大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」85 人と防災未来センター編2 安富信

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つらい「朝9時出勤」

 ということで、2005年7月1日から神戸市中央区のHATT神戸にある「人と防災未来センター」に赴任した。マスコミから来た研究員の第一号だったので、「研究調査員」という身分をいただいた。本来の研究員と区別する目的だろうが、なんか保険会社の調査員のようであまり好きな呼び方ではなかった。
 初めての研究者生活は戸惑うことばかりだった。まず、サイボウズという勤怠管理システムにタイムカードのように毎日、出勤したら打ち込まなければならない。月曜日から金曜日までの朝9時に出勤しなければならず、退出は自由。新聞記者生活26年間の習慣で毎朝決まった時間に出勤するのが苦手で毎朝のように遅刻した。他の若い研究者の中にも早起きが苦手な人もいて、毎日のように事務方の若い兵庫県職員に叱られた。
 研究室は同センター西館6階にあり、簡単な仕切りで分けられていて独立してはいるが、オープンな部屋が11室あった。筆者には南西端の部屋があてがわれた。隣は永松伸吾・現関西大学社会安全学部教授。永松さんには本当にお世話になった。初めは若い研究者たちも年長の変な新聞記者との付き合いを測り兼ねていたのだろうか、しばらくは様子を見ていたようだ。1週間も経ったころだろうか、毎日何もせずにゴロゴロしているおっさんをみかねて、永松さんが声をかけてきた。

㊧人と防災未来センター周辺 ㊨お隣のJICA神戸事務所。ここの1階でエスニックなランチ食べた
㊧6階事務局にある研究室 ㊨東南端の研究室。20年前ここで研究生活を送った

「安富さん、いつまでそんなことしているんですか? ここは研究するところですよ」
「えっ、研究って何をすればよいの?」とお気楽な質問。永松さんはため息をつきながら
「研究を始めるきっかけには色々ありますが、よくやるのは、レビューですね。安富さんが災害報道を研究されるなら、先に災害報道を研究した人の論文を読んでまとめるのです」と言う。
 レビュー? 初めて聞く言葉だが、なんとなくカッコ良かったので、「OK」と返事したら、彼は親切にも先行研究を調べてくれ、資料を提供してくれた。
 よし、まずこれから始めよう。と言っても当時、災害報道に関する論文はそれほどなく、権威であった故廣井脩・元東京大学教授と、元朝日新聞記者の山中茂樹・関西学院大学災害復興研究所顧問らが書いていたものくらいだった。もっと調べればあったかもしれないが、とにかく1カ月ほどかけてレビューをまとめた。何枚書いたのか、よく覚えていないが、ワードで20枚程度だったかな。初めて書いた論文だった。

研究も「飲みにケーション」で

 そんな生活を送りながら、永松さんや他の研究員らともランチを食べたり、たまには夜の食事も行ったりするようになった。次第に飲みに行くようにも。永松さんは福岡県北九州市出身。明るく積極的で優秀な研究者だ。お酒も大好きで、そのうちに、筆者が読売新聞神戸総局時代からの行きつけの三ノ宮のスナックにも行くようになり、マイクも握った。永松さんはよく話した。
「北九州にいる父親がよくスナックに行ってて、自分も大人になったらスナックに行きたいと思っていました。でも連れて行ってくれる人がいなくて。安富さんの研究のお手伝いをしますから、夜のお付き合いもよろしくお願いします」と言う。渡りに船だ。
 災害報道や災害情報にも興味があったようで、何かと世話を焼いてくれた。後述するが、この1年間、いやそれ以降も、国内外の多くの被災地に連れて行ってくれた。そこで、多くの被災者や研究者、ボランティアに会った。それが今の研究生活に大いに力となっている。いわゆる人脈だが、筆者の場合、ほとんどが飲み会で培った付き合いだ。昔は「飲みにケーション」とか言ったものだが。(つづく)

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