に何回も、教師向いていないかもしれへんと思ったりしました。たどり着いたのは、ありのままの自分をちゃんと見せないことには、子どもたちは信用してくれへんということでした。なんぼええかっこう言っても、教師の知識みたいなことだけで言っても、子どもたちには全然通じないのがわかりました。だから、生徒に謝るというのも、そうなんですよね。最初から謝らんでいいようにできたら、いいんですけど、申し訳ないですけれど、子どもたちに迷惑かけてしまうことがいっぱいありました。その時に、ちゃんと謝らなアカンと思います。「生徒によく謝れますよね」と言われますけど、ありのままの自分を出さないと生徒との信頼関係は作れないと思います。
宮崎亮
久保先生の新人の時のクラスの話を聞いて、それを「僕の好きな先生」というタイトルの連載で書きました。まさに、久保先生が悩みながら、教師として少しずつ成長していくというのがわかって、それも書きたいと思いました。久保先生が大好きだという教え子のお笑いコンビ・かまいたちの濱家さんとか、久保先生が担任だった生徒さんはたくさんいるんですけど、当時の教え子を探し出して、話を聞くと、久保先生は最初からそんなに完璧な教師だったわけじゃなくて、少しずつ成長された、そういうことが、どんどん、わかってきました。
久保
濱家くんが5年生、6年生の時、彼の担任でした。このクラスは個性的な子がたくさんいてて、指導することがうまくいってこなかったと感じている僕みたいな教師にとったら、個性的な子がいて、いろんなことをやってくれることによって、逆に僕自身の教師としてのスタイルをこの子たちが活かしてくれたみたいことがありました。今でも、この子らは自分らのLINEグループをつくって、つながっています。
松井
それはすごいですよ。
久保
この子らのグループが僕をよんでくれたりするから、会うことがありました。でも、初任の学校では、失敗ばっかりで、つながっている子は2人ぐらいしかいなくて、思い出したくないことがいっぱいあるから、最初に宮崎さんに教え子を紹介してほしいと言われた時は、僕は後ろ向きでした、
松井
どんどん、教え子さんに話を聞きにいくことになるんですね。
久保
僕はそんなに教え子の連絡先を知らんし、つながっている子は少ないし、宮崎さんが勝手に調査して…
松井
そこは記者として。
宮崎
そうですね。当時の教え子に久保先生はどう見えたか、絶対聞きたいと思ったし、住所を割り出して探すというのが、しみついているんですよ(会場、笑)。
松井
それは仕事上?
宮崎
職務上、特殊なトレーニングを受けて来たんです。
久保
宮崎さん、事件記者やったんです。
宮崎
すごく、いやいや、やってたんですけど、やってきたことがまさか、自分のやりたい取材で役に立つとは思いませんでした。
松井
この本にありますけれど、元生徒さん、小学校の時のこと、滅茶苦茶、覚えているじゃないですか。
宮崎
本当にそうです。久保先生が大学生の時にキャンプ場でアルバイトをしていて、その時に食事の前に、みんなが歌っていた歌があるそうです。久保さんが教師になってから、その歌を給食の時に歌ってたらしいんですけど、50前の男女がですね、僕が取材した時に、みんな歌うんですよ(会場、笑)。
松井
それはすごいですよね。この本を読みながら、自分の小学校の時の先生のことを思い出したり、逆に久保先生のような先生いなかったなあと思ったりしました。宮崎さんはどうですか。
宮崎
僕も『僕の好きな先生』みたいな先生は、たぶんいなくて、すごく嫌いだった先生もいたわけではないんです。自分の人生に深くかかわった先生はいなかったですね。予備校の小論文の先生が一人、今も付き合っているぐらいです。
松井
久保先生は、教えてもらった先生を覚えていますか。
久保
提言書を出したり、この本のことがあって、中学校や高校の時の先生と出会い直しをしています。それから、こういうことがありました。僕の提言書について手紙が来たんです。「提言書を読んで感動しました。教師を辞めて、十数年になりますが、同じ名前の子を教えた記憶があるんやけど」そういう内容でした。差出人の名前をみると、社会の先生やわって思って。この先生、一年生の時に、教えてもらっていたんです。
松井
すごい!
久保
その後、この先生と、半年に1回ぐらい会って、お話させてもらっています。それから、中学校の時の先生のところに、同級生と一緒に集まろうということになりました。僕は結構、先生との出会いは小中高ともよかったんやなあと思います。僕が教師になったのは、テレビドラマ『熱中時代』が大きいですけど。でも、僕が小学校5、6年の時、クラスの文集に「先生には絶対なりたない」と書いているんですよ。先生がいつも、「給料が安い、安い」とぼやいていたから。あの先生のこと、好きやったんやと思います。
松井
それから『熱中時代』、見返してことあります?
久保
ないです。
松井
宮崎さんも、取材していく中で久保先生とのつながりというか…
宮崎
僕は東京の多摩地区で育ちましたが、母が大阪・東淀川区出身で、久保先生の取材をするようになってから、母に母校はどこ?と聞いたら、久保先生の3校目の赴任校の卒業生でした。
松井
え!
宮崎
東京の国立市に小学校1年生から住んでいたんですけれど、原学級保障で、クラスに障害がある子、ダウン症の子と一緒に学んでいました。それが、普通だと思っていました。ところが、中学校や高校で出会った友達は、そういう障害のある子と学んだことがなくて、街を歩いていて障害のある子を見たら、からかったりするヤツがいました。なんでなん?って聞いたら、障害のある子を見たことがない、と返ってきました。久保先生の話を聞くと、もしかして、大阪の原学級保障がどんどん広がって、うちの街に来たのかなあと思いましたね。
(つづく)
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