制作・脚本・監督を務めるトッド・フィールドが「唯一無二のアーティスト、ケイト・ブランシェットに向けて書いた」という、ベルリン・フィル初の女性マエストロ、リディア・ターの物語。
天才的な指揮者として、音楽界の頂点に上りつめ、絶対的な権力を振りかざすター。
名声を守り続けるための重圧と何者かによって仕掛けられた陰謀によって、しだいに彼女の心の闇が暴かれていき、崇高な芸術と人間の欲望や狂気が交錯する驚愕の展開を迎える。5月12日(金)公開。
衝撃的に素晴らしい映画体験です!
俳優の演技と監督の脚本・演出が、この上なく緻密に融合して、完璧な「物語」を織り上げてゆく傑作だと思います。
ケイト・ブランシェットの圧倒的な演技力が、「物語を芝居によって語ってゆく」というよりも「芝居によって物語を創り上げてゆく」映画というか。「演じること」そのものが「物語」になった作品というか。
普通に語られる「素晴らしい演技」というのは、その俳優が、ある物語で語られる登場人物・役柄になりきっている、あるいは、その演技が表現するものが極めて感動的である、というような意味でしょう。
ところが、この映画でのケイト・ブランシェットの演技はそういうものとは明らかに違います。
ここでは通常の映画作品の脚本、演出、演技の相関構造は、明らかに転倒しているように感じられます。
そして、まさにそのことが、この作品の深い感動の源泉なのではと思えます。
ケイト・ブランシェット=リディア・ターが、考え、感じ、語り、行動した結果として、物語が生まれてくる。どうしても、そのように映画がつくられているようにみえます。
そういう映画をいままであまり観た記憶がありません。
ではなぜ、俳優の「演技」の結果として「物語」が生まれてくる感覚が感動的なのか?
おそらく、「人生とはそういうもの」だからでしょうか。
誰も自分の人生を、あらかじめ存在している脚本に従って、誰かの演出で演じているわけではない。
その時々に私たちは、考え、感じ、語り、行動する、そのことの結果として、とにもかくにもひと続きのかけがえのない、やり直しのきかない人生が、そこにある。
そのことのリアリティ、実感が、観る者の心に切実な感情を呼び起こすのかもしれません。
観る前には、少々長いかなと思われた上映時間も、この「映像表現」には必要な「表現の器」として必然であったということが納得できます。
この上映時間は、主演女優が物語を産み落とす時間としてどうしても必要だったという、この上なく簡潔な事実にもまた、感動してしまいます。
いずれにせよ、いまだかつてないアプローチの映画だと思います。
冒頭のかなり長いインタビューシーンから、驚愕、茫然のラストシーンまで、すべてが考え抜かれ、練りに練られた、唯一無二の主演女優が屹立する映像芸術です。
この映画ばかりは、さすがに映画館で観なければ、その素晴らしさは実感できないでしょう。
作品に集中できるように映画館の座席に固定されつつ、大きなスクリーンで女優の演技の微細なニュアンスまで鑑賞されることをお勧めします。
めったにない映画体験です。
♪ TAR/ター
〇そのざき あきお(毎日新聞大阪開発 エグゼクティブ・プロデューサー)
冒頭の写真のコピーライツは (c) 2022 FOCUS FEATURES LLC.
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