ある少年の死と満蒙開拓青少年義勇軍   大牟田聡

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――ふと呼びかけられた気がした。

奈良県大和郡山市野垣内町(のがいとちょう)。JR大和路線の郡山駅から歩いて10分ほどの場所にある共同墓地「来世(らいせ)墓地」。平城京の羅城門跡に隣接していることから、〝羅城〟が訛って「来世」になったともいわれる。江戸時代に建てられた石鳥居が、墓地の奇妙なアクセントになっている。

来世墓地(奈良県大和郡山市)

この日、私はたまたまネットで見つけた「大和郡山 紡績工場と遊郭の百年を巡るダークツアー」に参加していた。案内役を務めた會田陽介さんは、以前から地域の近現代史に埋もれた女性たちの調査などを続けている。大和郡山にはかつてユニチカの前身にあたる紡績工場があり、大勢の女工が働いていたが、詳しい記録は残っていない。そんな中、會田さんはこの墓地で、偶然1900(明治33)年に亡くなった女工の名を見つけたのだという。積み上げられた墓標の側面に「郡山紡績株式会社/寄宿舎工女 宮本イサ/明治三十三年」と刻んであったのだ。

「寄宿舎工女 宮本イサ」の名が刻まれた墓標

その名は史料の中には現れず、出身地も年齢も死因もわからない。それでも120年ぶりに名前が明らかになった女工「宮本イサ」の名前に出会い、彼はまるで恋人に話しかけるように、時折この来世墓地を訪れては、墓標に「久しぶりだね」と話しかけるのだという。

大和郡山に、かつて巨大紡績工場があったことも知らなかった私は、歳月を越えた出会いにしばし思いを馳せていたが、その時ふと呼びかけられたように、すぐ近くに立っている墓標が気になった。

「そのお墓も気になりますよね」と會田さん。

「西本清蔵」氏の墓標

四角い石柱で先端は方錐型という、軍人特有の墓標だ。

正面に「妙法 義勇院報国日清居士位」

横には「俗名 西本清蔵」とあり、「昭和十九年四月三日満蒙開拓義勇軍トシテ 内原訓練所ニテ訓練中殉職 行年十六歳」と続く。

満蒙開拓団は、1931(昭和6)年の満洲事変後、貧困にあえぐ農民の救済などを目的に、全国から満洲に送り出された農業移民の集団を指す。1936(昭和11)年には「満洲農業移民百万戸(五百万人)移住計画」が国策とされ、終戦まで全国から約27万人が満洲に渡った。

たまたま別のフィールドワークがきっかけで、長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館や満蒙開拓ゆかりの場所を訪ねたことがあり、無意識に「満蒙開拓」という言葉に反応してしまったのかも知れない。

墓標にある「満蒙開拓義勇軍」は、満洲の開拓と治安維持のために、15歳から19歳の少年たちで組織された。1938(昭和13)年から国が募集をかけ、訓練を経て満洲に渡った。その数は全国で8万6500人余りにのぼる。

「内原訓練所」については全く知識がなかったが、會田さんから茨城県にあったことを教わった。墓碑に刻まれていたことから想像できるのはこういうことだ。

満蒙開拓青少年義勇軍として満洲に渡るべく、茨城県の内原訓練所で訓練を積んでいた奈良県出身の16歳の西本清蔵少年が、1944(昭和19)年春、志半ばで事故に遭い、命を落としてしまった……。

満洲に渡ったとしても、敗戦後、大勢の人々が逃げまどい、ソ連軍に殺されたり集団自決したりした悲劇を私たちは知っている。青少年義勇軍も三割近い2万4千人が帰還しなかった。

いずれにせよ、80年前、国策に巻き込まれた16歳の少年が、訓練所で死んだ事実が墓標から読みとれた。

驚いたのはその2週間後だ。

私がよく参加する「ヒロシマ連続講座」を主宰する東京の元教員竹内良男さんから、フィールドワークの案内が届いた。

その目的地がなんと「内原訓練所跡地」だというではないか。

え? 内原?

あの「西本清蔵少年」が亡くなった場所?

驚いて偶然出会ったばかりの大和郡山の墓標について竹内さんに情報と写真を送ると、すぐに返信があった。

これまでに何度も内原を訪れている竹内さんによると……

「訓練所の近くにある武具池(ぶんくいけ)というところで作業中に訓練生が亡くなるという事故があって、『殉難碑』が建てられている」――。

「この事故で亡くなったのは『奈良県の2人……』とのこと」――。

思わずぞっとしてしまうほどの符合だった。

「武具池」(茨城県水戸市)撮影:竹内良男氏

同時に送ってもらった「武具池」「殉難碑」の写真を眺めながら、私は、この池で「西本清蔵少年」は事故に遭い、慰霊のための「殉難碑」が建てられたのだろうか、と考えた。

そして、どうして事故から80年後、彼は私を呼び止めたのだろう。

武具池近くの「殉難碑」(茨城県水戸市)撮影:竹内良男氏

さらに3週間後、竹内さんから続報が届いた。

その後、訓練中に事故で亡くなった2人について、内原の関係者に問い合わせていたが、以下の返信が届いたというのだ。

「武具池で亡くなった方の名前は、西本清蔵さんと谷村基洲さんです。どちらも16歳で、西本さんは小隊長でした」――!

間違いない。これで確定した。内原訓練所で80年前に亡くなった少年は、私が大和郡山で偶然出会った墓の主「西本清蔵」その人であるということが。

さらに竹内さんから詳細が伝えられた。

竹内さんがよく知る、水戸市教育委員会に所属する内原郷土史義勇軍資料館館長の関口慶久さんが詳細を調べてくれたのだ。

関口さんからは、「西本清蔵少年」らが事故に遭った際の状況を記した『武具池は語る』という手づくりの冊子の一部をデータでいただいた。それによると事故のあった1944(昭和19)年4月3日、西本少年らが所属する「奈良県中川清一中隊」の216人は、兵庫中隊その他の中隊と共に武具池の堤防を築く土木工事に従事していた。昼休みが終わり、午後の作業を再開した直後に、土砂崩れが発生し、西本少年ら6人が生き埋めになったのだという。

『武具池は語る』(関口慶久氏提供)

「大和田正氏の証言」として書かれている緊迫の場面を引用する。

魔の時間、正に一時二十分、ああ、何たる悲惨!作業開始後僅かに二十分のでき事。女子青年達は泣きわめき、訓練生の多くはただうづくまる者多し、

六名の訓練生の姿なき姿求めて掘りに掘る

中隊長と私達は、用具を用いず、無我夢中で心に無事を念じつつ、爪がはがれたのも気付かず、名を呼び続け、ここぞと思う地点を掘りに掘った。

幸にも六名中、四名は程なく次々と救出することができた。……掘れども掘れどもあと二君らしい何ものにも触れることができない。時は刻々として過ぎ、遂に四十分を経過した。

四十分後に生けるが如き右手が!

中隊長のお声はかれてもうでない。私が掘りあてたスコップの柄、その柄をたよりに土を掘り始めた、間もなく温いものにふれた。これこそ小隊長西本清蔵君の生けるが如き右の手であった。

涙 涙 涙

私達は抱きかかえ、築堤上の中央広場に運び、人工呼吸を替る替るで全力を尽した。すぐ次に発見した谷村基洲君の赤くほてった顔に中隊長は自分の顔を何度も何度もすりつけ暫く泣いた。ついに十七才の美少年

「西本、谷村両君は武具池の人柱と化した」

この人柱こそ奈良県郡山町西本清蔵君、奈良県生駒郡北倭村(註・きたやまとむら:現在の奈良県生駒市)谷村(もと)(くに)君である。

後で中隊長と共に加藤完治先生のところに参りまして深くこの度のことについてお詫びを申し上げますと、ただ加藤先生は両眼からハラハラと涙をこぼされ 肉親の子を失える父の姿を見るのみであった。

『武具池は語る』によると、奈良県中川中隊の隊員たちは、事故のわずか半月ほど前の1944年3月15日に内原訓練所に入所したばかりだった。

内原訓練所は茨城県東茨城郡下中妻村内原(現・水戸市内原町)に1938(昭和13)年設けられた満蒙開拓青少年義勇軍養成のための施設で、満蒙開拓を推し進め、「満蒙開拓の父」と呼ばれた加藤完治(1884~1967)が、所長を務めた。

訓練所では訓練生60人で一小隊を組織し、五つの小隊で一中隊とするのを基本とした。特徴的な円形の「日輪兵舎」で共同生活を送っていたという。

当時の文献によると、訓練生は中隊長を中心に「早朝の起床から礼拝、学科、教練、武道、体操、作業、実習を行つて、就寝する迄毎日規律正しい緊張した生活を二か月以上続け義勇軍たる資格を錬磨し、渡満の勢揃へ」をしていたという。

そして訓練生の中から「修行に精進し、模範訓練生として自治的な共同生活の中核となつて活動するに足る適格者を選定し、凡そ四か月の訓練を施して、小隊長の任務に当らしむる」ともある(清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』1941年2月、明治図書。清水久直の肩書は「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所学事課長」となっている)。

亡くなった西本清蔵少年は小隊長だったというから、模範的な訓練生だったに違いない。

一方事故のあった武具池の改修工事と下流一帯の土地改良は、1943(昭和18)年末に着手されたものだった。

周辺の水不足を解消し、食糧を増産するため、貯水池を整備し、武具池の南側に高さ10メートルの石や岩石を積み上げた堤防を築こうというもので、工事には周辺の村民のほか、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生2000人が加わった。延べ7万人の手で7か月を要した大工事は、翌1944年6月に完成し、付近の農業の収穫量は倍増したという。

西本清蔵少年と北村基洲少年を悼む「殉難碑」は、1951(昭和26)年に、当時の下中妻村(現在の水戸市西部)をはじめとする耕地整理組合によって武具池の堤防の西端に建てられたのだそうだ。

ところで大和郡山市の西本清蔵少年の墓標も、近世の墓標に詳しい関口さんによると珍しい形だという。15~6歳の少年の墓であれば通常、法名は「2字+信士」程度の表記で、しかも家の墓標に追記されることが多いそうだが、この墓標は西本少年単独のものだ。正面に刻まれた「妙法 義勇院報国日清居士位」という法名は、「院号+4字+居士」という異例の構成で、「義勇」「報国」といった文字を当てているところが、単なる「殉職」ではない、当時のこの事件の取扱い方が窺える――という。

「来世墓地」で偶然出会った西本清蔵少年に導かれるように、その2か月余り後に、「内原訓練所跡」を訪ねることになった。いま、跡地には日本農業実践学園の農地が広がっているという。

内原訓練所の所長だった加藤完治は、戦後、日本農業実践学園の前身「日本国民高等学校」の校長も歴任した。青春時代を訓練所で過ごした人々の間では、所長時代の加藤を慕う声も多かったという。  

加藤完治(1884~1967)

しかし、貧しい農村を救うために、農本主義を掲げ、満洲開拓を政府や軍部に働きかけた彼の活動は、同時に軍部にいいように利用された。満洲への移民はソ連に対する盾になると軍部は考えたのだ。しかし移民たちは農民であって、軍人ではない。その結果、国策としての満蒙開拓と青少年義勇軍は、取り返しのつかない大きな犠牲を生み、禍根を残した。

その大きな歴史の波のなかで埋もれかけていた西本清蔵少年が、何を語りかけて来るのか。現地で確かめたいと考えている。

〇大牟田聡(おおむたさとる)
1963年広島生まれの広島育ち。毎日放送(MBS)で長く記者、プロデューサーとして働き、現在監査役。仕事を離れ、近現代史をたどるフィールドワークに足を運ぶ無類の映画好き。

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