癖の強い部長の引きで社会部復帰へ
あまり思い出したくない時代だから、さっさと行きます。結局、デスク見習い期間は1年半で済んだ。社会部長がY本さん(故人)からKさんに代わったので。Kさんは、前に書いた「お腹の赤ちゃんが助けてくれた」のデスク。癖の強い人で他人の原稿をズタズタに書き直すので、社会部ではあまり人気はなかった。同期に齋藤喬さんや河井洋さん(いずれも故人)ら優秀な記者が揃っていたが、何故かY本さんが一番先に社会部長になり、2番目にKさんがなった。黒田軍団の崩壊などの影響を受けた社内勢力の不思議さ、かな?
ついでに言えば、今情報番組でコメンテーターとして活躍中の大谷昭宏さんは、ご本人の体験談を元に漫画「こちら大阪社会部」を連載したが、Kさんは嫌味な一課担の先輩で、本名を連想させる「鴫(しぎ)さん」として登場する。
このKさんが何故か筆者を気に入ってくれていて、平成5年(1993)10月1日付けで社会部に復帰させた。その年の夏、あまり気が合わなかった社会部遊軍のFさんと1年先輩のKさんが組合のオルグで京都に来た。
組合のオルグって今の若い人は知らないだろうが、組合の活動方針などを地方支局の若い記者に伝える恒例の行事だ。京都、神戸などの近場だと日帰りだが、地方は泊まりがけ。要するに本社組合員の息抜きだ。FさんはY総局長と出身地が同じ滋賀県で高校の先輩後輩とかで仲良く、「今夜は安富をちょいと借ります」と言って飲みに連れ出し、その席上、「苦労してるやろ。秋には社会部に帰すからな」とまるで社会部長のように辞令を出した。嘘じゃなかった。
京大の権力者・矢野暢氏をバッサリ
わずか1年半のデスク見習いだったが、ほとんど得るものはなかった。ただ、後半、面白かったのは、この年の春に本社から異動してきたT村さんが権力者をぶった斬ったことだ。T村さんは、大学回りとして京都大学記者クラブに所属していた。その彼女の切っ先が向いたのが、当時京都大学で絶大な権力を誇示していた矢野暢さん(故人)。京大東南アジア研究センター所長だったこの年、女性秘書から「暴力を用いた性的関係の強要があった」とセクハラの告発を受けた。T村さんはこの情報をキャッチし、全国版に書こうとして、筆者に相談した。過去に矢野所長の取材をした際の傲慢な態度を体験した筆者はもちろん、執筆を勧めた。しかし、筆者の前任で大学回りをしたH次席は「矢野さんは立派な学者だ」と反対した。
総局内でも侃侃諤諤の議論が起こり、最終的にはY総局長の判断で、出稿することになった。果たして、読売の特ダネを各社が追随して矢野所長は辞任に追い込まれた。京都市の東福寺に修行僧として身を隠すが、写真週刊誌などで報道され、寺にも抗議が寄せられ、退去せざるをえなくなる。後に告発内容が虚偽だとして損害賠償請求訴訟や辞職の取消しを求める訴訟3件を起こすが、いずれも棄却された。1999年ウィーンの病院で客死。享年63歳だった。
絶大な権力者を倒すことは、新聞記者の醍醐味である。及び腰になるか思い切って行くか? そこが分岐点だ。今、こうした記事がほとんど見られない。寂しい限りだ。一昨年夏の東京五輪での裏で蠢く権力者たちが最近、ようやく炙りだされて来た。しかし、これは東京地検の仕事だ。新聞社の矜持はどこへ行った? 安倍前総理の旧統一教会との癒着を暴いたのは、一発の凶弾だったが。
KBS倒産の危機「書かない勇気だ!」
もう一つ、ほろ苦いチーム取材を思い出す。平成4年(1992)の夏頃だった。大阪を中心に展開していたイトマン事件が京都に飛び火してKBS京都(京都放送局)のお家騒動に波及し、京の名門局が倒産の危機に見舞われた。非常に複雑な背景がある問題だったが、簡単に言うとKBSと京都新聞の内紛にフィクサーの許永中氏や元キョウトファンド会長の山段芳春氏(故人)らが絡んだ。さて、この難しい問題をどう報じるか? 朝日新聞がかなり先行取材を続けていて、しきりに「KBS京都倒産へ」とか「会社更生法の申請へ」と打って出た。読売京都総局でも取材班が結成され、筆者がキャップに任じられた。ヤバいなぁ、難しいなぁ! うちが書けば、KBSは確実に倒産に追い込まれ、放送が途絶えるかもしれない。1か月以上の慎重な取材が続いた。
遊軍のM原君、M君、府警キャップのH中君、脇君、亘君らがメンバーだった。微妙なことが多くて決定的な材料が掴めない。H中君が山段氏と単独会見し「KBSを見放す」というニュアンスを掴んだ。書くか? と思ったその時、KBS京都の組合幹部と接触して来たM君が待ったをかけた。「組合幹部は絶対にKBSは潰さない」と言ってます。掲載は見送った。総局長や次席からは何度も「書けよ」と言われたが、結局、取材班は1行も原稿を書かなかった。この問題は、筆者が転勤して1年後の平成6年(1994)9月、KBSは会社更生法の適用を申請して事実上倒産したが、放送自体は1日も途切れることなく継続し、同7年(1995)10月に社名を「株式会社京都放送」に変更、現在に至っている。
当時は、「書かない勇気だ!」とかうそぶいていたが、今考えても正解かどうかわからない。
京都の影の黒幕……書きたかった
第二期京都時代は終焉を迎えたが、一つ心残りがあった。それは「闇に蠢く京都の黒幕」を暴くことだ。筆者が県版デスクをしている横でその作業が続けられた。連載のタイトルは「京都生態学」。Y総局長の肝入で取材が進められ、平成5年1月から翌年3月にかけて連載された。筆者も参加したい、と申し出たが、「そのうちな」と言われて、途中で異動になった。その後出版され、「京都影の権力者たち」というタイトルになったが、中身はなかなか面白い。Y総局長が書いた「まえがき」を紹介する。
京都は得体の知れない街である。お寺を見て、懐石料理を食べ、産寧坂あたりで清水焼など買って帰る観光客の目に映る街のイメージは、それはそれで実像の一面をとらえてはいるが、しかし実は、そんなイメージの向こう側に、別の奇怪な世界が広がっている。おそらく京都の骨組みを構成しているのは、白足袋をユニホームにしていた人たちかもしれない。この街には昔から「白足袋に逆らうな」という警句がある。つまり、お公家さん、茶人、花街関係者、僧侶、室町の商人たちである。これらの人たちに逆らうとひどい目にあうという意味であり、今も滅多なことで事を荒立てることはない。白足袋に逆らったいい例が京都市の役人たちだった。行政権力、司法権力が表の権力とすれば、『白足袋』は影の権力者たちである。
要は、京都を裏で仕切る黒幕の存在に切り込んだものだ。総局の主要メンバー7、8人がそれぞれ、仏教会、京都府庁、京都市役所、西陣や室町に斬り込んだ。「高僧-秘められた宗門パワー」「家元-茶の湯に伝わる侘の心と権威」「花街衆-遊と美の世界の舞台裏」「御所はん―菊の御紋の向こう側」「室町の商人-生き残りをかける美の裏方」「共産党-古都で育った革新の秘密」の6章にわたった。筆者が取り組みたかったのは「大学」だった。京都大学を頂点とする学者の世界。しかし、書けなかった。
Y総局長とは次第に打ち解けた。度々、結構お高い祇園のラウンジに連れて行ってもらった。生意気な筆者はその度に議論を吹きかけた。翌朝、「昨夜も喧嘩してすみません」と謝ったら、「総局長に向かって喧嘩だと!違うよ。君が歯向かっているだけや」と笑った。異動が決まった時、彼は言った。「デスク見習いは終わりや。社会部でええ記事書きや」。ありがとうございました。横山さん。(つづく)
コメント