2月26日、大阪・十三の第七藝術劇場でドキュメンタリー映画「「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち」上映後、原告遺族の只野英昭さん、寺田和弘監督、そしてジャーナリストの大谷昭宏さんを迎えて、トークイベントが行われた。その模様を報告します。なお、前日に行われた只野さん、寺田監督が登壇したトークイベントの報告は当サイトに掲載しています。
大谷昭宏さん
1968年、読売新聞大阪本社に入社。87年、読売新聞退社後、故黒田清さんとともに「黒田ジャーナル」を設立。2000年、個人事務所を設立、新聞やテレビでジャーナリスト活動を展開。
メディアは遺族にどう向き合うか
<遺族とメディアの関係>をテーマにトークイベントが始まる。
只野さんは、長女の未捺さん(当時小学校3年生)、妻のしろえさん、父親の弘さんを津波で失う。長男の哲也さん(当時小学校5年生)は津波にのまれるが奇跡的に助かった。
只野さんが大震災当時受けた取材を振り返る。
「家も流されて、避難所に行くしかなかったんです。ある新聞記者が、この避難所に生存児童がいるという情報を聞いて、「取材させてください」と来ました。息子の哲也への取材依頼です。避難所には、まだ子どもがみつからない、遺体があがった、そういう遺族がほとんどでした。生き残ったからよかったと口が裂けても言えない。生き残ったから取材を受ける、そうなれば避難所に居られなくなって、居場所をなくしてしまいます。この記者の首根っこを取っ捕まえて表に出しました。取材を受ける側の立場をしっかり理解して、ちゃんと取材してもらわないと、すべてがストレスになるんです。ましてや、取材対象は子どもです」
一方、こう話す。
「息子は助かった4人の児童のうち、たった一人、新聞やテレビに出続けました。息子がテレビの取材を受けて、「こんなことが起こったと、日本中に知ってほしい」とカメラに向かってしゃべっているのを見た時、俺は「忘れなさい」とか、「しゃべるな」と言いませんでした。俺が息子の立場だったら、そう言われたくないと思ったからです。「伝えたいと思うだったら、いいよ」と、ずっと言って、今日に至っています」
「取材する記者が普段の会話ができるような関係になってから、「そういえば、あの日どうだった?」と聞くと、取材はストレスではありません。息子があれだけ答え続けることができたのは、取材が傾聴ケアになっていたんだと確信しています」
寺田監督
「取材していく中で、遺族と良好な関係を築きたいと思っても、なぜか築けない。こういうケースが多々ありますが…」
大谷さんは、1995年1月17日阪神淡路大震災の取材を振り返る。
「寺田さんと私は一緒に阪神淡路大震災を取材しました。この年の大晦日に取材すると、行政が手続きを失敗して、仮設住宅に入れないで、商店街の側溝の上に掘っ立て小屋を建てて暮らしている一人のおばあさんに出会いました。70歳を超えていました。東日本大震災発生の前々日、このおばあさんは倒れて、その夏に亡くなりました。寺田さんは、おばあさんが亡くなるまで毎年大晦日に必ず、仮設住宅や復興住宅を訪ねて、「この一年、どうでしたか?」と聞いてきました。この15年という歳月があって、遺族とどう向き合うか、遺族にとって何をしてはいけないか、寺田さんは十分、承知しています。だから、遺族の只野さんをはじめとして、200時間にわたる映像を寺田さんに任そう、となったと思います」
大谷さんが話を続ける。
「取材する側である私たちが、どうやって取材される側と関係を築くか、ノウハウは何もありません、あるとすれば、どこかの時点で心と心を通い合わせられるか、これに尽きると思います。被災者にマイクを突き付けたら取材者の仕事は終わり、これは大間違いです。だからといって、いつもいつも取材先に行くことはできません。一度でもマイクを突き付けた人に対して、<遠い親戚>が被災地にできたと思うことはできないだろうか。そうすれば折に触れて、<遠い親戚>に「どうしているかなあ」と電話する、逆に<遠い親戚>は「今、こんなことに困っている」と話すじゃないですか。関係をその場限りにしないで、<遠い親戚>に心を寄せる、他に私たちにできることはないんじゃないかと思います。この映画が、こういうことがベースになっているとすれば、思いが花開いたと思います」
メディアに出たいのではない、出なければ伝わらない、だから取材に応じる遺族
寺田監督
「大川小学校の遺族だけではありませんが、取材に応じる遺族、応じない遺族がいます。ただ、取材を受ける人に対して、「あの人は出たがりだ」とか「あの人たちは表に出られる人だから」、そういう声があります。これは全然、そうではありません。只野さんたち遺族は、映画やテレビに出たいからではなく、出なければならない、だから取材に応じているんです。このことをわかってほしいと思います」
寺田監督はこの映画制作に反対の声があったという。
「この映画をつくる際、最初はみなさん反対でした。もし映画に出演したら、この映画で取り上げたように殺害予告の文書が送られる、そういう事件が起こるかもしれない、事件が発生すれば一緒に闘ってきた仲間が苦しむ、その姿をみたくない、だから反対という意見がありました」
2019年9月から20年6月にかけ、大川小学校津波裁判の原告となった遺族3人に「殺人予告」と書いた文書が報道機関経由で送られた。文書を送った男性は有罪となった。
大谷さん
「映画になれば、どんなハレーションが起こるか、遺族のみなさんは相当、心配したと思います。殺人予告の文書を送るようなことをどうすれば防げるか、むずかしいと思います。でも、今日この劇場にこれだけの人が観に来ていて、心動かしているんです。時間がかかると思いますが、映画を観て心動く、こういう人たちを少しずつ増やしていくことだと思います。いろいろなことがありますが、寺田さんが映画をつくった、只野さんたちが映画制作に協力してくれた、まだ、光を失っていないということだと思います。殺人予告の文書を送って事件を起こそうとする連中が次第に抗議されていきます。たゆまなく、そういう努力を重ねていくということに尽きると思います」
美談ばかりが語り継がれている三陸地方 つらいことこそ、伝えなくてはならない
大谷さん
「阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災と自然災害の被災地を取材してきました。阪神淡路大震災の時は、被災地のみなさんは割と、積極的に状況を話してくれました。東日本大震災は違いました。南三陸に取材に行った時、取材に応じている人に対して、「東京のテレビに、あいつは何をしているんだ」という声が聞こえてきました。こういう風土がある中、よくぞ、裁判を起こし、そして、この映画に協力してくれたと思います。この点はいかがですか」
寺田監督
「行政に立ち向かうことが非常に厳しい地域だと思います。しかも、行政の仕事をしている人も多い、どのような思いで声を上げたんですか」
二人の質問にこう只野さんが応える。
「大川小学校がある地区は釜谷という地区です。一緒に捜索をしているリーダーから突然、「学校のことを検証すると、釜谷地区の住民の責任にされるから検証を止めろ」と言われたことがあります。俺は逆に、「ちゃんと検証しないと、学校の事故の責任を地区の責任にされるから検証しなければいけない」と思っていました。たった一人、みんなに囲まれてやられましたけど。結果的に俺は正しかった」
「それよりも」と言って、被災地の話を続ける。
「言いたいことも言わないで、がまんするのが三陸には大いにあります。三陸は津波の被害を何度も何度も繰り返しています。どうして、人的被害も物的被害も繰り返すのだろうか、考えてみた時に、語り継がれていることが美談ばかりなんです」
東日本大震災の例を取り上げて、只野さんはこう話す。
「例えば、釜石の奇跡というのがありますよね」
東日本大震災の津波に襲われた被災地の中で、岩手県釜石市は市立小中学校の児童生徒が集団で避難し、全員が無事だった。その事実が報じられると、「釜石の奇跡」と大きな反響を呼んだ。
「あれは奇跡でも何でもない、普段の訓練を大震災当日、実行しただけです。でも美談になっています。本当に繰り返さないようにするには、つらいことこそ、しっかり伝えないといけない。だから、大川小学校の事故の全ぼうを解明しなければならないと思っています。目の前に授業で使っている山があっても、津波の情報があっても、川に逃げたわけです。11人の先生がいて、108人の児童がいて、どうして目の前の山に避難させることができなかったのか。それを解明しないと、延々と同じ被害が続くことになります」
大谷さん
「児童だけではなく、先生たちも津波に流されました。只野さんたちもつらい立場だと思いますが、どう受け止めていますか」
教職員13人のうち10人が亡くなり、1人が津波に巻き込まれ生存、2人が帰宅などで生存。
只野さん
「津波に巻き込まれ生存の先生が一人います。映画にその先生の姿があります。この先生は大震災で揺れている中、廊下を走りながら、子どもたちに「山に逃げるからな」と言っていたようです。防災意識が強かった先生でした。彼の本当の証言を聞きたいがために裁判までいったというところが実はあります。それは彼を責めるのではなくて、助けたい思いがあったからです。彼は市教育委員と校長に本当の証言を言っています。その時のメモが出てきて、「子どもたちが手をつないで避難している」、「校庭で渦が巻いていた」と書かれています。「校庭で渦が巻いていた」は、高い場所から校庭を見下ろしていたという証言で、その時点で山側にいたことがいたことがわかっているんで、彼の認識は正しかった。しかし、彼は嘘を言わされて、表に出てくるなと言われ、10年間も牢獄生活、おそらくそういう状態にあります。それでは心病みます。それを助けたい、ただそれだけです。本当のことを言葉にできたら彼のメンタルも救われるはずです。そういうことも含めて、真実が知りたいのです」
寺田監督
「亡くなった先生方の遺族はなかなか声を上げられないと聞きます」
只野さん
「大川小学校に来て7年目になる先生がいました。他の先生は1年目だったり2年目だったり、土地勘もなく、7年目の先生がトップで動かしていたんじゃないか、そう自分は認識しています。迎えに行った親にこの先生が、「ここは安全で大丈夫ですから」と言ったという証言があります。この言葉を信じてしまった、そそのかされたのではないかと思います。亡くなった先生の半分以上が助かった子どもたちに「山に逃げるからね」と言っているんです。そういう証言があります。亡くなった先生方も被害者です」
高裁判決、「学校が子どもの命の最後の場所になってはならない」
「あの日、何があったのか」を知りたい遺族は裁判を起こした。提訴前、石巻市教育委員会の説明会では、石巻市長は「これは宿命だった」と述べ、市教委は生存児童の聴き取り資料を廃棄した。文科省主導の第三者検討委員会は、「校庭からの避難が遅かった」、「三角地帯に向かって避難した」などが事故の原因だと結論付けた。第三者委員会が結論を出したことで市は検証を打ち切った。遺族が求めた「あの日、何があったのか」は解明されず、遺族は裁判を通じて「真実」を明らかにする以外、取れる方法がない状況に追い込まれる。そして、2014年3月10日提訴。地裁、高裁で勝訴。2019年10月、最高裁が上告を棄却し、高裁の判決が確定した。
事故後の石巻市教育委員会の対応について只野さんはこう話す。
「事故後の対応は決して、二度と繰り返してはならないことです。事故対応を巡って、遺族が自殺してもおかしくないぐらいでしたが、誰も自殺しなくてよかったと思います。この事故対応がスタンダードになってはいけないし、二度と繰り返してほしくありません。実際、証言を捏造したりした先生はみなさん、ペナルティーを課せられないで、出世しているんです。それを変えていかなくてはいけないと思います」
寺田監督
「結局、裁判では遺族のみなさんが求めた「あの日、何があったのか」の答えがありませんでした。それでも、原告は、「高裁判決は心ある判決だ」と言いますが、どういう思いからですか」
只野さん
「震災遺族となった我々弱者に対して助けてくれる人は誰もいませんでした。高裁の裁判で、私たちの思いが裁判官に伝わり、私たちの弁護士は2人でしたが、裁判官が3人目の弁護士のようでした」
大谷さん
「高裁の判決で、「学校が子どもの命の最後の場所になってはならない」と裁判官の口から出たわけです。この一言が多くの遺族の胸に響いたんじゃないかと思います。だから、解決していないことがたくさんあるけれど、わかってくれたんだという思いがあったのではないかと思います」
さらに大谷さんが視野を広げて、こう話す。
「この映画が根底的に何を訴えているか。日本の社会は、本来の信頼関係を崩している、このことに尽きると思います。まさか、学校が、先生が、子どもたちの命をこんなふうにするとは誰も思わなかった。日頃、朝、親が学校に子どもを送り出す時、「ちゃんと先生のことを聞くんだよ」という言葉は、学校に対する信頼があるからです。だけれども、例えば、子どもを保育園のバスに乗せた時、本来ならちゃんと届けてくれるはずのバスを親が信頼していない、アラームを付けようじゃないか、非常ベルを付けようじゃないか、ということになっています。まさか、保育園でちゃんと面倒をみてもらっていると思っていたら、子どもを逆立ちにしてバインダーで引っぱたいて引きずりまわす。本来、信頼しないといけないところが、今の私たちの社会は崩されている。もっと飛躍すれば、国は隠したりインチキしたりしないだろうという信頼は崩れ、国は隠ぺいやインチキをしないと信じる人はだれもいないでしょう」
語り部として、<学校防災>と<河川津波>を伝える大川小児童の遺族
多くの人が訪れる大川小学校で今、只野さんは語り部をしている。
「私と同じ遺族になってほしくない。だから語り部をしています」
話すテーマは2つあるという。
「<事前の避難訓練のマニュアルを整備していたら事故は起きなかった>という高裁の判決が確定しました。今、被災した校舎で語り部をしています。テーマは2つ。一つは今言った確定した判決、つまり学校防災のことです。もう一つは、<河川津波>です。大川小学校の被害のおよそ95%は<河川津波>による被害でした。大震災前、大川小学校は、海抜1メートル12センチでした。大震災でプレートが下がって海抜が40センチになりました。そこに高さ10メートルの津波が、川からあふれて襲ってきました。全国に、かなり海抜が低いところがあると思います。にもかかわらず、<河川津波は危ない>ということが果たして共有されているのか、危機感を持っています」
●映画「「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たち」公式サイト
〇ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー
なお、冒頭の写真のコピーライツは©2022 PAO NETWORK INC.
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