3月4日、大阪・十三の第七芸術劇場でドキュメンタリー映画「ただいま、つなかん」上映後、トークイベントが行われた。その模様を報告します。
映画「ただいま、つなかん」
東日本大震災で被災し、海難事故で大きな喪失を抱えた「つなかん」の女将、一代さんと、震災当時に学生ボランティアだった若き移住者や仲間たちが、ともに歩み積み重ねてきた10年以上にわたる歳月を描いたドキュメンタリー映画。冒頭の写真(©️2023 bunkakobo)が一代さん。
民宿「唐桑御殿つなかん」は宮城県気仙沼市唐桑町鮪立(からくわちょう しびたち)にある。気仙沼市は、宮城県の一番北部に位置し、世界三大漁場と言われる三陸海岸の恵みを受けた、漁業と水産業の街。中でも鮪立は、古くから漁業文化のある地区で、鮪などの遠洋漁業で栄え、漁師たちが競うように建てた大きな立派な家は、いつしか「唐桑御殿」と呼ばれるようになった。
2011年3月11日、東日本大震災発生。多くの学生ボランティアが気仙沼・鮪立へ。後に民宿に生まれ変わる「つなかん」は学生ボランティアたちが寝泊まりする一大拠点となった。
学生ボランティア、「ボランティアで入った唐桑町の人たちに育てられたとすごく思います」
トークイベントは監督の風間研一さんと学生ボランティア論が専門の近畿大学教授・西尾雄志さんが登壇した。
風間監督が西尾さんを紹介する。
「日本財団の学生ボランティアセンターのセンター長を務めていた西尾さんをお呼びしました。東日本大震災当時、どういうことをされていましたか」
西尾さん
「東京で学生ボランティアの支援事業を担当していました。学生たちに研修を受けてもらい、被災地までの交通や宿泊先をこちらが手配して現場に送り出す、こういうことをやっていました」
監督
「どのくらいの期間、どれぐらいの学生ボランティアを送り出したのですか」
西尾さん
「最近まで送り出していて、これまで数千人規模になります。東日本大震災が起こって、最初は募金活動から始まりました。募金活動も学生たちが熱心に手伝ってくれました。4月中旬ぐらいに初めて、学生たちが現地に行きました」
監督
「発生からまだ、1か月の段階で現地に行ったんですね」
西尾さん
「初期の頃から現地に入って、がんばってくれました。当時、迷惑ボランティアとけっこう、言われて、混乱しました。日本は災害列島なので、今後のことも考えて、少しお伝えします。被災地は、住民が自分のことを自分でできる状況になれば、それからは必ず、ボランティアが必要になります。準備なしで被災地に行くのはまずいですが、準備をきちんとした上で行くことは被災地にとって非常に重要なことです」
映画に気仙沼でボランティアをする加藤拓馬さんが登場する。
監督
「東日本大震災当時、彼は大学4年生でした。就職が決まっていましたが、会社を休んで、4月から気仙沼に入って、ボランティア活動を始めます。西尾さんは拓馬さんをよく知っているそうですね」
西尾さん
「日本財団ボランティアセンターの前、大学生のボランティアセンターにいました。そこで僕が担当していたプロジェクトに彼が大学1年生の時、参加していました」
監督
「4月から新入社員というタイミングで被災地に入る、相当な決断というか、悩みもあったと思うんですが、拓馬さんはどういう様子でしたか」
西尾さん
「僕からみても、もうちょっと悩んだ方がいいんじゃないかと思いましたが、彼は「行きます!」と、まっすぐ突撃していったような感じでしたね。彼の周りに何十人の仲間が集まって、支援会をつくって、カンパを募ったり、いろいろな報告会の機会をつくったり、していました。仲間の存在が大きかったと思います」
今、「つなかん」は民宿「唐桑御殿つなかん」。大震災前、そこは菅野和享(かんのやすたか)さん、一代(いちよ)夫妻の自宅だった。大震災が発生し、3階まで津波が襲い、天井は抜け、壁ははがれ、家の中は泥だらけだったという。住宅の基礎部分や柱は傷つかなかった。菅野さん夫妻は、学生ボランティアの依頼に応えて、自宅を学生ボランティアのために開放する。学生ボランティアたちは、そこを「つなかん」と呼んだ。「鮪立」の「鮪(まぐろ=ツナ)」と「菅野」の「菅(かん)」からつけられた。
監督
「「つなかん」のきっかけをつくったのは、拓馬さんです。菅野さんの自宅は津波の被害を受けましたが、住宅の基礎や柱などはしっかり残っていたんです。拓馬さんが一代さんに「寝泊まりさせてほしい」と提案します。一代さんが喜んで受け入れて、「つなかん」が始まりました。拓馬さんなくして、「つなかん」はなかった、と言っても過言ではありません」
西尾さん
「彼は最初、災害ボランティアで現地に入って、その後、街おこしの社団をつくって、今は、若手を育てようという探求学習をやっています。彼を14年間、見ているわけですが、学生時代は金髪でピアスして、大学を卒業した時は、偉そうな言い方ですけど、「コイツ、大丈夫かな」という気がしていました。ボランティアで入った唐桑町の人たちに育てられたとすごく思います」
学生ボランティア、「唐桑に帰ります!」と再び、唐桑へ。そこには迎えてくれる人たちがいる
トークイベントは「つなかん」の話に。
監督
「一代さんが学生たちを「つなかん」で迎えるシーンが出てきます。唐桑町には、一代さんのような人が実は、何人もいて、外からくる人を迎え入れる土壌や雰囲気が他の地域に比べると、あるのかなあと感じます」
西尾さん
「印象に残っていることがあります。学生ボランティアは必ず、東京で研修を受けてもらいます。僕が研修をしていると、また研修を受けに来る学生がたくさんいるんです。「また、行くんだ」と聞くと、「そうなんですよ。唐桑に帰ります」と言うんです。「唐桑に帰る」という言い方が不思議でした。辞書を引くと、「帰る:本来居る場所への移動」で「戻る:一時的に居る場所への移動」。彼ら彼女らにとって、ボランティアの地が本来の場所になっている、それが不思議でした。この映画のタイトル「ただいま、つなかん」そのままです。唐桑に帰るんだ、唐桑に迎えてくれる人がいるんだということです」
監督
「映画のタイトル案はたくさんありました。みんなで話し合って、すぐに「ただいま、つなかん」と決めました。今、常連のお客さんがたくさん「つなかん」にはいるんですけど、お客さんは到着した時、「こんにちは」とか「どうも」とかではなく、「ただいま」と言って入るんです。一代さんは「お帰りなさい」と迎えます。これが「つなかん」のやり取りです」
ボランティアで訪れた被災地に移住する、元学生ボランティアたち
加藤拓馬さんは震災の年の4月に唐桑に移住。加藤さんだけではなく、奈良県出身の内田祐生(さちを)さんは2011年9月、学生ボランティアに参加したことがきっかけで「つなかん」と出会い、2014年4月、唐桑に移住。東京都出身の根岸えまさんは、気仙沼で震災ボランティアを経て唐桑へ、2015年4月、唐桑に移住。兵庫県出身の佐々木美穂さんはハンセン病回復村でのボランティア参加の中で、震災直後にハンセン病と縁のあった唐桑へ来たのが「つなかん」との出会い、2015年4月、唐桑に移住。
西尾さん
「宮城県石巻市、気仙沼市、岩手県の3か所に、学生ボランティア何千人が来てくれましたが、移住者が増えて、移住先で結婚して子どもがたくさん生まれたのは、気仙沼だけです。気仙沼の唐桑に何があったのか、この映画が描くドラマがあったんだなあと感慨深く観ました」
監督
「さちをさん、えまさん、みっぽさん。移住した当初から知っていますが、みんな、行動力や発想がすごいなあと思います」
西尾さん
「僕にとって、学生のイメージが強いので、「地域の人に迷惑かけんなよ!」とか「ちゃんとあいさつしろよ!」と言っていた学生が、本当にがんばったんだなあと思います。映画のナレーションを担当した世界のケン・ワタナベに名前で呼ばれているのがうらやましかったですね(会場、笑い)」
映画のナレーションは俳優の渡辺謙さん。趣味は「気仙沼」。東日本大震災の発生直後から支援に動き始め、放送作家・小山薫堂さんとともに「kizuna311」と題した復興支援サイトを立ち上げる。震災発生から1か月後には避難所を巡る。2013年に気仙沼の港にカフェ「K-port」をオープン。
監督
「移住した彼ら彼女らを見て、「こういう移住生活ができる」、「移住するとこういう仕事ができる」と参考にして、また、どんどん移住する、こういういい循環が気仙沼で起きているように感じますが、どうですか」
西尾さん
「災害ボランティアが終わると、ボランティアは街づくりの活動に移っていきます。地域が求めている大きなことは、人口減をどうするかということです。先々月、気仙沼に行き、移住した元学生さんたちがたくさん集まってくれました。もう子どもが10人以上いるんです」
大学でボランティアを教えている西尾さんがこう説明する。
「ボランティアには3つの条件があります。まず、自主的にやること。上から命令されてやるものではない。2つ目、お金が目的ではない。非営利的なもの。3つ目、公的な活動。この3つ目に注目します。ボランティアセンターで紹介された場所で子どもやお年寄りのケアはボランティアです。家に居るおじいさんやおばあさんをケアしても、それはボランティアと呼びません。唐桑の場合、学生ボランティアが何回も継続的に行くと、地元の人と関係ができて、公共性が少し変わってきて、家族みたいな家ができて、疑似家族的なことができている、映画で描かれているドラマを生んだ背景にこういうことがあると思います」
監督
「行動力がある学生たちと受け入れる土壌があって、成り立っていると思いますが、他の地域でも同じことができれば盛り上がると思いますが…」
西尾さん
「ボランティアにはいろいろあります。福祉ボランティア、国際協力ボランティア、災害ボランティア。その中で一番、効率化が進んでいるのが、災害ボランティアだと思います。たまに、災害ボランティアに行った学生から「現地であれやれ、これやれ、とベルトコンベアーに流されるようにやって、なんだかよくわかりませんでした」と言われます。唐桑の場合、学生がやっていて、ちょっと効率はよくないけれど、素人臭さがあったから、映画に出てくるドラマが生まれたような気がします」
「つなかん」を揺るがす海難事故、さらにコロナによる打撃
トークイベントは再び、「つなかん」の話へ。
民宿「唐桑御殿つなかん」は2013年10月、営業開始。
どうして「つなかん」を民宿にしようと考えたのか、一代さんはこう話す。
「ボランティアの学生たちにまた来てほしいなと思ったから」
2017年3月、海難事故。2020年春、新型コロナウイルスのため3か月休業。2023年10月、開業10周年を迎える。
監督
「一代さんの存在、あの明るさも、もちろん大きいと思います。2012年2月に初めて会った時、びっくりしました。雪が降っていて、すごく寒くて、人もあまりいなくて、まだ震災のつめ跡も残っていて、緊張感を抱いていました。一代さんに会ったら、「ようこそ!」とすごく明るい声で迎えてくれました。声は人がいないのでよく響きました。「なんだ、この人!?」と思ったのを覚えています。西尾さんは一代さんの印象はどうでしたか」
西尾さん
「ファーストインプレッションは同じです。実際の一代さんは映画そのままです。それが魅力です」
監督
「一代さんはある種、偶然、民宿の女将さんになって、仕事を始まるのですが、不思議とごく自然と女将さんをやっているように見えます。一つ一つの出会いを大切にしています。実は、いろいろな人が来ていて、いわゆる一般の人もいれば、すごく大きな会社の社長さんも来ています。すべての人に対して、同じように接するんです。全力で迎えて、全力でおもてなしして、全力で福来旗(ふらいき)、船を見送る時に振る旗ですが、車がいなくなるまで振る、それが一代さんらしさでもあります。それで、みんなが一代さんにひかれて、どんどん会いに行きたい、となっています。僕も根本的に一代さんに会いに行きたい、「つなかん」に行こうと、気付いたら、もう12年、13年です。それで、集落も元気になっていきますね」
西尾さんも何度も「つなかん」に行ったことがあるという。
「冬は相当、寒いですね。夏は暑くなくすごくいいところですね。学生と一緒に泊まったこともあります。あと、ごはんがおいしい!」
監督
「ごはんが、いっぱい出てきます。夕飯はすごいボリュームです。食事の合間合間に一代さんが「これ食べて、これ食べて」と言ってくるんです。東京の家に帰ると、必ず、体重が増えています(会場、笑い)」
「つなかん」の夜は…。
監督
「50、60日、行っていますが、毎回毎回、違うメンバーのお客さんと一緒になります。みなさん、一代さんに相談事をしています。その場に僕も加わっているんです。夜中、みんな一緒になって悩み事を話し合う場ができます。いつの間にか、仲良くなって、翌朝、連絡先を交換し合って、「また、つなかんで会いましょうね」と言って、帰っていくのが、ごく普通のやり取りなんです」
西尾さん
「素敵な人が主演女優ですから、映画を観て、実際に会ってみたいなあと思ってもらえたらいいですね」
話は、一代さんの夫、和享さん、愛称やっさんのことに。菅野和享さんは、100年にわたり、鮪立湾で牡蠣・ホタテ・ワカメの養殖を営む盛屋水産の3代目社長。
西尾さん
「何度か、お会いしてるんですが、しゃべっている和享さんは、映画で初めて観ました(会場、笑い)」
監督
「やっぱりそうですか。僕も最初に会った時、「こんにちは」と言ったらスルーされたんです。ある時、和享さんの船に乗って、いくつかの牡蠣の筏を移動しながら、大きくなる前の牡蠣を海に吊るす様子を撮影しました。実は、和享さんが無言で撮影しやすいように船を動かしてくれていたんです。一代さんが「カメラで撮りやすいように、やっさんが船を動かしてくれている」と言ったからわかったんです。この一件で、嫌われていないと思って、翌日、和享さんに「おはようございます」と言ったら、また、スルーされました(会場、笑い)。本当に無口。映画で話をされているシーンがありますが、お酒が入るとしゃべるんですね、本音がもれるという感じです」
監督
「改めてですが、映画の感想を聞いていいですか」
西尾さん
「ある世界的に有名な映画監督が、ある作品を語る時、その作品は何も悪くない人が理不尽な運命に遭って…という話です。監督が言うのは、「人の世の中は非常に理不尽なものだけど、理不尽さを真正面から受け止めて、前を向いて生きていく、それが人間にとって、最も美しい姿なんだ。それを私は映画として表現していきたい」。この言葉を「つなかん」を観て、思い出しました。まさしく、映画の中で一代さんがぼそっと言っていますよね、「震災があって、事故はあって、コロナがあって、一個あっても十分だよ」。そうだなあ、どれ一つでも大変で、立ち上がれないと思ったし、観ていられないと思いましたけれど、一代さんは最終的に立って、前を向いて、生きていく。本当に美しい。それが人間の美しさなんだ。率直な感想です」
監督
「一代さんは、強い方だとか、明るい方だとか、いろいろな方が印象を抱いていると思います。僕の印象は、すべてを受け入れる方。一代さんは昔から、「与えられた運命を愛せよ」と言います。そもそも、一代さんは岩手県久慈市の出身です。久慈の港側ではなくて山の方の出身です。たまたま、港に行った時、和享さんと出会って、3か月後には結婚、気仙沼に来ることになりました。すごく直観で判断してきた人なんです。はじめて、牡蠣の養殖の仕事をすることになったんですが、嫌になったそうです。その時、義理のお父さんに、和享さんのお父さんですが、「与えられた運命を愛しなさい」と言われたそうです。その言葉を受け入れて、この養殖の仕事をわけがわからなかったけど、受け入れて、がむしゃらに仕事をしたそうです。そして、この地域で一番の牡蠣の早むき名人になったんです。この話を震災当時、聞きました。その後、事故があって、コロナがあって、一代さんに改めて聞くと、必ず出てくるのは、「与えられた運命を愛せよ」。この言葉があるからこそ、一代さんはすべてを受け入れて、かつ、受け入れた上でどんどん前に進んでいく、それが一代さんの姿だと思います」
「友人って何だろう、人間関係って何だろう」を考えてほしい
映画「ただいま、つなかん」は、3.11からコロナ禍まで、たくさん笑ってたくさん泣いてこころを紡ぐ民宿「つなかん」の物語。トークイベントの最後、監督が映画を通して伝えたいこと、を語る。
「10年以上取材をして、その間、コロナがありました。コロナがあって、より一層、「つなかん」の不思議でもあり、奇跡と言うと大げさですが、貴重な場だということがより際立ったと思います。コロナがあって、私もそうですが、みなさんも、人付き合いとか、人間関係とか、人との距離感とか、いろいろ考えたことがあったと思います。「つなかん」という場に集うみなさんがどう人付き合いをしているのかを観て、友人とは何だろうか、絆という言葉もありますが、人間関係って何だろうか、感じてほしいと思います」
●映画「つなかん」公式サイト
〇民宿 唐桑御殿つなかん
●ぶんや・よしと 1987年MBS入社。2021年2月早期退職。 ラジオ制作部、ラジオ報道部、コンプライアンス室などに在籍。 福島原発事故発生当時、 小出裕章さんが連日出演した「たねまきジャーナル」の初代プロデューサー
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