大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」84 人と防災未来センター編1 安富信

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京大防災研は問題外

 編集局長に「1年間、防災を勉強してこい」と言われて、はたと困った。これまで、防災の勉強など、全く頭の中になかったからだ。
 真っ先に浮かんだのは京都大学防災研究所。防災と言えば、当時知っている研究機関はここくらいだった。どうすれば、潜り込めるのか? わからない。仕方ないので直接、京大防災研の事務に電話した。
「あのう、防災を勉強したいのですが、どうすれば入れますか?」
 極めて間抜けな質問だ。それでも事務の方は丁寧に応対してくれた。
「博士課程は修了されていますか? ここは、研究機関なので少なくとも、修士修了以上の資格が必要ですが」
 ダメだあ、こりゃあ!問題外だわ。甘かった。

49歳で面接と論文

 どうしたものか? 考えた挙句、やっぱり他人に頼ることにした。以前に震災の連載関連で取材したことのある、室崎先生を思い出した。そう、日本の防災界の大御所とも言える室崎益輝・神戸大学名誉教授(当時は神戸大学都市安全研究センター教授)だ。新聞記者らしく図々しく電話した。
「先生、1年間ほど素人でも、どこか防災を勉強するところありませんか」
 多分、苦笑されていたと思うが、真面目に答えていただいた。
「安富さん、それなら、人と防災未来センターがうってつけですよ。年齢的にちょっと心配ですが、人防ならマスコミ関係者を受け入れてくれますよ」
 お礼もそこそこに、おっとり刀で人防を訪れた。確か、事務局に知り合いの人がいる。以前に人防を取材したことがある。村田昌彦さん(現関西国際大学教授)だ。果たして、彼が応対に出て来てくれた。要するに、新聞記者が人防で1年間勉強したい者がいる、と説明した。
「それは良い試みですね。それで、どのような方が来られるのですか?」と村田さん。
「ええっ、ぼくですが」
 村田さんの目が点になった、と記憶する。それは、そうだろう。当時の筆者は49歳。間もなく50歳だ。村田さんも同年代だった。人防の研究員は、将来の大災害に備えて研究を重ねている若手だった。村田さんは一旦、事務室奥に行き、副センター長の深澤良信さん(現九州産業大学特任教授)が出て来て、「お話は伺いました。後ほどご連絡します」。こりゃあアカンな、と落胆したものだ。
 ところが、数日後、人防から連絡が入った。論文提出と面接の知らせだ。まず、研究主題として、「災害報道」を選んで何枚か論文らしきものを書き、面接を受けた。
 河田恵昭センター長らが面接官だった。他に2、3人おられたが、ほとんど河田センター長が質問した。と言っても1時間以上、河田センター長のマスコミ批判だった。
「新聞社のデスクが突然電話してきて、今からうちの記者を行かせるから、取材に答えてください。よろしくお願いします」と言う。「ぼくは、この新聞社に給料もらってないよ。それで来た記者は全く勉強してなくて、頓珍漢な質問ばかりを繰り返していた。どうなってるんだ、新聞社は!」という調子だ。筆者はうなずくばかりで、ほとんど口を挟まなかった。最後に河田センター長は言った。
「そういう訳だから、安富さん、しっかり勉強して、他の記者たちの見本になってください」
 あらら、もう内定もらった。こうして人生2度目の面接試験は終わった。

    人と防災未来センター外観               阪神・淡路大震災の資料を展示
あの日を再現した街並み

若手研究者におっさん乱入

 人と防災未来センターは、阪神・淡路大震災の経験を語り継ぎ、その教訓を未来に生かすために、2002年4月に神戸市中央区のHAT神戸に開館した施設で、国と兵庫県の出資で運営されていた。阪神・淡路大震災の記憶を風化させないように、同震災の資料や被災物などを収集・展示すると同時に、実践的な防災研究、中でも若手防災研究者の育成を目指している。2003年春から1期生8人が研究員として就任。筆者が入った2005年7月には、1期生5人と2期生2人、3期生2人が在籍していた。平均年齢は30歳代半ば。筆者は49歳。若手に混じった変なおっさんだった。(つづく)

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