大江健三郎の故郷「谷間の村」の半世紀 にぎやかな村は合併で衰退、ノーベル賞で「役場」復活

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 大江健三郎さんが3月3日に亡くなった。2002年から05年にかけて、ぼくは大江の小説を読みふけり、彼の故郷の「谷間の村」を何度も訪れた。そこには少年時代の大江さんを「ケンチャン」とよぶ人たちがいた。ケンチャンはどんなムラでそだったのだろうか。当時の取材ノートをもう一度ひらいてみた。

目次

社会科教師をへこました中学生のケンチャン

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2003年の「谷間の村」大瀬

 白壁の家並みで知られる内子町中心部から、小田川を上流へ約8キロさかのぼった旧街道沿い。お遍路さんが往き来する旧大瀬村の中心集落「成留屋」は、大江の出身地だ。
「わたしの村は谷底にある。谷の水上と川しもも迫る山腹にさえぎられているので、わたしがみあげることのできる空は矩形に限られて……」
 大江は自伝的な小説「遅れてきた青年」のなかで、約100軒が軒をつらねる集落の風景をこう描写している。
 大江の実家から50メートルほど離れた旧村役場の隣に住む大星通さん(1928年生まれ)は大江の兄と同級生だったこともあり、7歳の年下の大江を「ケンチャン」とよんでいた。
 大学を卒業して大瀬中学校に社会科教師として赴任すると、中学2年のケンチャンに歴史を教えることになった。
 ある日、文学史の授業で泉鏡花について語ると、ケンチャンがすかさず手をあげた。
「先生、それはちがいます」
<あのケンチャンがなに言うんぞ、子どものくせに、くそ生意気な>という憤りをぐっとおさえて提案した。
「先生も調べてくる。お前も調べてみろ」
 分厚い「文学史事典」を買って1カ月間かけて調べると、ケンちゃんのほうが正しかった。「すまん。おまえの方がおーとった」
 子どもに謝ったのはそれがはじめてだった。
 ケンチャンは、公民館の本も中学の図書館の本も読みつくし、休み時間には月刊誌「世界」を開いていた。大星さんもそれに刺激されて「世界」や「中央公論」を読みはじめる。
 放課後も職員室にもどらず、教室に居残って2時間3時間と辞書や事典を読みふけった。このとき2年間かけてつくった「社会科資料」というA6判厚さ2センチのノートは、文化・宗教・産業・資源・職業・司法・民主主義といった10章に分類され、たとえば「民主主義」の章には、「空想的社会主義」「ウェーバー」「共産主義」といった項目ごとに万年筆の細かい字でびっしりと説明がつづってある。
「子どものケンチャンが、私にとってはライバルでした。子どもなんぞに負けたくない。ケンチャンになにをたずねられてもすぐこたえられるようにしようと一生懸命でした」

にぎわう村に生まれた聖徳太子の生まれ変わり

新倉さん提供

 大江の実家の2軒隣で鮮魚店をいとなむ新倉重高さんは、大江より12歳年上で大江からは「にいちゃん」とよばれていた。大江は頭が大きな子で運動は苦手だが、幼いころから頭の回転がはやかった。
「おそろしい子どもじゃ」
「聖徳太子の生まれ変わりじゃ」……
 新倉さんの両親らはそう噂していた。
 戦前から戦後直後にかけての大瀬は、周辺の山から、農産物があつまる物資の集散地だった。街道沿いには、傘屋や旅館、靴屋、駄菓子屋、本屋、畳、桶屋、大工道具店、造り酒屋……と、数十軒の店がならんでいた。大江の実家は、山中の集落から農家がはこんでくる三椏(みつまた)や楮(こうぞ)(和紙の原料)、栗、コンニャクなどを買いとり、町の業者に売る問屋のような店だった。
 街道から20メートルほど脇道に入ると約20人の職員が働く村役場があり、新倉さんは子どものころ、戸籍係が記帳するのを横でながめて読み書きをならった。役場の隣の森林組合は5、6人、農協にも十数人の職員がいた。農協の2階には百畳近い大広間があり、選挙などの行事があると、数百人がつどった。
 新倉さんは、初夏から秋にかけて「焼き鯖」を炭火で焼いて、山の上の集落まで自転車でとどけた。香ばしい焼き鯖はこれだけで主菜になるから、農繁期には1日に70〜80本売れることもあった。
 新倉さんは、大瀬村でおそらく一番最初に8ミリカメラを購入し、昭和30年ごろの成留屋の様子を撮影している。
 保育園児十数人が列をなして歩いている。女の人は白い割烹着、男は白いシャツ姿がめだつ。たまに登場する背広の男性やコートの女性は学校の先生か役場の職員だ。秋の運動会では、トレパンにブレザーという一張羅の男性が、晴れやかな笑顔で「地区別対抗リレー」参加賞の一升瓶をかかえている。

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新倉さん提供

 1年のうちで大瀬がとりわけにぎわったのが、旧正月の数日前の「大瀬市」だった。道路の両側に、瀬戸物や金物、茶碗や刃物売り、駄菓子やがまの脂……といった露店がつらなり、独楽の綱渡りなどを披露する大道芸人もやって来る。山の集落の人々が長靴や地下足袋をはいておりてきて、正月準備の買い物をした。幅4メートルほどの街道は横断するのも大変なほどだった。

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新倉さん提供

昭和の合併後、役場も本屋も食堂も……消えた

 大江は大瀬の中学校を1950(昭和25)年に卒業して内子高校に1年間かよったあと、松山市の松山東高校に転校して故郷を離れる。それから4年後の1955(昭和30)年、5町村合併で大瀬村は「内子町」の一部となった。
 合併すると知ったとき新倉さんは「何をかんがえとるんぞ。そのときはわからんが、あとはいけんようになるぞ」と思った。隣村の村前村が29(昭和4)年に、大瀬村、五城村、天神村に分割編入され、一気に衰退したのを目にしていたからだ。
 合併後、大瀬は新倉さんの心配したとおりの道を歩む。
 役場は支所になり連絡員が3人のこったが、数年後には「連絡所」になり職員は1人に減らされる。その後、森林組合の事務所として利用されたが、1980年代に内子町中心部に統合されて空き家になった。
 役場や農協、森林組合がなくなれば、雇用の場が減る。ほかの市町村の人との往来もとだえる。旅館も薬屋も本屋も食堂も喫茶店も廃業してしまった。大瀬市も、札幌オリンピックのあった1972年ごろには茶碗屋や金物屋が4、5軒立つだけになり、90年代になると消えた。
「自然消滅でした。説明もないままに合併になって、しかたないぞよ、って感じでした。森林組合もなにもかも町の中心にとられてしまいますけん」
 旧大瀬村の人口は合併直前の約6000人が2003年には約2600人に減った。
 旧役場の建物は空き家のまま放置される。電球は割れ、床板は腐り、蜘蛛の巣におおわれ、ネズミが死んだような腐臭がただよっていた。沈滞した大瀬を象徴する存在だった。
 大江は「送れてきた青年」で、東京から久しぶりに帰省した村の様子を次のように描写している。

 村の家屋群の屋根に、どの屋根にも安酒場の軒燈のごときものがとりつけられ家長の職業と性別、年齢まで書きこんだ大きい名札の色ガラスが裏の電球でてらしだされているのを見ると(それは町村合併で浮いた村の予算で合併反対派の不満をおさえるために賛成派が苦心したすえの発明なのだ。それが新しく合併後にえらばれた町議会からの贈りものなのだ)わたしは自分がその村の出身だということを恥じる気持ちになった。

 「村」の誇りを売りわたした人々にたいするはげしい怒りが見てとれる。大江は「大瀬出身」とは言っても「内子町出身」とはついぞ口にしなかった。

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2020年3月、早朝の大瀬

ケンザブロウさんに相談

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小田川対岸から見た大瀬

 1950(昭和25)年生まれの嶋崎正博さんは、子どものころの大瀬市のにぎわいをおぼえている。景品つきの詰め将棋やがまの脂売り……。とくに好きだったのは、茶碗屋だった。ござを敷いて茶碗をならべる。
「これは天皇陛下がつくった茶碗じゃ。これは皇后陛下がつくったもんじゃ」
「んー、高いもの買わんのやったら、これや。これやったら一番安い……」
 すわりこんで聞いてるだけであきなかった。
 だが、高校生になるころにはそんなにぎわいはなくなる。昼間も静まりかえる集落の閉じこめられるような息苦しさに耐えられず、嶋崎さんは関西の大学に進学した。
 2年後、父親が病気になったため大学を中退して帰郷し、家業のスーパーを継いだ。以来嶋崎さんは、大瀬を復活させるにはどうしたらよいか、と考えつづけてきた。
 80年代後半、同年代の仲間と「何かしようよ」と語りあった。「人をよべるもの」と考えたら、「健三郎さん」しかなかった。そのころ、ノーベル文学賞の候補に大江がノミネートされ、毎年その時期には、マスコミが大挙して大瀬に押しよせるようになっていた。
 嶋崎さんと同じ50年生まれで公民館分館の主事だった徳森益一さんは88年の冬、帰省していた大江に町づくりへの協力をたのみにいった。
 料理と酒をかこみ、「なんかやりたいんですけど」と話をむけると
「飲む前に話しておきましょう」と大江は居ずまいをただした。
「自分も本来は地元のことをやるべきだから、僕にできることは協力します。講演だけじゃおもしろくないから、音楽もやりましょう」
「行政がからむとおもしろくない。行政抜きでやりましょう」
「会場はお願いします。僕が音楽家に話します」……
 アッというまに段取りを決めてしまった。ギャラはゼロ。それどころか、ギタリストの荘村清志さんの出演料も大江が負担してくれた。
 89年11月、大瀬小学校で開かれた第1回のイベントには約500人があつまった。以来94年のノーベル賞受賞まで計4回イベントを催した。
「大江さんはいつも秋に帰ってきて、僕が空港までむかえにいっていた。大瀬の山を見ると何度も『きれいですねえ。みなさんのおかげです』と言ってくれました」(徳森さん)。
「山も川も森も、美しい郷土を守ってほしい、と話していたのが印象にのこった。ありふれた村だけど、大江さんのおかげで、あらためてふるさとのすばらしさに気づき、自然を回復することの大切さを知りました」(嶋崎さん)
 大江の話をきっかけに徳森さんらは、国道工事で壊れた小田川沿いの景観をととのえようと、桜の苗木やツツジを植えたりする活動をはじめた。

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大江さんの実家

ノーベル賞を機に「役場」と大瀬市が復活

 そのころ、荒れ果てていた旧役場を森林組合が個人に売却しとりこわされるという話がもちあがっていた。
「役場がなくなったら大江さんも悲しむ。ヘソがなくなってしまったら大変じゃ」
 「役場復活」を地域づくりの核にすえることにした。以来、町が旧役場を森林組合から買いとってくれるよう何十回と陳情をくりかえす。
 旧役場を借りきり、20人がかりで散乱していたゴミをかたづけ、割れた電球をつけかえ、「役場を語る会」をひらいた。町長や町議をまねき、かつての大瀬村役場職員らが思い出を語った。
「(役場を復活すると)地域が盛りあがるけん、なんとかお願いします」
 うどんをつまみに酒をくみかわしながら、口々に陳情した。
 役場復活は、94年のノーベル賞受賞をきっかけに道筋がつく。内子町は大瀬を「文学の里」と位置づけ、約4400万円かけて改修し、99年、簡易宿泊施設の「大瀬の館」としてよみがえらせた。街道沿いの建物を改修して景観をととのえる「村並み」の整備もはじまり、大江の実家も昔の商家風の建物に改修された。

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復活した大瀬村役場

 「館」では週末、地元の人たち約120人が交代で週末に喫茶室をひらき、年間約3000人がたちよるようになった。みんなでおしゃべりできる3カ月に一度の当番の日を女性たちは心待ちにしているという。
 大江の実家の近所で鮮魚店を営む新倉重高さんも、土曜と日曜はかならず300円のコーヒーをのみにかよう。
「ここは収入役、ここは助役の席じゃ、とか考えてると懐かしくて楽しいんです。ついつい足が向いてしまうんよね」
 02年12月下旬の日曜日、「大瀬の館」前で約20年ぶりに「大瀬市」がひらかれた。農家の女性たちがもちよった柿や白菜、小豆などがならべられ、目の前でコンニャクをつくり、山芋入りの蕎麦を打ち、しし鍋をふるまった。小雨まじりのあいにくの天気だったが約300人があつまった。
 「役場」の隣に住み、中学時代の大江に社会科を教えた大星通さんは、久しぶりのにぎわいを前にうれしそうに語った。
「ノーベル賞受賞の前、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ……と毎年騒いでいるうちにどんどん前向きになって、(嶋崎さんら)思わぬ若い人が思わぬ活動をしてくれるようになた。『うちの父ちゃんがやるなら』と女性の参加も増えた。若い連中がたちあがって役場が復活したときはうれしかった。昔は大瀬はよそから来た先生が『とけこむのが難しい』と言うほど閉鎖的だったけど、いつのまにかそんな閉鎖性は飛んでしもうた。Iターンの人も2人3人とはいってきて、ここにすわっていても前向きな話ぎりで楽しいですらい」

【旧大瀬村については「消える村生き残るムラ」(アットワークス、2006年)に詳述しています】

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