大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」86 人と防災未来センター編3 安富信

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「人防の父」ご夫妻の金婚祝う

 個人的な事情でまたまた、連載が止まってしまった。申し訳ない。人と防災未来センター編で止まっていたらこの間、人防関係者にとっては大きな催しがあった。それは、河田恵昭・人と防災未来センター長が2024年秋の叙勲(瑞宝中綬章)を受けられ、祝う会が今年5月10日に、大阪の帝国ホテルで開かれた。京都大学防災研究所や関西大学社会安全学部の関係者と共に人防関係者も多くが顔を揃えた。元兵庫県知事の井戸敏三さんや同副知事の斎藤富雄さんらも姿を見せ、約200人が祝った。
 人防関係者にとっては、同窓会のような側面もあり、永松伸吾、越山健治・両関西大学教授、近藤伸也・宇都宮大学准教授、照本清峰・関西学院大学教授ら懐かしいメンバーと歓談した。そして、誰もが驚いたことは、この会は、河田先生の叙勲を祝うというより、河田ご夫妻の金婚を祝う意味合いが強かったということだ。前半の祝う会より、後半の金婚式の方がずっと長く、内容も濃かった。詳しくは書かないが、ご夫妻の仲の良さを痛烈に目の当たりにしたということだ。

河田センター長の叙勲を祝う会(2025年5月10日)

 わが国の防災を語る時、この人と防災未来センターは阪神・淡路大震災を教訓に創設された施設であり、そこで研究生活を送った人たちにとっては極めて思い出深い施設である。河田先生は2002年4月の創設以来、23年にわたってセンター長を務めており、「終身センター長」を自認しているだけに、まさに「人防の父」と言える。
 筆者はここに2005年7月からわずか1年間だけ所属した。わずか1年ではあるが、その後の人生に於いて、大きなターニングポイントになったことは間違いない。それは後述するが、この1年間は極めて濃い1年だった。
 人防生活に話を戻すが、赴任して1週間だったかな?深澤良信副センター長が国土交通省に異動することになり、送別会があった。ほとんど深澤センター長との接触もなかったが、当然、送別会には出席した。驚いた。突然司会者が筆者を指名して、送別の挨拶をせよ、と言う。どうやら、くじ引きで発言者を選んでいたようだが、びっくりである。まあ、適当なことを話してごまかしたように記憶する。

「取材される」体験にアタフタ

 そして、しばらくして生まれて初めての経験をした。マスコミの人間がマスコミに取材されたのだ。2005年8月16日午前11時46分、宮城県沖を震源(深さ42㌔)とするマグニチュード7.2の地震が発生。宮城県川崎町で震度6弱、仙台市、石巻市、岩手県藤沢町などで震度5強を観測、11時50分には宮城県沿岸に津波注意報が発令された。
 人防では、国内で大きな災害が発生した際、専門家を現地の災害対策本部等に派遣し、助言や情報提供をする仕組みがある。比較的被害が少ない地震であったので、経験の少ない筆者も派遣されたように記憶する。照本主任研究員と川瀬智也・事業課主任と3人で、16日午後にはセンターを出発し、夕方には神戸空港から仙台空港へ降り立ち、夜には宮城県総務部災害対策課に挨拶。翌17日朝から、プールの天井が崩落し26人がけがをした仙台市泉区の「スポパーク松森」や、高さ10㍍、幅10㍍にわたって斜面が崩落した仙台市西公園市民プール前などを視察。現場で宮城県の危機管理監とも面談し、宮城県災害対策本部会議を傍聴し、午後からは塩竃市を訪れ、津波注意報が出た海岸などを見て回った。
 こうした現場で、何度かテレビや新聞社のインタビューを受けた。記者たちに囲まれて質問される、いわゆるぶら下がり(囲み)取材だったが、あちこちから受ける質問に的確に答えられないことを実感した。普段攻める側が守りに入ると弱い見本のようなものだ。自治体職員の研修で、それまで偉そうに言っていたことを反省した。貴重な経験になった。
 この地震では、死者はゼロで、負傷者81人、全壊家屋が1棟で、一部損壊が776棟と比較的被害は小さかったが、この時の人防の調査報告書は4㌻にわたって丁寧に記述している。改めて読んだが、ほとんど覚えていない。(つづく)

筆者が初めて取材を受けた2005年宮城県沖地震の調査報告書
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