大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」79 暗黒の地方部次長編1 安富信

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恩師の死、報じる社報

 1999年5月1日、大阪本社地方部次長に異動、着任した。社内的には課長職から次長職への昇進・栄転の人事だが、全く嬉しくなかった。楽しい松江支局長、家族とゆっくりと暮らす生活に慣れてしまったのか、はたまた「お山の大将」が気に入っていたからか。とにかく、本社になど戻りたくなかった。それも、地方部次長なんて最悪のポストだった。だから、これから約6年は地獄の日々と言っても過言ではない。なので、出来るだけ端折っていく。
 と、ここまで書いてまた横道に逸れるが、大切な話だ。読売新聞を退職して10年が過ぎたが、社報は毎月送られて来て、チラッと目を通す。主に人事と死亡記事に。人事は、「アイツ、偉なったな」とか、逆に「また飛ばされとんな。出世せんヤツやな」などとニヤニヤして読む嫌なヤツだ。しかし、死亡記事は違う。38年間の読売人生で記者として教えてもらった人、人の生き方を教えてもらった人、反面教師、などを含めてたくさんいるが、その人たちが亡くなった記事を見るのは辛いものだ。
 というのも、今年5月号の社報に恩師2人の死去が掲載されていた。1人は、新人記者として昭和54年(1979年)に松江支局に赴任した時の支局長だった飯原正巳さん。享年95歳。確か、昭和4年のお生まれだったと思う。うちの父とほぼ同世代だったが、父は10年以上前に亡くなった。妻も読売新聞松江支局にキーパンチャーとして勤務していたから、飯原さんのことをよく覚えていて、「まだご存命なんだろうか?」と時折話していたので、先日、深く感じ入ったものだ。喪主の奥様には、美味しい手料理をご馳走になったことも思い出した。
 以前にも駆け出し時代編でたっぷり書いたが、飯原支局長は、とにかく厳しい人だった。たばこは吸わない、お酒も飲まない、誤字脱字に厳しく、新聞記者の在り方を徹底的に叩き込まれた。岡山支局長に転勤されてから、妻との結婚を告げると、「何で、オレが仲人やないのか!」と怒られた。仕方ないので、主賓でお呼びした。それから一度も会っていなかった。
 もう一人は、山崎健司さん。この方には、社会部に上がった昭和61年(1986年)頃にお会いした。社会部次長だった。猛者揃いの社会部の中で、ほとんど事件取材などしたことのない非武闘派、文化的な次長だった。事件記者を目指していた筆者には縁遠いはずだったが、何故か気に入られ、よく飲みに連れて行ってもらった。今は無くなってしまったが、梅田のお初天神の境内の中にあった小さな飲み屋がお気に入りで、日本酒をちびちびと飲みながら、文化的なお話が好きだった。「事件記者を目指している」と言ったら、「君は意外に話題モノの記事の方が上手いよ」と言われた。山崎さんはその後、文化部長、編集局次長などを歴任された。享年85歳。お二人のご冥福をお祈りします。
 ふと考えてみると、お世話になった方も多く亡くなられた。初任地で最もお世話になり、地方部次長時代もご迷惑をかけた、清末良一さん。5期上で、50代そこそこで亡くなられた。地方部次長、神戸総局長を歴任した。それから、永遠のライバルである松本敦至さん。昭和60年(1985年)に京都支局で会った。歳は彼が1つ上だったが、入社が2年下だったので、「先輩」と呼ばれて散々、祇園界隈で飲んだ。いや、毎日夜明けまで飲み倒した。藤原茂さんや浪川厚次郎さんらと。河原町二条、「未明の路上首締め事件」を思い出す。その松ちゃんとは、その後も相前後して神戸総局次席や地方部次長で競った。筆者が編集委員になって地方部長を譲ったつもりだったが、彼もならなかった。50代半ばで亡くなってしまった。
 もっと早く40歳代後半で亡くなったのが、同期の上杉成樹さん。稀代の特ダネ記者は読売辞めてTBSに移り、警視庁クラブでキャップを勤めた後、死亡した。仕事が趣味で唯一の楽しみが麻雀だった。強かった。地方部次長時代によく飲んだ吉田満穂さんは60歳代前半に、社会部府警捜査一課担当時代にサブキャップとして原稿を見てくれた藤井康博さんも70歳を少し超えて亡くなられた。吉田満穂さんの親友だった若松さんも最近、死亡した。このほか、松江支局時代の先輩記者たちも多く亡くなった。皆様、本当にお世話になりました。

働き詰め、事件担当次長

明石歩道橋事故(多分事故直前)               鳥取県西部地震(2000年10月)

 で、地方部次長に戻ろう。地方部は大阪本社の社会部管内以外の総支局、支局を統括する部署である。社会部管内とは、大阪府内と阪神支局管内(阪神間の西宮、芦屋、尼崎、三田などの7市1町)。神戸市など兵庫県内の他の市町は地方部で、四国、中国(山口県を除く)、近畿プラス福井県と三重県の一部が管内だ。
 本来の地方部次長の仕事は、この総支局から上がって来る全国版用の記事をチェックして、一面や二面、社会面などに記事を配置する役目だ。次長、主任、帳付けと呼ばれる一番若い記者の3人1組で朝刊当番(泊まり)、夕刊当番(日勤)、どちらでもない日勤という風に勤務する。5、6班に分かれるから、本社地方部自体は、次長が6、7人、主任が5、6人、帳付けが5、6人。部長と筆頭次長(平常泊まり勤務はしない)を入れて20人弱の部署だ。
 しかし、大きな事件、事故や地方県政の重要な局面があれば、本社地方部から次長を含めた応援部隊が総支局に入る。若くて事件取材の経験がある次長は、主に事件担当次長と呼ばれ、年に何度も総支局に応援取材に行く。
 筆者が地方部に呼ばれたのは、この事件担当だった。だから、帰りたくなかったのだ。泊まり明け、夕刊まで日勤手伝い、翌日休みという3交代の勤務もええ加減しんどいうえに、総支局応援となると、朝から晩まで働き詰めだった。それでも、大きな事件や事故がなければ楽だが、筆者がいた1999年から2005年は様々な事件事故が頻発したうえに、原発事故、徳島県政史上の重要案件などが重なり、もう大変だった。
 その中でも、思い出深いのは、明石大蔵海岸での花火歩道橋事故と、鳥取県西部地震、雪印乳業事件、テルクハノル事件(京都)もあった。詳しくは次回へ(つづく)

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