大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」70 安富信

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  こう書いて来たら(どう書いて来たんや!とツッコミが入りそうだが)、何だか神戸総局時代は、苦しくて悲しいことばかりのようだが、そうでもなかった。新聞記者は、夜の会食が大好きだ。神戸総局でも、加藤総局長やデスク陣は若い記者たちの夜回り取材を待つ間、夕食を一緒に摂る。当時の神戸総局は花隈城跡地前にあったので毎晩のように元町周辺の飲食店で会食した。

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「2度目のがん」メッセージの2日後の死

 と、これから楽しい話を続けようと思っていたら、悲しいLINEが来た。大阪社会部で記者をしているKさんからだ。「岩井さんが亡くなりました」。驚いた。この連載でたびたび登場したIさんだ。神戸総局編の酒鬼薔薇聖斗事件の冒頭で明石通信部から車で現場近くに来ながら報道陣の渋滞に捕まり、マイカーを歯医者さんの駐車場に乗り捨てた、と書いた記者だ。 さらに、彼が松江支局長時代にお酒を飲んだ時、「連載に安富さんの黒歴史を入れてくださいよ。楽しみにしています」と不敵な笑みを浮かべた、と書いた人だ。実は、彼が亡くなる2日前にLINEをもらっていた。まさか!だ。故人の了解はもらえないし、私信だが筆者の責任で紹介する。
「いつも、メール楽しく読ませていただいています。黒歴史もかくべきと、不適な笑みを浮かべたり、歯医者の駐車場にかってに車を止めたりと、かなり感じの悪い人物としてえがかれていますが、自業自得ですね。ところで、またがんになってしまいました。昨年末、再び、胃にがんがみつかりました。最近、髄膜に転移したことを強く疑わせるデータがでてきて、本人には明言こそしないものの、積極治療から、緩和ケアにシフトしています。さらっとですが、4月に『今日のノート』で取り上げたところ、かなりの反響があったようです。大阪讀賣もまだまだ捨てたもんじゃないと思いますよ」。

筆者のパワハラ「被害者の会」

 2度ほど、連載で取り上げた場面がお気に召さなかったようだ。彼は筆者の記者時代というより、デスク時代からの付き合いで、ずいぶんと厳しい小言を吐いた多くの後輩たちのうちの1人だが、神戸総局次席、後に地方部次長時代も一緒で、かわいそうなことをした、と反省している。読売を辞めてからも、何度か酒を飲んだ。その度に、デスク時代の理不尽な言動に対して率直に苦言を呈してくれた。
ある日、酔ったついでに聞いた。「オレ、今、読売にいたら、何か月持つかな?」。彼は言った。「何か月?バカな。数日どころか、数分も持ちませんよ」。つまり、筆者が昔やっていたパワハラ、セクハラ満載の言動について、こう表現したのだ。
ついでに書く。たまに読売の後輩たちと飲む機会がある。彼らは「被害者の会」とその飲み会を称する。杯を重ねるにつれて、彼らの“自慢話”が始まる。どれほど安富に理不尽なことを言われたか!だ。出るわ、出るわ。ほとんど筆者は覚えていない。加害者は忘れていても、被害者は忘れない、という見本だ。その中で、神戸総局時代に兵庫県警担当だったT記者のことを思い出した。

かつて読売新聞神戸総局があった花隈の土地。現在は駐車場になっているが、ここに3階建ての古い建物だった。
総局裏の坂道(真ん中の写真)。ここをT記者はとぼとぼ歩き、総局の裏口(写真右)から入ってきた。

 彼は当時、入社4年目。決して原稿が上手ではなかった。はっきり言って下手だった。お節介な筆者は毎日、夕刊が終わる午後2時過ぎから、原稿の書き方を教える「作文教室」を開いた。本人が嫌がるのを、県警キャップのYさんが連れて来た。県警本部から総局まで歩いて5分。T記者が被害者の会でつぶやいた。「あの5分が無茶苦茶、嫌やった」。

「癌になったのは安富さんのせいだ」

 話を岩井さんに戻そう。そんな神戸総局時代の後、彼は本社生活情報部に異動になった。その頃、胃に癌が見つかり、入院した。先のYキャップが「岩井君が癌になったのは、安富さんのせいだ」と冗談っぽく言った。気が小さい筆者はこの言葉が気になって見舞いに行けなかった。数年後、彼と地方部で一緒になった。癌は寛解した。毎夜のように、飲みに行った。
 ある夜、酔った彼に言われた。
「ぼく、社会部に行きたかったんですよ。でも、安富さんが行かせてくれなかった」
 確かに、神戸総局時代の彼の働きぶりを見て、社会部には向いていないと思い、口に出した事もある。しかし、それは、彼が優秀な記者じゃないと言ったのではない。あくまで事件記者には向いていない、と感じただけなのだが、彼はずっと文句を言いたかったようだ。
 かくの如く、筆者のパワハラ体質、人の心が読めない性格は治らないようだ。この連載でも、岩井さんに謝りたくて書いたつもりだったが。
 申し訳ありません。岩井孝夫さん。2023年11月23日没。享年57歳。ご冥福をお祈りします。

阪神・淡路大震災3年目の労作

 岩井さんが書いた記事を紹介する。
 左上は、LINEに「大阪讀賣もまだまだ捨てたもんじゃない」と書いたコラムだ。ほかの3つの記事は、阪神・淡路大震災3年目を迎えた1998年1月に岩井さんとN記者が協同で書き上げた労作である。N記者が街を歩いて聞き込んできた「ボランティア千の伝言」をじっくりと取材して、1面、社会面、地域版に書き分けた。
 そう、筆者が神戸総局に来た本来の使命は、阪神・淡路大震災を書き続けることだったのだ。そう思い出して、3年目の1月17日前後の記事を検索した。実に多くの記事が出て来た。震災3年目、多くの記者が現場で取材し、多くの思いを書き残していた。神戸総局の記者だけでなく、応援に来た記者たちも。あれから29年を迎える。当時取材した記者たちも、50歳前後だ。あの時の思いを覚えているだろうか?(つづく)

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