大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」64(大いなる番外編2) 安富信

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名プロデューサー、宮崎あおいさんをナレーターに抜擢

 前回、読売新聞大阪本社の最近の人事について書き、新聞社の経営の在り方、新聞記者の矜持について筆者の「想い」を書いた。
 そんな時、平成の初めに大阪府警捜査一課担当で一年中殺人事件を一緒に追った、現フジキャリアデザイン執行役員・営業企画部長の味谷和哉さん(65)が、わが神戸学院大学現代社会学部のマスコミ論の授業にゲストスピーカーとして来てくれ、軽やかに講演してくれた。
 味谷さんは平成4年(1992年)に大阪読売新聞を辞め、フジテレビに移籍した。「新聞記者大好きだったんですがねえ。事件より教育問題とかの社会問題をやりたかったんですよ」と辞めた理由を話す。現在、フジキャリアデザインで人材育成に尽力されているが、フジテレビ時代はチーフプロデューサーで、「ザ・ノンフィクション」という名ドキュメント番組などを500本以上も制作した。国内外で多くの芸能人とロケを敢行した。まだ若かった女優の宮崎あおいさんをドキュメンタリーのナレーターに起用するなど、業界の常識を覆す画期的な手法を多く用いた。女優常盤貴子さんとの中国でのロケの裏話は面白く、腹を抱えて笑わせてもらった。

神戸学院大学の授業で講義する味谷氏

オープニング・エンディング曲を作詩・作曲

 100人ほどの学生たちを前に経験豊富な体験を生かした講義を90分間展開。中でも「魅力的なソフトを作るため」の5つのSとPTLが印象的だった。5つのSをStory(物語)、Suspense(吊るす、どうなる感)、Strategy (戦略)、Stance(距離感)、Splash(飛沫)と説き、PLTをPoison、Timely、Loveと説明した。上手い。その上で、自身が制作した4つのドキュメンタリードラマの短縮版を見せ、学生たちに考えさせ、新聞からテレビ制作に転身した人の真骨頂を見せてくれた。筆者は知らなかったが、「ザ・ノンフィクション」のオープニング・エンディング曲「サンサーラ」の作詞・作曲も手掛けているとか。「生きて~る、生きて~る」という一度聴いたら頭を離れない有名な曲だそうで、多くの学生たちは聴いたことがあると手を上げていた。読売の記者時代から替え歌作りが上手かったから、その素質が生きたのだろう。そして、講義後、三宮の居酒屋で一杯飲みながら、今の大阪読売について、語り合い、多くの記者が社内権力を志向する現状を憂いた。

大阪読売からテレビ局へ続々転身

実は、味谷さんが去った1990年代前半、大阪読売ではテレビ局に転身する記者が相次いだ。同期の上杉成樹さん(故人)と、ハワイで味谷さんと一緒に強盗殺人犯を逮捕した真木明さんはTBSへ。後輩のT記者はMBSへ。その他、複数人が密かにテレビ局の試験を受けたり本気で移籍を考えたりしていた。後に編集局長になった人も実はこの頃、テレビ局への移籍を検討していたことを知っている。筆者も京都総局に飛ばされた時、密かに打診があったが、新聞記者を続けたかったし、「東京住まいが嫌いだった」から丁重にお断りした。

出世も事件も無関心の孤高の人

7月上旬、わが同期昭和54年(1979)入社組で最後まで大阪読売に残っていた3人のご苦労さん会が、大阪天満の居酒屋で開かれた。記者11人と事務職4人の計15人が同期。あんまり出世した奴がいないから、「アホの54年組」と言われているがその分、仲が良く、コロナ禍を跨いで4年ぶりの同期会となった。うち2人が亡くなり、1人が行方不明。1人は男の尼さんになった。その席で、昨年9月17日に亡くなった石塚直人さん(享年68歳)を偲んで献杯した。
 石塚さんは香川県生まれ、大阪外国語大(現大阪大学外国語学部)を卒業後、大阪読売に入社。高知支局を振り出しに大阪本社地方部、広島総局、配信部などで勤務し、最後は初任地の高知支局で記者生活を終えた。ほとんどの記者が初任地での記者時代を一日も早く終えて大阪本社やそれに近い勤務地を望むものだが、石塚記者は「高知が大好きだ」と言って転勤を拒否。筆者が6年で松江支局から京都支局(当時)に転勤が決まった時には、「おめでとう! ぼくは転勤したくないから、まだまだ高知にいるよ」という変な電話を架けて来たものだ。そういう彼も2年後に転勤となったが。
 その後も、事件とかには全く興味を持たず、デスクなどの出世にも無関心な“孤高の人”だった。当時は「ちょっと変人だな」とあまり深い付き合いをしていなかった。筆者が大阪読売を辞めて大学の教員になってから出張で行った高知で酒を酌み交わし、ようやく彼の「哲学」がわかった。で、話は戻るが、ご苦労さん会の場で彼が寄稿していた「憲法とメディア」でのメッセージが配られた。その一部を紹介する。9月19日に「点描」に掲載された、とあるから、亡くなった2日後だ。

「最低のさつまわり」転じて自由な記者に

 「若者たちに発信」。これがタイトルだ。以下本文。沖縄本土復帰から半世紀を経ても、構造的に欠陥がある日米地位協定の改定はなされず、沖縄の人々が苦しみ続ける。この狭い日本の領土に原子力発電所がひしめき、原発事故の当事者であるにもかかわらず原発政策を推進。海外からの難民の受け入れは極端に少なく、難民申請の中の人々には過酷な仕打ち。貧困や格差が進むなかで、市民の血税が投入される安倍晋三元首相の国葬実施--。若い人たちには、「こんな不条理なことは許してたまるか」という気持ちで、民主主義を守るために連帯してほしい。ジャーナリズムが萎縮してしまえば、そのうちに言論の監視、規制が行われ、戦時と同じ状態になってしまう。だが、どんなときでも真実を追求する可能性がなくなることはない。(中略)新聞記者時代は、教育や平和、在日コリアンへの民族差別の問題など、わりと自由に取材することができた。思えば、入社して1年生のとき、先輩から「おまえは『最低のさつまわり』と言われたことが、私にとって都合がよかった。(中略)私は、自分のことを「ジャーナリスト」とは思ってはいない。けれども、子どものころから、頭に描いてきた新聞記者像には死に物狂いでしがみついてきた。おそらく同じ世代の記者の2倍は働いた。事実として「こうであった」ということをしっかりと出していく。それが記者の仕事だと思っている。    2022年9月9日 石塚直人
 うーん、重い遺言だ。

日航機墜落、「沈まぬ太陽」に登場した編集委員

 こう書いてきて、また一人、新聞記者を思い出した。東京読売の元編集委員の鶴岡憲一さんである。ちょうど20年前の2003年、関東大震災80年というタイミングで、大阪読売で阪神・淡路大震災などの取材経験がある筆者が、1週間ほど東京本社の編集委員室にお邪魔して80年連載のお手伝いをしたことがある。地方部次長の時代である。その際に、大阪本社で震災取材を一緒にした後輩次長が「鶴岡さんは理想的な編集委員で、多くの記者から頼りにされてます」と聞いていたので、非常に楽しみに上京した。果たして、その通りの記者だった。筆者が事前に知るところでは、日本航空を題材とした山崎豊子著「沈まぬ太陽」に新聞記者として登場し、歯に衣を着せない舌鋒鋭い記者として描かれている。彼は、1985年8月の日航ジャンボ機の墜落事故で名を上げた記者だった。
10年以上前に、定年退職されて今どうしておられるのかな?とネットを検索してみると、昨年本を出版していた。「新聞記者人生 面白きこともなき世をおもしろく」。鶴岡さんらしいタイトルだ。あっという間に読んだ。流石だ。これぞっ、新聞記者だ。(つづく)

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